早急に、という要望に応じて、リックはその電話から二時間後にジェーン・ハンナと名乗った若い女性を病棟のオフィスに迎え入れた。長袖のブラウスとスラックスにネックレスがアクセントを添え、腕にはベージュのコートを抱えている。彼女は保険会社のオフィス勤務から抜け出してきたのだ。
地上は平日の昼下がり。終業時刻にはまだ早いが、女性は疲れた顔をしていた。焦りや不安、狼狽といった感情が入り混じった表情。
気を利かせたリックは彼女に紙コップのコーヒーを振る舞ってから、その相談に耳を傾けた。
ジェーンの話を総括すると、まず彼女自身は吸血鬼の犠牲者ではないが、強いて言えば二次的な被害を被っており、且つ事の発端となった事故を引き起こした当事者であった。
さらに状況を複雑にしているのは、その事故の被害者である吸血鬼が原因となって彼女の友人が別の事故を起こし、しかし同時に件の吸血鬼は彼の命の恩人となり、今は行方知れずであるという。
友人の容態は思わしくない。しかし彼女にも彼にも、その吸血鬼に対する負の感情は微塵もない。それどころか、事故に巻き込んでしまった罪悪感と、友人を救われた感謝の念とがあり、当人を捜し出して滅ぼすのは忍びないというのだ。
それでもジェーンは決断を迫られていた。友人には死の――いや、不死の危機が迫っている。
全ては先週の木曜日の夜に始まった。その関係が、必ずしも彼らからの干渉で始まるとは限らない。
深夜十一時過ぎ。仕事を終えたジェーンは、時速八十マイルで愛車のホンダ・シビックを飛ばしていた。
彼女の自宅は市街から離れた山間部の新興住宅地にあった。商業施設もガソリンスタンドもなく利便性には欠けるものの、手頃な家賃と防犯面を考慮すれば、一人暮らしの会社員には申し分のない物件である。運転も手慣れたもので、片道四五分の通勤もさして苦にはならなかった。
グリーンデル・ドライブは、まだ新居の空家の目立つ宅地と市街を結ぶ唯一の公道である。ここではパトカーも運送トラックもまず見かけないし、普段から交通量は極端に少なく、ことに深夜ともなれば無人の私道と化す。
山林に囲まれた暗い峠道を通りかかる頃、小雨に見舞われたジェーンは、フロントガラスのワイパーを作動させた。突出した山のカーブに差しかかってスピードを落とすと同時に、視界に飛び込んできた対向車のハイビームに目を眩ませる。
カーブを過ぎて暗闇に目が慣れた途端、前方に物影を認めた彼女は咄嗟に急ブレーキを踏んだ。僅かに間に合わず、停止寸前に車体の右前方に嫌な衝撃があった。
助手席から跳ね上がり中身を散らかしたハンドバッグにさえ目もくれず、ジェーンは車が完全に停止してからもハンドルを握り締めたまま凍り付いていた。
動物――野犬や鹿ならいいと思った。けれど彼女の心臓は早金を打っていた――人を撥(は)ねてしまったかもしれない。山間のこんな辺鄙な場所に歩行者がいるはずはないのだが、酔っ払いの事故や自殺願望者の車道への身投げのニュースは時折目にする。
ショックで怯んでいたのも束の間、黙って見過ごす訳にもいかず、ジェーンはシートベルトを外して恐る恐る車を降りた。携帯電話を持って出たのは無意識の癖だ。
震える吐息を白く霞ませる寒気とちらつく小雨の中、車を回り込んで路肩を見渡した。テールランプの明かりで辛うじて見える後方の地面に、暗い色の服を着た人影がうつ伏せに倒れているのを見つけるなり、ジェーンは駆け寄って声をかけた。
「大丈夫ですか――すぐに救急車を呼びますから――」
暗くてよく見えないが、怪我をしているはずだ。頭を打ったのなら触らずに救急車を呼ぶのが賢明だろう――ジェーンは手にした電話を握り締めた。
男が呻いて動こうとするのを見て、傍らに屈んだ彼女は少しだけ安堵した。生きている――けれど重症かもしれない。
覚束ない指で画面を操作していると、男が濡れた顔を上げて苦しげに何かを呟いた。しかしジェーンは彼を宥めつつ、通話アプリに911を入力した。ワンボタンの緊急通報機能があることを失念していたのだ。
「待って、心配しないで、今――」
そこに男の手が伸びて、電話ごと彼女の手を掴んだ。その指が冷たい血に塗れているのにも、上体を起こした彼の頭部から顔の片側までが血糊で覆われているのにも、その時のジェーンは気づかなかった。
ただ男の右目が異様に光っているのは、暗闇の中でも見て取れた。テールランプの反射かと思われたその赤光は、閃くようにジェーンの胸を射抜いた。
「呼ぶな――俺を乗せろ」
男が命じると、通話ボタンを押すのも忘れて、彼女は頷いた。老婆のように立ち上がり、さらに時間をかけて男が立ち上がるのを手伝い、片脚を引きずりながら車の横へ移動するのに肩を貸し、ドアを開けて彼が後部座席に雪崩込むのを見守った。
気が付くとジェーンは運転席に乗り込み、シートベルトを装着してハザードランプを解除していた。車が路上で停止している間、後続車や対向車は一台も通らなかった。
「――帰宅途中か」
後部座席から声が訊いた。
「ええ」
「一人暮らしか」
「ええ――」
「出しな」
ジェーンはギアをドライブに入れてアクセルを踏み込んだ。
何事もなかったように走行を再開したジェーンは、思いの外冷静な自分に内心驚いていた。
自動車道を歩いていた男の過失を咎めることもできる。けれど撥ねたのは彼女なのだから、責任を持って手厚く介抱すべきであろう。警察や裁判所の厄介になる前に、少しでも彼の負担を軽減しなければ――そんな弁解じみた考えを巡らせながら、十分ほどでよく似た家屋の立ち並ぶ住宅地に着いた。
ゲートハウスの一角、自宅一階のガレージにバックで入り駐車する。シャッターの開閉も照明の点灯も、リモコンのボタン一つで操作できる。
蛍光灯の下で後部座席を振り返り、仰向けに横たわる男が血に塗れていること、そして自分の手や衣服にも血がついていることを知り、ジェーンは動揺した。特に彼の左目周囲の損傷は失明を疑うほどだった。
「あの、大丈夫ですか、こんなに血が出てるなんて……やっぱり救急車を……」
「気にするな――手を貸せ」
ジェーンは車を降りて後部座席のドアを開け、男が血の滲むズボンの脚を庇いながら下車するのを手伝った。肩を貸したまま階段を登り、二階の廊下の敷居に掛けさせる。出血は治まっているようだが、血で固まった黒髪が耳と瞼を覆い、血の気を失った顔を一層蒼白に見せていた。
いつもは主人を出迎えてくれる飼い猫も、今夜は見知らぬ客人を警戒しているのか姿を見せなかった。コピーライト、ハートでるソルどっとこむ。ジェーンが廊下の脇の小さなストレージルームから救急セットを持ち出して戻ると、男はドア枠にもたれかかって顔を歪めていた。
「病院で見てもらったほうがいいわ。救急車が嫌なら、私が街まで運転するから」
「駄目だ、医者には見せられない」
「どうして――あなた、犯罪者か何かなの?」
「犯罪者……?」
徐に男は腰を折り、押し殺したような声をあげた。それが笑い声と知れても、痛みを堪えているのが分かるだけに、その姿は奇妙だった。
「何がおかしいの――?」
「あんた、どうして俺を乗せる気になったか分かるか? 見知らぬ男を家にまで通して……」
男は無事だった右目でジェーンを見上げた。
「それは……お怪我をなさって……私の車で……」
「俺がそうするように仕向けたからさ。いいか、俺が命じれば、おまえは背けない。おまえが今夜、あの銀色の車で撥ねた男はな、吸血鬼なんだ」
返す言葉を見つけられず、ジェーンは黙り込んだ。彼女は男が強く頭を打って錯乱しているのだと思った。それならば、やはり救急車を呼ばなければ。
戸惑いながらも携帯電話を求めて階段を降りかけたジェーンを、男が呼び止めた。
「待てよ、おまえの考えている事ぐらい分かる――面倒だな。濡らしたタオルを持ってこい。よく絞ってな」
彼の言葉通り、ジェーンは引き返してバスルームに向かい、熱めの湯でウェットタオルを作って男に届けた。受け取ったタオルで顔を拭い、血に塗れたジャケットを脱ぐのを心配そうに見つめるジェーンに、男は命じた。
「染みが残る前に、車のシートを掃除してこい。俺の傷は見ない方がいい――」
ジェーンは頷き、ストレージからペーパータオルと掃除用スプレーを持ち出して階段を降りていった。
男は罵りながらポケットの多いズボンを脱ぎ捨てた。折れた右脚の骨が肉を割いて露出しているのを押し戻し、救急セットの包帯で締め上げて固定する。
大腿骨折と頭の怪我に加え、内臓も負傷したらしかった。治癒には時間がかかるだろう。
車内の清掃を終えハンドバッグを抱えて戻ったジェーンに、次は寝床を用意するよう男は命じた。日の当たらない場所――ジェーンは棚に囲まれたストレージのタイルの床に、ソファで使っている膝掛け(ドロー)を敷いた。
男は体を引きずって廊下を移動し小部屋の暗闇に収まると、他者への告げ口を禁じ、明日の晩までいつも通りに過ごせとジェーンに命じてから、柔らかいチェック模様に倒れ込んだ。静かにドアを閉めても男の暗示が解けることはなく、重症の怪我人を物置で介抱することの異常性に、彼女が思い至ることはなかった。
次々と浮かぶ疑問は胸に焼き付いた男の眼差しに掻き消され、もたげる不安は安堵へと転じる。彼の言う通りにすれば全て良くなるという、盲信めいた確証を授かったのだ。
ジェーンはシャワーを浴びて男の血を洗い流し、冷凍プレートとパンで軽い夜食を済ませると、キッチンを片付けて寝室に向かった。歯を磨いてベッドに横になっても、いつまでも寝付けなかった。何かがおかしいと、彼女の理性が訴えている――彼が吸血鬼だなんて、そんな馬鹿なことが?
何度も寝返りを繰り返した挙句、結局パジャマのまま廊下に赴き、ストレージ前に立った。
ノックをして、僅かに扉を開けて訊ねる。
「あの――いらっしゃいます?」
「動けないからな」
不機嫌な声が返ってきた。
「どうした?」
「私、やっぱり心配で……」
「罪の意識ってやつか。安心しろ、警察には通報しねえ」
「そうじゃなくて――あなたが」
「俺が?」
ジェーンは扉を開けながら手探りでライトのスイッチを探した。
「入っていい? ライト、点けるわよ」
返事を待たずに点灯された明かりに顔をしかめる男は、黒いトランクス一枚で横になっていた。右脚の包帯には赤黒い染みが広がり、上半身にも痛々しい痣が纏わりついている。
「――掛け布団も出しましょうか?」
不安げに見下ろすジェーンから、男は眼を逸らした。
「構うな」
「まだ血が出ていらっしゃるんじゃ――手当てだって殆ど何もしてないもの」
「放っておけば治る」
「でも、何か他に、私にできる事があれば――」
「しつこいな――」
迷惑そうに顔を上げて、男は吐き捨てるように言った。
「いいか、俺はな、吸血鬼なんだ。人間にできることは――限られてるだろ……」
出し抜けに彼は顔を歪めて笑顔を見せた。両の牙を目の当たりにしてもジェーンが逃げなかったのは、既にその術中にあったからに違いない。
「それは、その、血を……」
ジェーンは口篭った。彼女の中で理性と良心の呵責がせめぎ合っているのだ――そして正気が。
「そういうことだ」
男は力無く床に頭を預けた。
無言の数秒の後、ジェーンは男の傍らに進み出ると膝をつき、乾いた泥と血痕のこびり付いた顔を見下ろした。
「必要なら……どうか、私の……」
彼がそう仕向けたのか、彼女の親切心がそうさせたのか、二人の表情からは読み取れなかった。
「俺は寝床を提供してもらえば、それで良かったんだがな……」
「でも私のせいでお怪我をなさったのだから……献血に協力するのも当然です」
「献血ねえ――ま、俺は咬まない主義だし、気が変わらないうちに頂いておくか」
「咬まない……?」
「ああ、まだ人間の人生を捨てる気はないだろう」
周囲の棚を支えにして、男は何とか上半身を持ち上げた。
「俺のズボンを取ってこい。それとさっきの救急箱――」
ジェーンが頼まれた品を階段脇から取って戻ると、彼はズボンに並んだポケットのひとつからボックスカッターを取り出した。
「これで少しだけ肌を切って血を分けてもらう。不安なら消毒してもいい」
軸をスライドさせて取り出した一枚の剃刀刃を受け取り、ジェーンが救急セットのアルコールワイプで拭ってから手渡すと、男はそれを指の間に挟んだ。
「腕を出せ――肘の付け根だ。人目に付かないし、訊かれても怪我で通るだろう。猫に引っ掻かれたとか――」
ジェーンはパジャマの袖をまくって右腕を差し出した。冷たい指が触れると、全身が総毛立った。
彼女の引きつった顔を見て、男が言った。
「力を抜いていろ。血糖値を測る機械だって、毎回針を刺して採血するそうじゃないか。これくらいの切り傷、何て事はない――俺の怪我に比べればな」
ジョークとも取れる軽い口調に、しかし、ジェーンは真顔で頷いた。
支えられた腕に刃が滑り、裂けた肌から鮮血が盛り上がる。手馴れているのか、痛みはあまり感じなかった。血が流れ出す前に、男は顔を寄せて溢れる血の珠を唇で受けた。
冷たい舌が柔らかい腕の内側の肌を這い、こぼれて滴る名残だけを唇がすくう。吸い取るというよりは、舐め取ると言った方が正確だった。どんな心持でその行為を受け止めればよいのか分らず、ジェーンは困惑の中で時の経過だけを感じていた。
奇妙な施しと異様な感覚は、長くは続かなかった。男が離れてからも、ジェーンは茫然と自分の腕を見つめたまま固まっていた。
「止血しろ――貸せ、俺がやる」
反応の鈍いジェーンに代わって男は救急箱を引き寄せた。出血は僅かながら、男は腕に包帯を結びつけて軽く圧迫した。傷にガーゼを当てて大判の絆創膏で押さえる頃、ようやくジェーンは緊張を解いて息をついた。
「さあ、もういい。血が止まったら包帯を解いて寝るんだ。水分を取って――明日も仕事だろう。家を出るまでこの扉は開けないことだ。俺の事も悟られないように――」
ジェーンはその通りにした。事故のショックも然ることながら、不思議とその夜は夢も見ずによく眠れた。男の暗示が功を奏していたのだろう。
遅い朝、いつも通りの時間に目覚めてコーヒーとワッフルの朝食を摂り、出勤の支度をしても、昨夜の出来事が脳裏に浮かぶことはなかった。相変わらず飼い猫はどこかに隠れていたが、常設しているボウルの餌は減っていた。
昼頃にガレージに向かう際、閉じられたストレージの扉を目にして、初めてジェーンはそこに男を匿っていることを思い出した。しかし、彼を残して家を離れることに抵抗は感じなかった。動けないという彼の言葉よりも、あの怪我では隣室への移動もままならないであろうという了見である。
扉を開けて中を確認する気など微塵も起こらず、ジェーンはガレージに下りて愛車に乗り込んだ。外装に目立った傷や凹みはなく、シートはビニール製の人口革で、怪我人を運んだ痕跡もきれいに拭い去られている。彼女を乗せた車はゲートハウスを出て、間もなくグリーンデル・ドライブに進入した。
家では円滑に事が運んだが、職場ではそう上手くいかなかった。
事務作業の合間に昨夜の出来事が断片的に脳裏に浮かび、その度にジェーンは手を止めて物思いに耽った。男が瞳を介してかけた暗示の効果が薄れたのかもしれない。
事故のショックで揺らいだ心に付け入るのは容易だったとはいえ、片目を負傷していたのだから、その効力も半減したに違いない。ジェーンはオフィスのアクリル板の仕切りに頭をぶつけ、電話の相手を取り違え、シュレッダーにコーヒーをひっくり返し、遂には夕方のランチをアルミホイルごと電子レンジにかけて、フロア全体に火災報知機のけたたましいブザーを鳴り響かせた。
ジェーンの奇行の原因が恋か病気かを巡って同僚たちが賭けを始める始末で、それを聞き捨てならぬと案じるのは、同期に入社したコリンだった。彼がジェーンに好意を抱いているのは周知の事実で、フロアの同僚のみならず支部長までもが陰で彼を応援しているという噂がまことしやかに囁かれている。
優柔不断で積極的なアプローチのできないコリンを同僚たちは好奇の目で見守っており、それを知らないのは当の本人位のもので、その煮え切らない態度にジェーンは冷めてしまうこともしばしばあった。やや頼り無いとは言え、彼自身は優しく善人で、教養もあり、真面目な社員なのである。
コリンがジェーンを食事や映画に誘えないのは、オフィスでの勤務時間のずれよりも、彼が自分の乗用車に抱く劣等感のせいであるらしいことに、ジェーンは薄々気づいていた。秀でた才能が有る訳でもなく修士課程までを修了した彼は、高額の学生ローンの返済に追われ、就職活動の折りには中古車を購入するのが精一杯だったという。それはジェーンも名称を知らない青くて丸ぼったいセダンで、リアバンパーの角が若干へこんでいた。ジェーンは気にも留めていないのに、何かと彼は彼女の乗る去年の最新モデル車の話題を持ち出しては褒めそやすのだ。
その日もコリンはジェーンをデートに誘う口実を思いつく事ができず、仕事の合間には付箋に記号の落書きをしながらデスクで時間を潰していた。そこへジェーンの様子がおかしいという耳寄りのニュースが入った。親切な言葉をかけて高感度を上げるならば今がチャンスである――そう思い立てたのならば立派なものであるが、実際は他に男ができたのではないかという不安に押し流されて動いたのだ。
ジェーンの休憩時間を見計らい、帰宅前に偶然出くわしたように装って、コリンは休憩室にぼんやりと佇む彼女に話しかけた。
「ジェーン、君、熱でもあるんじゃないかって、みんなが心配していたよ」
「私……そんなに変?」
目の前の物事に集中していられないような、どこか上の空といったような口調だった。
「自覚がなくても、疲れてることってあるよ。働き過ぎかもしれない。少し休暇でもとって、気分転換した方がいいんじゃないか?」
「ありがとう。でも明日から週末だから、二日も休めば……」
「どこかに出かけるとといいよ。自然がいい。森林とか、海とか……」
一緒に行こうと言い出せないところがコリンらしかった。ジェーンは首を横に振った。
「ううん、家を空けられないの――怪我人がいて」
コリンは耳を疑った。同居人がいるという話は一度も聞いていない。
「君、一人暮らしだって言ってなかったかい?」
あからさまなコリンの動揺にも気づかぬ様子で、ジェーンは答えた。
「あ、ううん、その――私が怪我をさせてしまったから、介抱してるの……」
「誰だい、それは? 親戚?」
ジェーンは肩を竦めた。
「知らない人だって言うのか……?」
「私、その人を車で撥ねてしまって……通報しないで欲しいっていうから、家に……」
時間経過によって男のかけた暗示が弱まっていたのだとしても、事故を告白する気になったのは、彼女が少なからずコリンを信頼していたからだろう。それが尋常ではないと判断し得る常識を彼は持ち合わせていた。
込み入った事情がありそうだと感じたコリンは、辺りを見回して誰もいないことを確認してから、やや小声で問い質した。
「事故ったのはいつの事だ? 警察にも病院にも通報していないのか?」
「昨日の夜、帰り道で……怪我はよく分からないけど、脚を折ったみたいで、あと頭からも血が……」
「重症じゃないか! 家に置いておいて大丈夫なのかい?」
ジェーンは頷いた。
「昼間は放っておいて欲しいって……夜になったら、血を飲めば回復するから……」
今度はコリンがジェーンの正気を疑う番だった。撥ねられたのは彼女の方ではないのか――それとも同僚たちに担がれているとか。
再び念入りに周囲を見回してから、コリンはジェーンに向き直った。冗談ではなさそうだ。
「今の話、証明できるかい?」
ブラウスの緩やかな袖をまくって、ジェーンは腕の内側に宛がった大判の絆創膏を見せた。
「ここ、彼が切って血を……咬むことはしないんですって」
‘彼’だって? やはり男なのか――コリンが憤りを覚えたのも束の間、ガーゼにうっすらと滲んだ血痕が目に入ると、恐怖心が湧き上がった。怪我をするには不自然な位置だ。
「そ、そんな吸血鬼みたいな奴、信用するのか?」
「悪い人ではないと思うの。でもぶつけてしまったのは私の方だし、責任は取るべきだし……」
吸血の真偽のほどを差し置いても、見知らぬ男が彼女の二の腕に口をつけたとは――それが事実であるとしたら、彼女は厄介なトラブルに巻き込まれているに違いない。
コリンはジェーンを救うべく勇気を振り絞った。
「彼がどんな人であれ、素性の分からない人と君を二人きりにするのは心配だ。警察にも言えないなら、僕が行くよ」
彼の渾身の善意を、ジェーンは慌てて拒否した。
「それは駄目、できないの――彼が治るまで、安全に匿っておける場所を提供するって、約束してしまったから……」
「彼には手を出さないし口外もしない。ただ君が心配なんだ……できれば僕も介抱を手伝うよ。紹介してくれないか?」
珍しく積極的なコリンに折れて、ジェーンは渋々その申し出を承諾した。
彼女の帰宅時間まで、コリンは自分のデスクで暇を持て余していた。その間、二人分の夜食でも買いに行けばよかったのだが、元より気の利く男ではなかったし、彼の頭は初めて訪ねる女性の家で粗相のないよう、マナーのおさらいをするので目一杯だった。こちらのテキストは、はーと、でる、そる、どっとこむ、からのコピペです。
それでもジェーンのためならば、その身を投げ打ってでも危険から守ってやりたいという意気込みは一人前で、ジェーンも少なからずその誠意を感じ取ったのだろう。
その夜、二台の乗用車がグリーンデル・ドライブを走り抜けてジェーンの自宅前に到着した。青のセダンは家の向かいの来客用の駐車スペースに停め、二人はガレージ内の階段から住居に上がり、ストレージの前に並んだ。
ジェーンが扉をノックして言った。
「帰ったわ――あの、人を連れてきたの。彼は同僚で信用できる人だから、あなたの事を口外しないはず。私とあなたを心配して来てくれたの――会ってくれませんか」
返事はなかった。
開けるわよ、と呟いて、ジェーンはそっとドアを開けた。
小部屋の暗闇の中に身を横たえる半裸の男を見つけるなり、コリンは後ずさった。ジェーンは一言断ってから点灯して中に入った。
「具合はどう?」
「よう。連れてくるなって、言っておいたのにな……」
男は片目で二人を見上げた。乾いて黒ずんだ血糊が、事故の生々しさを物語っている。怒った風ではないものの、コリンは入室をためらった。
「あんた、彼女のボーイフレンドか? 安心しな、回復次第出ていくからよ。彼女には手出しはしないさ……食事は別だが」
最後の言葉に不安を抱きながらも血の滲んだ脚の包帯を目に留め、襲われる危険はないと自分に言い聞かせながら、コリンは一歩だけ室内に足を踏み入れた。
「失礼ですが――あなたは吸血鬼なんですか?」
募る恐怖と緊張のためか、彼にしては大胆な質問を投げかける。
身も蓋もない問いかけに、却って男はコリンを気に入ったらしい。まあな、と答える彼の、笑いを堪えられない唇の端に白いものを見てしまい、コリンは口を噤んだ。そのまま黙り込んで、ジェーンが彼の脚の包帯を解いて傷の状態を確かめるのを脇から眺めていた。
開放骨折による裂傷は濡れた肉の色を留めながらも塞がりかけ、既に治癒の兆しを呈していた。これだけの重傷を負いながらも、病院へは行かず自力での回復を望むとは、やはり彼は本物なのだろうか――コリンが考え込む傍ら、ジェーンは立ち上がって言った。
「コートを脱いだら、濡らしたタオルを持ってくるわ――まだ血が付いてるから。着る物もいるわね……」
コリンは一歩退いて退室するジェーンに道を譲った。気味の悪い男と二人きりで残されたコリンは、気を取り直して事情聴取を始めた。
「――け、怪我の具合はいかがですか?」
痣だらけの上半身を起こした男は、脚の包帯を巻き直しながら答えた。
「大腿骨の骨折と内臓の打撲――頭も切った」
「本当に彼女が……?」
「ブレーキが間に合わなかったのさ――車道にいた俺も悪かったんだがな」
「回復の目処は――医療機関を受診しなくても、本当に平気なんですか?」
「脚を動かすのに、早くてももう二、三日かかるだろう。英気を養えるとして……」
「英気……」
「血さ」
あっさりと答えた男を、コリンはその場に立ち尽くしたまま愕然と眺めていた。
すぐにタオルと湯の入った洗面器を手にしたジェーンが戻り、掃除用具の棚からラテックスグローブを探し出して装着すると、男の傍に跪いて洗面器の上でタオルを絞った。
「――私、あなたのお名前、お伺いしましたっけ?」
男の髪と顔をタオルで丁寧に拭いながらジェーンが訊ねた。
「ジムと呼んでくれ」
彼は言った。顔にこびり付いた血を拭き取ると、裂傷は目元から頭部の側面まで一直線に続いている事が分かった。地面に投げ出された時、尖った石で切ったのだろうか。
「私はジェーン、彼はコリン」
コリンは戸口に佇み、ジェーンのしなやかな手作業を見守っていた。一枚目のタオルが鈍い赤に染まる頃、ジェーンはもう一人の客人を見上げて話しかけた。
「コリン、よかったらあなたもコートを――泊まっていくなら、リビングのソファを使って。これが終わったら、何か食べるものを作るわ。パスタくらいしかないけど……」
「あ、ああ。どうも……」
それは願ってもみない申し出だった。コリンは案内もされぬままリビングのソファにコートを置いて、バスルームのトイレを借りた。戻る途中、玄関脇に猫の砂場と餌が常設されているのが目に留まった。ガレージを通用口としているため、玄関の使用頻度は低いのだろう。
飼い猫の姿はどこにも見当たらなかった。あの男が捕って食べてしまった訳ではあるまい――何を考えているんだ、自分は?
ジェーンの身を案じて訪れたはずなのに、男を手厚く介抱して世話を焼く彼女の姿に、コリンは複雑な心情を抱いていた。
リビングに戻ると、洗面器と汚れた衣服を手にしたジェーンが通り掛かった。
「漂白剤に浸ければ落ちるかしら……ああ、よかったらパスタ鍋にお湯を沸かしてくれる? ストーブ下の棚にあるから……彼が着るものを探すわ。使ってないバスローブがあったと思うの……」
話しながら洗濯室(ランドリー)に消えるジェーンを見送ってから、コリンはカウンターで隔てられたキッチンに向かった。
掃除の行き届いた、まだ新しい設備だった。カウンターの脇に優しいピンク色のマグカップが吊るしてかけてある。コリンはその隣に自分のカップが並んでいるのを想像した。ディナーを共にするのは今夜が初めてだ。
ジェーンがスパゲティを茹でる間、コリンはソファでうたた寝をしていた。普段の就寝時刻はとっくに過ぎている。
出来上がりを告げる声に目覚めると、テーブルには二人分のディナーと火の灯された小振りのキャンドルがセットされていた。
「ありがとう、今日は来てくれて――」
席に着いたコリンのグラスにワインを注ぎながら、ジェーンは言った。
「いや、君に危険がないか心配になっただけだよ……まだ彼を信用した訳じゃないけど」
「いいの、私も自分がしてることが正しいのか、よく分からなくて……でも怪我人がいたら、放っておけないでしょう――たとえ人間じゃなかったとしても」
「そこだよ。彼は、本当に……」
「たぶんね――でも、輸血っていえば、それまでじゃない。もし病院に運ばれていたとしても、輸血ぐらい受けたでしょう」
「でも‘飲んだ’っていうじゃないか」
「今夜もきっと……」
それきり二人は黙ってしまった。ワインもミートソースもホットソースも、やけに鮮やかな色をしていた。
食後、コリンはソファに収まってスマホを繰り、ニュースサイトを観覧していた。食器の片付けを済ませたジェーンは、深夜のデカフェコーヒーを淹れて二人で嗜んだ後、シャワーを浴びてパジャマに着替えた。
就寝前に二人でストレージを見舞った。
ブランケットに横たわる男は、灰色の厚手のバスローブを纏っていた。
「ここ、寒くない? 私たちはもう眠るけど、今夜も――お飲みになると思って……」
「それは助かる。温度は――外よりはずっとましだ」
二人が入室すると、ジムは傍らの棚に手をかけて身を起こした。顔を歪めるところを見ると、まだ痛みはあるのだろう。
男の側に屈みかけるジェーンの肩に手を置いて、コリンが進み出た。
「待った、今夜は僕が提供する」
彼女を守りたいという気持ちはあれど、先立ったのは男に対する見栄や嫉妬だったかもしれない。
「コリン、私は構わないの。量だって多くないし……」
「でも昨日も提供したんだろう、健康に響くかもしれない……せっかくここまで来たんだ、僕にさせてくれ」
「お客様にそんな事させられないわ――」
驚きと当惑の表情を浮かべて、男は二人のやり取りを眺めていた。吸血の権利を巡って、犠牲者でもない人間が争っている。
「……有り難いことだな」
独り言のように呟くと、ジムは棚に身を持たせかけた。
結局ジェーンは引き下がり、コリンが男の傍らに膝をついて左の細腕を差し出した。
ジムがカッターから刃を取り出すと、コリンは言われるままカフスボタンを外してシャツの袖をまくった。ジェーンの手前、強気なところを見せたいと平然たる態度で挑んだものの、鋭い刃先が触れると全身に震えが走った。
緊張で痛みを感じなかったのは幸運だったかもしれない。しかし、鮮血が滲み出すと同時に押し付けられた唇の冷たさに、思わずコリンは身を引いてしまった。溢れる血潮を受け止めようと腕を咥える牙が、その時、図らずも僅かに肌を裂いたのだが、温かい生命を夢中で貪るジムも、固く目をつぶって逃げ出したいのを堪えていたコリンも、最後まで気づかなかった。
間もなくジムが名残惜しげに顔を離すと、すぐにジェーンが傷の手当をした。しばらくの間、コリンは彼女が貼ってくれた絆創膏を見下ろしながら、未知の感覚に疑問を抱いていた。吸血鬼の与える快楽――その断片を少なからず味わったのだ。
男はブランケットに倒れ込み、満足げに瞼を閉じた。
「感謝する――よい夜を」
「あなたもね、ジム……早く良くなるといいわね」
静かに声をかけると、ジェーンはコリンを連れて退室し、消灯して扉を閉じた。
「――大丈夫、コリン?」
ジェーンはソファに掛けさせたコリンに、コップの水を手渡した。
「ああ、なんとか……ありがとう。夜更かしは慣れてないんだ」
「ソファで悪いけど、よく休んで――上掛けを持ってくるから」
予備のブランケットを手渡すと、ソファで横になるコリンにお休みなさいと告げて、ジェーンは寝室に引き上げた。
小さな鈴の音と猫の気配を感じながら、コリンはすぐに深い眠りに落ちた。曲がりなりにも、それは犠牲者の睡りだった。
翌朝、朝食にパンケーキをご馳走になってから、コリンは自宅への帰路についた。ジムの容態を気にしてはいたものの、ストレージの中を覗き見るような無粋な真似はしなかった。
玄関からコリンを見送ってから、ジェーンはキッチンを片付けて週末の家事に取り掛かった。まずは一週間分の衣類の洗濯だった。
洗濯室でジムから預かったズボンのポケットを改めると、小型の櫛と二五セント硬貨(クオーター)が二枚入っていた。それと例のボックスカッター――所持品はそれだけらしい。
洗濯機と乾燥機を回しつつ簡単に家の掃除を行ない、最寄りのマーケットに出向いて食料品の買い物を済ませると、昼過ぎには帰宅して、予定通り午後に訪れた配送業者から荷物を受け取った。天気は下り坂――空は雲に覆われ、風が出てきた。
遅めのランチを摂ってから、猫の世話をしたり趣味のインテリア雑誌に目を通したりしながら、ジェーンは新しい薪をくべた暖炉の側で日の入りを待った。暖房よりも装飾としての役割が大きいが、小さくても炎を眺めていると心が落ち着くものだ。
夕方、日暮れ前に玄関のチャイムが鳴った。ドアの外には、大事そうにピザの箱を抱えるコリンが立っていた。
「コリン? 驚いた――」
小雨に濡れる客人をひとまず家に上げてから、ジェーンは要件を伺った。
「突然押しかけてごめん。君もジムも気になって……食事がまだなら、これどうだい? 一人じゃ食べ切れなさそうで……」
ピザの気分ではなかったが、夕食を作る気分でもなかったジェーンは、微笑んでコリンを迎えた。
「ありがとう、一緒に食べましょう」
ピザは半ば冷めていたが、そのままでも食べられないことはなかった。トッピングはペパロニとソーセージのコンボに野菜が少々。チリペッパーと粉チーズのパケットは貰いそびれたらしい。
「チーズスティックはやめたんだ、ガーリックが臭うと思って……苦手かもしれないだろ」
口の端にソースをつけたコリンは、ピザを頬張りながら話した。ジムへの配慮である。
「そうね――本当かどうか分からないけど。目を覚ましたら、聞いてみましょう」
何か切り出してもすぐに会話が途切れてしまい、テーブルを挟んだ二人は黙々とピザを口に運んだ。
食べ終わる頃には日も暮れて、ジェーンは畳んだジムの衣服を手にコリンと連れ立ってストレージに向かった。
「――ジム、具合はどう?」
呼びかけつつノックして扉を開けると、そこには棚を手掛かりに立ち上がろうと苦戦している男の姿があった。
明かりを点けて怪我を確認すると、脚には変色した皮膚が残るのみとなり、頭部の傷もあらかた消滅していた。
「骨は繋がったらしい。筋がまだ完全じゃない」
そう話すジムの片目もまだ閉じたままだった。眼の回復には時間がかかるのだろう。それでも確実に、脅威のスピードで治癒が進んでいる。
「今夜はリハビリだ。明日までにはまともに歩けるようにしよう」
仕上がった衣服を手渡したジェーンが、室内履きの予備を取りに寝室へ向かうと、すかさずコリンが話しかけた。
「ジム、今夜も英気を養う必要があるなら、ジェーンじゃなくて僕に提供させてくれ」
「ああ――」
何とか立ち上がったジムはジェーンにスリッパを履かせてもらい、脚の具合を確かめながら廊下を壁伝いに歩き、ストレージとリビングの間を往復した。疲れるとソファで小休憩を取り、すぐにまた立ち上がる。そんな男を横目で見守りながら、ジェーンとコリンは何をするともなくリビングでコーヒーを嗜みながら過ごした。
何度目かの往来の後、ソファに腰を下ろした男に、ジェーンは訊ねた。
「たぶん入ってないと思うけど――大蒜って苦手なの? それに十字架も……」
テーブルの上には、ピザの残りが入った箱が置いてあった。
「個人的にはどうでもいいんだが、あまり好かねえな……」
眉をひそめる男に、暖炉前の床で寛いでいたコリンも訊いた。
「やっぱり、日光で……?」
「だろうな、試す気にはならねえが。それよりも――なあ、二人はどういう関係なんだ?」
思わず言い噤んだコリンの隣で、ジェーンが答えた。
「同僚よ、同じ会社に勤めているの」
そして二人は仕事の話――失敗談や顧客とのトラブル、そして上司の愚痴を口々に語って聞かせた。男は興味深げに耳を傾けていた。
「――ねえ、あなたのお話も聞かせて欲しいわ、差し支えなければ」
ひとしきり喋ってから、今度はジェーンからジムに話を振った。
「俺の話? ――困ったな。いつも聞くのが専門でな、話し方を忘れちまった……」
それでも男は、ぽつりぽつりと語り出した。
「俺は車が好きなんだ――ガキの頃から、無類の自動車好きでな。初めはモデルだの年式だのに凝っていたんだが、次第に形や性能よりも、車と運転手の組み合わせに興味が向くようになってな。内装のこだわりとか、持ち込んだ私物、スピーカーから流れるラジオや音楽、リフレッシュナーの匂い――好みはみんな違う。それがまるで、其々の人生の一部を垣間見ているようで面白いんだ。
当時、巷ではヒッピー文化が盛んだった。若かった俺もバックパッカーとして、ヒッチハイクで大陸中を行き来したものさ。車は今よりうんと少なかったが、つかまえるのはさして難しくなかったし、旅が性に合ったんだろう。地方ごとに日雇いの仕事をいくつも知っていた。中部の農村で止める大型トラックにも、沿岸部の都市を走るスポーツカーにも、何の変哲もない小さな乗用車にも、持ち主の味は染みついてるものだ。全ての走行車に運転手がいて、人生の物語がある。それを便乗者として垣間見るのが溜まらなく好きだった――もちろん、今でもな」
語るに連れて軽快になるジムの弁舌に、二人は惹きこまれていった。
「ヒッピーの黄金期が去ってからも、俺はヒッチハイカーを続けていた。いつのことだったか、拾った車が悪くて、俺は吸血鬼に襲われた。一晩で太陽とおさらばさ。それでも旅は止めなかった――夜だけの移動もそう悪いものじゃない。それに俺はある能力を授かった。催眠術というのか――相手の気分や行動に干渉することができるようになってな。走行中の車を止めて、運転手が顔を出せば、俺を乗せたくなるように仕向けられるのさ。
行きたい場所を命じれば、たとえそれが目的地と逆方向だったとしても相手は拒まない。行き先を指定しないで走らせる事もある。降りる時に、元の場所に引き返して俺のことは忘れるようにと言い聞かせれば、後腐れもねえ。財布に金が余っていそうな奴からは、選別に百ドル紙幣を何枚か貰うこともできた。野宿は慣れているが、時にはベッドで休みたくなるものだ。それにスナックをいただくこともある。運転手には記憶のない空白時間と身に覚えのない切り傷が残るだけで――そうやって俺は存えてきた」
コリンがさり気無く自分の腕を撫でさすったのを、ジェーンは視界の端に捉えていた。
「だがな、七十年代頃までは、そんな小細工も必要ないくらい誰もが大らかだった。今じゃ信じられないだろうが、当時は鍵を挿したまま店先に車を停めておいても、盗まれることはなかった。車は大型だったが数は少なくて、運転も豪快だったっけな。八十年代になると輸入車が増えた。小さいながらも機能的で、未来的で、それはそれで楽しめた。ヒッチハイカーは時代遅れになっていったが、それでも献身的なドライバーはいた。
九十年代に入ると、車が止まらなくなった。機嫌の悪いドライバーが増えたんだ。ドライブは楽しむものではなく、単なる移動の手段となっていた。そして新世紀に入ってからは、あんた方の知っての通りさ。ヒッチハイカーなんぞ物騒な輩は拾うなと、親に言い聞かされて育っただろう。それには俺も賛成だ――」
ジムの自虐的な笑みにつられて、ジェーンもくすりと笑った。
「それでも俺は、これまで上手くやってきたつもりだった。二日前の晩、俺は拾った車を自由に走らせて、この住宅地に辿り着いた。袋小路で昼を過ごす場所もないと分かった俺は、歩いて車道を引き帰しながら車が通りがかるのを待った。すると街から出てきた車が、運よく俺を見かけて止まったのさ。著あおいうしお。だが近づいて話しかけようとした途端、運転席の窓から銃口が向けられて、いきなり撃たれた。それがこの目と頭の傷だ――咄嗟にかわしたが間に合わなかった。車は走り去って、よろめいた俺は反対車線に出ちまって――で、この様さ。ここまでしてもらって言うのもなんだが、あんたのせいじゃなかったんだ」
彼の片目がジェーンを見据えると、彼女は首を振った。
「それは――いいえ、私もスピードを出しすぎていたの。注意していたら防げたかもしれないし……それにしてもひどいわね、まだ新しい街なのに、そんな物騒な人がいるなんて」
「この土地だけの問題じゃない。責めるべきは時代と社会――どんな運転手に話を聞いても、詰まるところは大概そこさ。誰もが人生を背負ってハンドルを握っている。通り過ぎる道路や景色を好くかは運転手次第だ。だが気に入ったところでいつまでも留まれる訳じゃないし、燃料は有限だ。俺も例外ではないということさ――さて」
男は二人に向き直った。
「俺の話はこんなところだ。退屈させたか?」
「いいえ、ちっとも……」
ふとジェーンは、真面目な表情で切り出した。
「ねえ、ジム、あなたにお願いがあるの――ここを発つ時に、あなたの事、忘れさせないでもらえないかしら」
「僕もそうして欲しい」と、コリンも同意した。「またどこかで会えるかもしれない」
「そうだな――世話になったことだし、考えておこう」
男は頷き、脚を庇いながら立ち上がった。
「失礼して、そろそろ部屋に戻らせてもらおう」
「送っていくよ――肩を貸そう」
ジムはその申し出を辞退したが、コリンは彼に付き添って廊下に向かった。ジェーンを振り返って頷く――彼にディナーを振る舞うとの合図だろう。
「寝る前にまた見舞うわ」
ジェーンが声をかけると、男は後ろ手に手を振った。
「気にするな。夜更かしはよくないぜ」
それから五分も経たずにコリンは戻ってきた。捲った袖の下に新しい絆創膏が貼られている。
貧血を起こしているのかどことなく反応が鈍いようにも見えたが、ジェーンが引き止めるのも聞かずに彼は暇を告げた。深夜で交通量も少ないだろうし、明日も休みだから、焦らず帰宅してよく休むようにと言い聞かせてからコリンを送り出し、ジェーンは就寝の支度をした。
日曜日の朝、ジェーンは昼前まで寝坊してブランチを摂った。
週末の家事は昨日の内に片付けてしまったので、今日はギフトの包装(ラッピング)をする予定だった。届いたばかりの段ボール箱を開封してオンラインストアで注文した品々を確認しながら、ジェーンは包装紙やリボンの類はストレージに保管していることを思い出した。他人のプライベートを盗み見るようで気が引けたが、夜を待つ訳にもいかず、彼女はストレージに赴いた。
窓のない小部屋には、昼間でも薄闇が満ちていた。心中で詫びてから点灯すると、ジムは昨夜のローブ姿のまま床に横たわって目を閉じていた。興味本位で眺めるのは失礼と分かっていても、目を逸らすのは難しかった。
胸が上下してない――脈拍もないのだろうか。ジェーンはその姿を見てぞっとした。もし人間を撥ねていたら、深夜の車道でこの光景を目にしていたかもしれないのだ。申し訳ないと思うと同時に、彼で良かったという安堵の感情が溢れた。
男の顔の怪我は僅かに痣が残るのみとなっていた。通常ならば一生残る深さの傷であったはずだ。それが三日で完治しようとしている奇跡を目の当たりにしても尚、彼の正体は信じ難かった。吸血鬼だなんて悪い冗談で、ジムは一種の特異体質を有する、ごく普通の人間なのではあるまいか――そんな思いが過ぎる。
目的のケースを見つけると、ジェーンはすぐにストレージを出た。
クリスマスの休暇は両親の住む実家に帰省する予定だった。兄弟や従兄弟、親戚、そしてその子供たちが集まるのだ。
高価ではないが、見栄えのするパッケージのラジコンカーやロボットの玩具。バービーよりはませた着せ替え人形。ビーズで作るアクセサリーのキット。小さな子供には縫いぐるみと音の出る絵本。紙袋の隙間にはお菓子を詰め込んだ。
女の子へのギフトならいくらでも思い浮かぶのに、男の子へのギフトを選ぶのは難しかった。自動車の玩具の事なら、ジムに訊いたらいいかもしれない――ふとジェーンは、ジムにも何か贈り物をしたいと思い立った。けれど最低限の所持品しか持たない彼のことだから、物品を渡したら却って迷惑だろうか。
やはり血を――そう考えたところで、玄関のチャイムが鳴った。ジェーンはコリンだろうと直感した。
皮肉にも、その瞬間までコリンを贈り物の対象者に数えたことはなかった。彼には何も用意していないのだ。これからネットで注文してもまだ間に合うだろうか。
ドアを開けると、予想通りコリンが立っていた。
「ごめん、また来ちゃって――忙しかった?」
昨夜よりもこざっぱりした顔でコリンが訊いた。着替えて身支度を整える余裕はあったようだ。
「ええ、まあ……ちゃんと眠ったの?」
「もちろん、君に言われた通りにさ」
驚きよりも戸惑いを感じながらジェーンは訊ねた。彼が三日連続で訪ねて来るとは信じ難い。いつからこんなに積極的になったのだろう。
「ジムに会うにはまだ早いだろうし、一緒に出かけないかい?」
「それって……デートにってこと?」
訊き返すと、コリンは尻込みがちに答えた。
「まあ、そういうことになるのかな……」
「それなら、ごめんなさい」ジェーンは優しい口調で答えた。「今日は出かける気分じゃなくて……でもせっかく来たんだから、コーヒーでもどう?」
コリンを家に迎え入れ、キッチンでコーヒーメーカーをセットしながら、ジェーンはカウンター越しに話しかけた。
「あなた、昨日の夜ぼんやりしていたから、心配していたのよ」
「平気さ、今日もここまで無事に辿り着いたじゃないか」
「そうね……」
それなら彼の顔色がやけに蒼白く見えたのは、きっと包装紙の派手な赤や緑をずっと見ていたせいなのだろう。
リビングルームは包装作業の真っ最中だった。床まで散らかった包装紙の切れ端に、猫がじゃれて遊んでいる。
「ああ、クリスマスが近いのか……」
湯気を立てるコーヒーカップを手に、コリンはソファに腰掛けた。
ジェーンは作業を再開しながら、謝罪の印としてジムにもささやかな贈り物をしたいと考えていると、コリンに相談をもちかけた。彼は自分へのギフトは念頭にも浮かばない様子で頭を捻った。
「マフラーや帽子――じゃ、夏に邪魔かな」
「衣服には彼の好みがあるでしょうし……」
靴下というアイデアは、包装紙に印刷された絵柄から思いついた。ジムは擦り切れたブーツを履いていたが、中は裸足だった。消耗品なら迷惑にならないだろうし、サイズも靴から推測できる。
そこで二人は、コリンの運転で近郊のショッピングプラザに向かい、男性用の靴下を一組だけ購入した。すぐに渡せるように、家で切らしていた小振りのギフトバッグも探していくことにした。
電飾や人工雪で装飾されたシーズン特設のコーナーを通りがかった時、少し見ていこうとジェーンを誘ったのはコリンだった。
「ジェーン、君は何が欲しいんだい?」
輝くツリー・オーナメントやデコレーションを見て回りながら、コリンが訊ねた。ギフトの話題を持ち出してくれたのは有難かった。
「私――ううん、分からないわ。この頃、自分の事を考える余裕がなくて。――あなたは?」
「僕? 僕も……特にないかな」
コリンの表情が、その脳裏に浮かぶ様々な品を反映しているらしいのを目にして、ジェーンは微笑みを浮かべた。
「気にしないで。食事でもおごってくれれば嬉しいわ。帰りにワインでも買って――それが私からのプレゼントって事でどうかしら?」
「本当かい!? それなら喜んでおごらせてもらうよ――」
そうして二人はプラザ内のカジュアルなレストランで早めの夕食を共にした。結果的にはコリンの望んでいたディナーデートとなり、混雑する夕方の食料品店でワインと夜食を調達してから帰路に着いた。
日が暮れてから家に帰り着くと、包装紙やプレゼントの包みで散らかるリビングで、ジムが二人を出迎えた。洗濯した衣服を纏い、支えもなく直立した足にはスリッパを履いていた。
「すっかり良くなったみたい……」
完治どころか怪我など初めからなかったような男を見て、ジェーンが目を丸くした。
「デートの帰りか?」
「そんなところかしら――はい」
今や両目とも開いたジムに、ジェーンは帰りの車内で包んだ贈り物を手渡した。
「これは?」
「少し早いけど、ホリデー・ギフト――私たちから。旅のお邪魔にならないものをと思って……開けてみて」
包みを開いて取り出したグレーの靴下を、ジムは無言で見つめた。
「ずっと裸足でいらっしゃって、寒そうだったから……お気に召さなかったら、ごめんなさい」
「そんなことはねえ――気に入ったよ。ありがとう」
男はジェーンの肩を軽く抱き寄せた。傍らで露骨な仏頂面を浮かべたコリンにも向き直った。
「コリン、あんたにも感謝する。怪我も良くなったことだ、明日の晩にはここを発とう」
握手を交わす男の言葉に、二人は素直に喜べない自分たちを知り、戸惑いを覚えた。
「それは何よりだけど、何だか寂しくなるわね」
人間の友人ならば回復祝いや送別会を設けるのであろうが、彼が同じディナーの席を囲むことはないだろう。
暖炉に火を入れると、ジェーンは包装作業の続きに取りかかり、コリンは猫をじゃらしつつその手伝いをした。
ジムはソファに掛けて二人の作業を眺めていた。ジェーンはクリスマスの力が彼を遠ざけてしまうのではないかと不安に駆られたが、そんなことはなかった。
「良いものだな、いつになってもクリスマスは。子供たちへか?」
ジムが訊ねた。足にはもらったばかりの靴下を履いている。
「ええ、親戚の子供たちが集まるのよ。お菓子と玩具と――今は子供騙しの玩具よりも、ゲームストップのギフトカードでもあげた方が喜ぶんだろうけど、親の手前、ね……」
「アーケードじゃなくて、テレビに繋いで遊ぶ機械だろう。ミニカーを貰って喜んでいた頃が懐かしいな」
そこへコリンが口を挟んだ。
「テレビゲームったって、決められたルールの中で競うなら、チェスやボードゲームと一緒さ。今じゃEスポーツには世界大会だってあるんだから、馬鹿にできないぞ」
「俺は電気は信用しないんだ。近頃じゃ電気自動車なんてのも出ているが、ガソリンで走らない車なんて、味気ないと思わないか?」
「電気嫌いなんて、僕の曾爺さんじゃあるまいし……」
コリンはジムを振り向き、諭すように語った。
「いいか、僕たちの脳内では、神経細胞が電気信号をやりとりして思考してるんだ。心臓の鼓動だって電気信号なんだ。僕たちが生きていられるのも、ある意味では電気の――」
そこまで言いかけて、不意にコリンは口を噤んだ。ばつの悪い顔で男を見上げる。
すぐにその意味に気づいて、ジェーンが吹き出した。ジムも破顔した。
「気にするな。テクノロジーの過信はしないということだ。俺にも静電気くらい起こる。それに街の夜景は好きだ――街灯の明かりも、車道のヘッドライトも、クリスマスのイルミネーションも。しかし脳の働きに電気が関係するってのは、興味深いな」
作業が大方完了すると、ジェーンは冷凍ラングーンを電子レンジで温めてコリンと共に摘んだ。怪我の完治を理由に今夜の献血の申し出を辞退したジムは、暖炉前で猫と共に寛いでいた。
やがてコリンは明日は月曜日だからと早々に暇を告げた。今日買ったワインを開けるのは、まだ先になりそうだ。
明日の晩、終業後にここへ戻ってジムを見送ると約束すると、コリンは青いセダンに乗り込んでグリーンデル・ドライブを走り去った。このテキストはウェブサイト、ハートデルソルからコピーされたものです。ジェーンは普段の就寝時間に合わせて、もう少し夜更かしをするつもりでいた。
一度ストレージに引き上げたジムは、深夜前にブーツの足音を立ててリビングに現れ、気が変わって今すぐ家を出ることにしたとジェーンに話した。
ジェーンは驚いたが、理由を訊ねることはしなかった。彼にも事情があるのだろう。
「送っていくわ、近場の街まで。車が拾えるかもしれないし……」
ソファから立ち上がる彼女の申し出を男は丁重に断った。
「もう遅いし、外は寒いだろう」
「車が拾えなかったらどうするの?」
「森の暗がりにでも横たわるさ――野宿は慣れてる」
玄関口に立って、男は最後の別れを伝えた。
「世話になったな。ボーイフレンドとよろしくやれよ――いい男だ、あいつは。逃すんじゃないぞ」
「ありがとう――お元気で」
安定した足取りで階段を降りる男の姿が闇に消えるまで見守ってから、ジェーンはドアを閉めて戸締りをした。
唐突な別れに、ほっとした様な、それでもどこか胸騒ぎがするような、漠然とした不安が残った。それはその夜、冬の冷え込みが一段と増したせいだろうか。
月曜日の午後、オフィスに出勤したジェーンは、ジムが予定を繰り上げて昨夜の内に去ったとコリンに伝えた。コリンは血相を変えて問い質したが、ジェーンは彼を引き留めることはできなかったのだと繰り返し弁解するしかなかった。
男を見送れなかったことが余程心残りだったのか、落ち着かない様子でデスクに向かっていたコリンの姿は、いつの間にか消えていた。ミーティングか顧客との面談に出たのだろうと、ジェーンがその行方を気にかけることはなかった。
しかし翌日、ジェーンは出社するなり複数の同僚からコリンの居場所や安否を訊ねられた。彼は昨日、個人的な急用を理由に早退しており、今日も朝から無断欠勤しているという。たった三分の遅刻でも予め連絡を遣してくるような生真面目な彼に限って珍しいと、午前中はその話題で持ち切りだったらしい。
中にはジェーンとの関係を憶測する者もあったが、当の本人が知らないと答えたことで期待は裏切られた。結局、週末からの急激な気温の低下で、風邪でも拗らせて寝込んでいるのではないかと推測するに留まった。電話にもメールにも応じず、上司は愚痴をこぼした。
夕方になってもコリンとの連絡はつかず、彼が一人暮らしをしていることもあり、念のために安否を確認すべきだという話が持ち上がり、ジェーンが彼の自宅を訪ねる特派員に任命された。実際、彼女自身もコリンを案じていたし、同僚たちの気遣いというか計らいがあったのにも気づいていた。
会社に程近いアパートの駐車場にコリンの車は見当たらず、ジェーンが玄関先で呼鈴を鳴らし、ドアをノックして呼びかけても応答はなかった。宵闇の満ちる窓辺に明かりはなく、律儀に購読しているらしい新聞も郵便受けに挟まっているから、昨夜から留守だったとみて間違いない。もしかすると本当に連絡も忘れるほどの急用で、実家に帰省したのかもしれない。彼の両親はハワイ在住と聞いている。
たった一日の無断欠勤で警察に捜索願を出すわけにもいかず、電話で上司に報告を入れてから、ジェーンは自宅への帰路に着いた。
帰宅したジェーンを迎えたのは、セントラルヒーターの溜息と猫の鈴の音だけだった。
コートを脱いで暖炉に薪をくべながら、どことなく物寂しさを感じた。せめて冬の間だけでも、ジムを引き止めておければよかったのに。
着火を見届けて立ち上がった時、玄関のチャイムが鳴った。ジムかもしれないと期待を寄せたのも束の間、こんな遅くに誰が、という不安がもたげた。こわごわドアの覗き穴に目を当てると、職場のお騒がせ者コリンが立ち塞がっていた。
あれほど心配と迷惑をかけさせたのだから、愚痴のひとつでも言ってやらなければとドアを開けた瞬間、玄関灯の明かりに浮かび上がる凄惨な姿にジェーンは言葉を失った。
コリンの顔は痣と生傷と乾いた血で覆われ、裂けて薄汚れたスーツとシャツは朱に染まっていた。映画の特殊メイクと見まごう派手な裂傷が本物であると知れても、悲鳴を上げて卒倒したくなるのをなんとか堪えて、ジェーンは震える声を絞り出した。
「コリン……何が……」
「僕、そんなにひどいかい?」
「何言ってるの……!?」
見慣れた顔に浮かぶ憔悴と肉の色が笑みを形作るのを見て、ジェーンは強い非現実感に囚われた。彼は二ヶ月遅れのハロウィンの仮装をしているのだろうか。でなければ、自分が悪い夢を見ているに違いない。
「驚かして悪いけど……休ませてもらえないか……」
コリンはジェーンの差し出した手を掴んで膝から崩れ落ちた。
「救急車を――」
携帯電話を求めて振り向くジェーンを、か細い声が呼び止めた。
「呼ばないで……くれ……」
「どうして……!?」
「後で……説明する……」
敷居に倒れ伏したコリンはそのまま気を失ってしまった。かなり浅い息遣いをしている。
コートも着込まず凍えるコリンを屋内に引き入れてから周囲を見渡し――住宅街は寒夜の静けさに沈んでいる――ドアを閉める前に、ジェーンは来客用の駐車場に車がないことに気づいた。彼はどうやってここまで来たのだろう。まさかヒッチハイクした訳ではあるまい。道端に佇むこの姿をドライバーが見たら、別の事故を誘発しかねない。
自力でここに辿り着けたのだから大丈夫だと自分に言い聞かせながら、ジェーンは半ば引きずるようにしてコリンをリビングまで運び、なんとかソファに横たえて怪我の状態を確認した。
頭髪や顔に砕けたガラスの破片が残留している。運転していた自動車で事故にあったのだろう。怪我は表面的なものと考えていたジェーンは、コリンのジャケットの前を開けて、すぐにその認識が誤りであると気づいた。
ずたずた、という言葉が思い浮かんで、それだけではとても足りないと思った。胸から腹にかけてあるべき起伏が見当たらない。肋骨が砕けるか拉げているのだろう。絞れるほどの量の血が染み込んだはずのシャツのボタンも開けて、その下を確認する気にはとてもなれなかった。腕は脱臼や骨折を起こしているらしく、脚の角度もどこかおかしい。
目眩と吐気と脱力感を同時に催して、ジェーンは顔を背けた。これは緊急手術が必要な状態――いや、医者ですら手の施しようがないのではあるまいか。素人が見ても、それが致命傷であるのは明らかだ。それでも口元に手をかざすと微かに、しかし確かに呼吸をしている。片方の肺は完全に潰れているだろうに。
彼の衣服と片方しか履いていない革靴は、枯葉と泥に塗れていた。それが事故現場から森の中を歩いてきた事実を示しているのだとしても、失われたであろう血液の量を考えれば、彼は即死か、運がよくても今頃は集中治療室で虫の息のはずだし、痛みも相当なものだろう。動くことはおろか、意識を保つことさえ不可能のはずだ。
あまりの怪我に、彼の痛覚が麻痺してしまったのかもしれない。それとも彼はもう死んでいて、亡霊だけがゾンビのようにさまよって――そこまで考えて、すぐにジムが思い当たった。先の週末、コリンがやけに積極的だったのは、ジェーンではなくジムが目的だったのではあるまいか。
吸血鬼に見込まれた者は、主の再来を待ち望むという。その来訪を望めない時、犠牲者は自ら主を求めて放浪するのだろうか。仕事や車どころか命さえ投げ出しかねぬ衝動に駆られて、コリンはジムを追いかけたのだろう。
ジェーンはコリンのジャケットと靴下を脱がせて楽な姿勢を整え、髪から枯葉や硝子の破片を抜き取り、濡らしたタオルで全身の血と泥を拭い取った。冷えた体をブランケットで覆い、寝室で使用している電気ストーブを持ち出して室温を上げた。
用意した夜食も喉を通らず、落ち着かない猫を撫でたり、目が文字を追っても読んでいない雑誌を開いたりしながら、ジェーンはコリンの容態を見守った。深夜までに目覚めなければ救急車を手配するつもりで携帯電話を傍に寄せていたが、コリンは深夜前に意識を取り戻し、水が欲しいと掠れた声で呟いた。
カップに注いだ白湯をコリンの口に注いでも、スプーンですくった僅かな量さえ嚥下するのも困難な様子だった。手足の自由も利かなくなり、生傷と生気を欠いた形相を刻んだ顔だけが唯一まともに動かせる部位らしかった。
口を潤して息をついたコリンに、ジェーンは懇願するように訴えた。
「コリン、お願い、病院に行こう」
「いや、駄目なんだ……病院に入れられたら、彼を捜せなくなる」
「ジムのことでしょう――何があったの? 彼が突然出ていったのも、あなたと何かあったからなのね」
「僕もよく分からないんだ……でも、彼が血を飲む時、なんだか幸せな気分になって……それが忘れられないんだ……」
「彼は腕を切って飲んだのでしょう」
「ああ、三度ともそうした……君は何も感じなかったのかい……?」
「ええ……」
コリンは何度も息継ぎを挟みながら、事故前後の経緯を語った。
ジムが去ったと聞いて居ても立ってもいられなくなったコリンは、会社を早退して車に飛び乗り、ジェーンの自宅周辺の道路を闇雲に走り回った。男を見つけて自分の車をヒッチハイクさせるつもりだったのだ。深夜、山間の寂れた道路に差し掛かったコリンの車は、氷結した高架道路でスリップして谷間に転落した。景色が回転し、エアバッグが爆発し、気がついたらスクラップになった車から自力で這い出していた。
深手を負ったのは承知していたが、それでもジムの行方を追うべく、コリンは月明かりを頼りに歩き始めた。ジェーンの自宅を目指したのは、彼が気を変えて戻って来る可能性に思い至ったからだ。何度も休憩を挟みながら、車道沿いに森林を歩き抜け、丸一日かけてこの住宅地に辿り着いたという。
「彼を探すのは、回復してからでいいじゃない。あなたが思っているよりもずっと重傷よ……コリン、あなたを見殺しにしたくないの」
ジェーンの言葉に、しかし、コリンは動かない首を振った。
「もしジムのことが知られたら、彼に迷惑がかかる……約束を違えることになるし、二度と会えないなら、死んだほうがましだ」
「馬鹿言わないで――」
困惑するジェーンを充血した両目が見上げた。焦点が定まらないのか、視線は宙を泳いでいる。
「かなりやばいって、自分でも分かる……僕が生き長らえたのはジムのおかげだって実感はあるし、感謝もしてる……とにかく僕は、ここでしばらく休んだら、また出るよ……」
腫れた瞼が落ちてコリンは押し黙った。眠ったのではなく、再び意識を失ったのだ。
その顔を苦悶の表情が掠めるのをジェーンは見た。起きている間は平然としているが、やはり痛みを堪えているのだろう。ジムが与えたものは、その苦痛を上回るものなのだろうか。コリンが瀕死状態にあるのは疑う余地も無い。何か人知を超えた力が、彼を存えさせているのだ。
恐らくコリンは、ジムに咬まれた。それも意図せず牙が引っ掻いたくらいの、小さな事故だったのだろう。けれどその魔力がコリンを即死から救ったのなら、ジムを責めることはできない――たとえコリンの行動の動機が彼であったとしても。この文章は、ハートでるソルどっとコムから複製されました。ジムが明晩を待たずに去ったのも、その事に気づいたからではあるまいか。
もしコリンが死ぬようなことがあれば、彼はジムのように生ける死者となって甦るのだろうか。伝説が本当ならば、吸血鬼を滅ぼさなければ、その犠牲者もまた……。
ジェーンは携帯電話のネットアプリで検索をかけ、近隣の市街の総合病院に専門科があるらしいことを知った。ジムに会う以前ならばまともに取り合わなかっただろうが、一連の超自然的な驚異を目の当たりにした今、〈特殊咬傷科〉の名は鮮烈な現実味を帯びてそこに掲げられていた。
科のウェブサイトには、電話相談は二十四時間対応との案内があったが、連絡するのはためらわれた。吸血鬼の犠牲者の治療など本当に可能なのだろうか。ジムに迷惑をかけたくないというのは、ジェーンもコリンと同意見であった。実際、彼は何も悪くないのだから。
いつもの就寝時間を過ぎても、コリンを一人残して寝室に引き上げることはできず、ジェーンは暖炉前の絨毯の上でブランケットに包まった。浅い眠りと覚醒を何度か繰り返してから、夜明け前には目が冴えてしまい、コリンの隣で何をするともなく残りの夜を明かした。
「ひどい怪我だって分かってるのに、ぜんぜん怖くないんだ……」
朝、昏睡状態から意識を取り戻したコリンは、苦しげな呼吸と共にその心境を明かした。
「痛みもあるし、ぜんぜん動けないけど、心は穏やかで……たとえこのまま死んだとしても、後悔はしないだろう……」
「コリン――」
思わず身を乗り出すジェーンに、コリンは強張った笑みを浮かべてみせた。
「心配はいらないよ……まだ死ぬつもりはないから……」
それがジムとの再会を望んでの言葉と分かっていても、ジェーンは頷いて聞き入れるしかなかった。
昼前になり、今日は欠勤して付き切りで介抱する意向を伝えると、コリンはジェーンを会社に送り出して留守番をする気でいるらしいことが分かった。事故の報告に長期休暇の申請、彼の仕事の穴埋めや調整も必要なはずだと説き伏せられ、コリンに促されるまま出勤の仕度をしたジェーンは、それでも葛藤の中、車に乗り込んで家を出た。
ハンドルを握っても、グリーンデル・ドライブに進入しても、不安は募るばかりだった。今夜帰宅した時、もしコリンが息をしていなかったら――ジムのようになっていて、そうしたら――。
前方からクラクションが鳴り響き、我に返ったジェーンは慌ててハンドルを切った。カーブに差し掛かった彼女の車は、対向車線上に膨らんで走行していたのだ。心臓が早鐘を打つ。もし今の自分に何かあれば、コリンを助けられる人はいなくなってしまう。きっとあのまま家のソファで、眠るように息を……。
会社の駐車場に到着するなり、ジェーンは携帯電話を取り上げて、控えておいたシティ・ホスピタルの番号をコールした。
事のあらましを話し終えると、ジェーンは息をついて両手で顔を覆った。
「つまり――君の友人が‘咬まれた’のは事故だった。君がジムという吸血鬼を撥ねてしまったように」
彼女の話を全面的に信じ、必ず力を貸すと約束してから、リックは念を押した。事故の吸血鬼案件など、そうそう起こるものではない。
「そうだとしか考えられません。コリンにも自覚はなくて……私と同じように、ジムはカッターの刃で切った傷から血を飲ませたはずです」
ジェーンの腕の傷を確認すると、筋に沿って丁寧に切りつけた短い切創は、既に塞がりかけていた。時の経過と共に目立たなくなるだろう。
相手の意思を操ることが可能であったとはいえ、吸血鬼は咬まない方針を貫き、彼女も誠意をもって介抱に当たり血液を提供した。それだけならば、ジムとの遭遇は、晩年に子供たちに語って聞かせるだけの、不思議な体験談として終結したはずだ。
そこに友人が咬傷を負うという別の事故が発生した。それも善意の行為が切欠となったのだとすれば、誰も善きサマリア人の過失を咎めることはできない。
「お願い、コリンを助けて――でも、もし彼が本当に吸血鬼の力で生き延びているのだとしたら、ジムの身に何かあれば、コリンもきっと……」
涙ぐんで俯くジェーンにリックは言った。
「まずはコリンをここに収容しよう。医療の保護下にあれば、万が一の時にもすぐに対応できる」
「でも――彼は病院には入りたくないって……」
「僕も行って説得しよう。こう言えばいい――ジムに心配をかけたくないのなら、病院で早急に治療して健全な姿を見せるべきだって」
リックは病院の搬送車を借り出し、ジェーンの車を追行して彼女の自宅に向かった。グリーンデル・ドライブに進入する頃には、短い冬の日は既に傾き始めていた。
到着して間もなく、コリンには説得どころか一刻の猶予もないことをリックは知った。その意識は戻る気配もなく、今にも消え入りそうな虫の息だけが、ジェーンの呼びかけに虚しく応じた。
下手に動かすのは危険と判断して、迷わずリックは救急車を手配した。またベスに連絡を入れて早めの出勤を促し、患者の担当になり治療の指揮を取るように頼み込んだ。並の医師ならコリンの状態を一目見ただけで身内に患者の所属する宗教を尋ね、その傍ら看護師には死亡届の書類を用意するよう指示を出しかねない。
救急車を待つ間、リックは毛布に覆われていたコリンの腕を確認し、絆創膏で守らていた三本の切創、その側の小さな掻き傷を牙による咬傷と判定した。
やがて救急隊員が到着し、首を傾げるどころか自身の正気を疑う彼らを説得する代わりに、リックは搬送の指示を出しつつ、かなり特殊なケースのため、できる限りの延命を続けながら搬送先で待つ専門医に任せるようにと言い聞かせ、病院とベスの名を伝えて救急車を見送った。脊椎を負傷した怪我人が、潰れた肺と骨折した脚で数マイルの山林を歩き通した不条理を説明する無駄を省いたのだ。
コリンの付添いのため外泊の用意をするジェーンを残し、リックも搬送車で病院に引き返したものの、帰宅ラッシュの渋滞に出くわし足止めをくらってしまった。シティ・ホスピタルに着く頃にはすっかり日も暮れて、市街のいたる場所で屋外の電飾が煌めいていた。
患者の行方を聞いて術後回復室へ向かうと、緊急手術の助手を務めたベスがアシスタントたちに指示を出していた。リックの帰還に気づくと手短に患者の容態を伝え、特殊咬傷科の病室に収容する用意を進めていると話した。
「理解のある執刀医を捕まえられて良かった。応急処置ではあるけど、大量の輸血と、繋げられるところは繋いで、塞げるところは塞いで――後は彼次第ね、どれくらい持たせられるか。いつ死んでもおかしくない――いつ生き返っても」
温風ブランケットに覆われたストレッチャーの上で、人工呼吸器や各種チューブに繋がれたコリンが浮かべるのは、危篤患者の死相である。それでもバイタルモニターは彼の規則的な心拍を伝え、辛うじて保ち続ける生命活動を主張している。
やがてコリンは生命維持装置共々特殊咬傷科へ移された。重篤な状態にありながらも集中治療室に置いておけないのは、心臓の鼓動が途絶えた時の配慮である。失血状態のまま生き返った不死者がまず何を求めるかは明白だ。
ベスがベッド回りの機器を調節する間、入院手続きを進めるためにリックがオフィスに向かうと、ロンが出勤していた。収容されたばかりの急患について事情を説明するのを、デスクに着いたロンは黙って聞いていた。
吸血鬼案件に関しては、故意だの過失だの善意だのは考慮せず、起こった事実だけを客観的に分析すべしというのがロンの方針である。彼ならばジェーンが事故を起こすよう誘導された可能性さえ疑うだろう。
寝所を定めず、獲物を求めて各地を移動する放浪型の吸血鬼は厄介であると、話を聞き終えたロンは意見した。犠牲者に牙を剥かず、咬傷も残さないとすれば、その捜索はまず不可能といっていい。コリン自ら盲目的にジムを捜し求めて奔走していたのならば、彼の言動も主の居場所を割り出す手掛かりとはならないだろう。
たとえ宝くじに当選するような確率でジムを捜し当て、運良く‘処理’できたとしても、コリンの容態が快方に向かうという確証はない。彼に人間として死ぬ権利を確保するだけになるかもしれないのだ。また、彼がこのまま犠牲者として息を引き取り、生なき生に目覚めるのならば、吸血鬼の恐るべき治癒能力によって回復は望めるだろうが、その先に待つのは杭による滅亡である。
医療の手は尽くされ、既に一分の余命をも彼に保障していない。こうしている間にも彼は衰弱し、限界は近づいている。どちらに転んでも、もう先はないのだろうか。
やがて遅れて家を出たジェーンが、ウィークエンダーを手に病棟に到着した。コリンの容態が思わしくないこともあり、ベスかリックの立ち会いの下でならとロンは面会を許可した。点滴針がいくつも固定された腕に触れ、ガーゼと包帯の隙間から覗く落ち窪んだ目元を見つめながら、ジェーンは眠り続けるコリンに励ましの言葉をかけた。
クリップボードに留められた書類を手にしたリックは、ジェーンに質問をしたり確認を取ったりしながら、その場でコリンの入院手続きを進めていった。
「彼の身内や両親に連絡はしたのかい?」
「いえ、会社以外には、誰にも伝えるなって……遠方に住んでいて、心配をかけたくないのですって」
車内泊には向かない季節、これから付近の宿泊施設を当たると話すジェーンに、今夜は空いた病室で休むのはどうかとリックは勧めた。申し出を受け入れたジェーンを隣の病室に案内してから、もうひとつだけ訊ねた。
「君の希望はあるかい、コリンやジムのことで?」
「これ以上――誰も傷つかないで欲しいの。私の事故が原因で……」
ジェーンは空のベッドに手荷物を置いて首を振った。
「考えられないの。何も考えたくないわ」
感情のない顔が縋るようにリックを見上げた。彼女自身では如何ともし難い現実に直面し、心身共に疲弊しているのだ。
「コリンの容態は常時モニターしているし、僕も頻繁に確かめにいく。だから君は少し休んだ方がいい――君自身が医者の厄介になる前に」
「そうね……ありがとう」
傍らの椅子に腰を下ろすと、ジェーンは去りかけるリックに心情を打ち明けた。
「事故なんて、職場ではいくらでも処理してきたの――事務的にね。責任とか過失の割合とか、原因は何か、被害総額は、補償金額は、賠償金は――でも、いざ身近に起こってみると、何だか不条理なものね。だって、どんなに気をつけていても起こる時は起こるし、だから事故なんだもの。©レディソルミナ。起こってしまった事実を後から押し付けられて、どこにも選択の余地なんてなくて……」
リックは頷いて同意を示した。
「君やコリンだけじゃないよ。明日の保障がないのは、僕だって――ジムだって同じさ。それでも明日は来るんだ、否応なく。今日から逃げ出すことはできないけど……せめて昨日よりは悪くない日だって、そう信じていよう」
退室すると、オフィスから現れたベスがすれ違い様に通常の勤務に戻ると伝えていった。患者が手遅れにならなかったのは、彼女の定時外労働と尽力に寄るところが大きい。
「君は――どうするべきだと思う?」
リックが投げかけた問いに、ベスはしばらく進んでから立ち止まり、振り返って答えた。
「誰が絶望しても状況は変わらないわ。死ぬか滅ぶか、その選択肢しか残されていないとしても――そうなるべくしてなるのだから、受け入れるしかないわね」
事態は呆気なく転機を迎えた。
夜明け前、突然コリンの心拍が途絶え、心停止を知らせる警告音が鳴り響いた。容態の急変というよりは、残っていた生命力が尽き果てたらしかった。
リックが救急処置に当たり、駆けつけた医師たちが蘇生を試みつつ、頃合いを見計らって病院棟の集中治療室へと搬送された。間もなく夜が明けるため、万一の場合にも危険は少ないとロンが判断したのだ。
「コリン、戻ってきて……待ってるから……!」
騒ぎで飛び起きたジェーンは、集中治療室(ICU)へと収容されるコリンをリックと共に見送り、開院前の誰もいないロビーで彼の無事を祈るしかなかった。
ジェーンもリックも医師たちも、可能な限りの手は尽くした。ベスの言葉通り、後はコリン次第――最悪の事態に直面することになっても、その用意は整っている。
開院時間を迎えて従業員や利用者の往来が増えても、ジェーンは隅のカウチに掛けたまま動かず、不安に苛まれる時間だけが過ぎていった。
コリンが峠を越えたと医師に伝えられたのは、日も高く昇った遅い朝だった。
一命を取り留め、回復を望めるまでに安定した患者を、医師たちは口々に奇跡的だと形容したが、これは先に手術を請け負った執刀医の処置が正しかったのだろう。
リックとジェーンに集中治療室での面会が許可されたのは昼前だった。バイタルは安定し、人工呼吸器の補助はありながらも、自発呼吸を行なっているとのことだった。
ジェーンが涙を浮かべて九死に一生を得たコリンを見舞う間、リックが彼の腕の咬傷を改めたところ、それは跡形もなくなっていた。つまり主は滅び、コリンはその呪縛から逃れたということか――?
「ジムは……ジムに何かあったのかしら……」
安堵と憂慮とを同時に湛えて、ジェーンは言った。
「それは分からない。でも、コリンは持ち直した。生きて呼吸をしてる。もし彼の命を繋ぎ止めたのがジムだったとしたら、僕も心から感謝するよ」
半信半疑ながらも咬傷の影響からの解放を報告するリックに無言で頷き、ジェーンはベッドに横たわるギプスと包帯のミイラ男を見下ろした。それでも吸血鬼よりはましだろうか。生死の境をさまよったのに、チューブとガーゼの間から覗くその表情は、やけに生き生きとしていた。
その日の午後、コリンは意識を取り戻した。人口呼吸器に阻まれ声を出すことはできなかったが、交互に訪れる痛みと鎮静剤による昏迷の間に、健気な笑いを見せた。
集中治療室を出たコリンは、特殊咬傷科には戻らず一般病棟に移された。気管チューブも抜去され、ようやく言葉を交わすことのできたジェーンは、彼が高架橋の事故の瞬間からの記憶を失っているらしいことを知った。さらに、ジムに纏わる記憶は曖昧どころか完全に消え去っていた。なぜ深夜にあんな場所を走行していたのか、見当もつかないという。
ジェーンの家でギフトの包装を手伝ったことは憶えているが、ソファには誰もいなかったとコリンは話した。二人で出かけたショッピングの目的も忘却していた――レストランで囲んだ皿の料理は思い出せるのに。
担当医師によれば、記憶障害は一時的なものかもしれないが、完全に回復して社会復帰を果たすにはかなりの期間を要し、脊椎や臓器の損傷には後遺症が伴う可能性が高いということだった。
コリンの身を案じて、ジェーンはジムに纏わる事柄は何一つ話さなかった。たとえ思い出したとしても、夢だったと思ってもらった方が、彼の予後にはいいかもしれない。いつか二人で選んだワインを開けて、彼の回復を祝う日が来るだろう。その時、ジェーンは何も言わずに微笑んでいようと胸に誓った。
夕方、小用で病院棟に赴いた足でコリンの見舞いに向かったリックは、病室から現れたジェーンと出会わせた。
「その節はどうも――彼、今、眠ったところで。まだ強い痛みの薬をもらっていて……」
カーテンの引かれた室内に優しい眼差しを向けるジェーンの横顔には、まだ心労の影が揺れていたが、コリンの無事を見届けた今は目に見えて明るさを取り戻していた。
「だろうな……それならいいんだ。話はできたのかい?」
「ええ……彼、プロポーズしてくれたんです。死を身近に感じて、独身(ひとり)でいるのが怖くなったんですって。――私、受けることにしました」
「それは――おめでとう」
リックの祝辞に、ジェーンは困ったようにはにかんだ。
「ありがとう。まだ普通の生活に戻るには、何ヶ月も、何年もかかるでしょうけど、きっと大丈夫です」
「その間、君が彼をサポートしていくのかい?」
「お互いに、かしら。彼、うちの会社の保険の一番いいプランに入ってたの。医療費も車の事も何も心配いらないって、自信満々に宣言する彼を見て、初めて頼もしいって思えた。先の事やリスクも視野に入れて計画を立てられる人なんだって――無鉄砲なところもあるけど」
容態の安定したコリンは間もなく転院が決定した。転院先は設備が贅沢なことで有名な総合病院である。この文章は、はーとでるそる、どっとこむから、コピーされたものです。保険会社の社員だけあり、その扱いはよく心得ているらしい。
夜、オフィスに戻ったリックに、ドアの脇に立っていたロードが丸めた新聞紙を差し出した。
「読んでみろ――左下だ」
如何にして入手したのか、それは他州のローカル紙で、今朝付けで発行されたものだった。リックは新聞紙を広げて記事に目を通した。
〈レッドヒルズ踏切事故で二名死傷〉
今日未明、レッドヒルズ通りの踏切で貨物列車と乗用車が衝突し、ピックアップ・トラックに同乗していた二名が死傷する事故が発生した。現場は見晴らしのよい草原地帯で、警察はトラックが線路内に進入したとみて捜査を進めているが、遮断機が作動しなかったという操縦士の証言もあり、運転手の過失ではなかった可能性もある。
トラックを運転していたのは地元で農場を経営するラリー・ジェファーソン氏で、意識不明の重体により病院に搬送され治療を受けている。助手席に同乗していた身元不明の男性は現場で死亡が確認され、警察は身元の特定を急いでいる。
男性は二十代から三十代とみられ、所持品は櫛、ボックスカッターと二枚の硬貨のみで、身分証や携帯電話は持ち合わせておらず、ジェファーソン氏との関係も不明。氏の妻パトリシアによれば、夫はアリゾナ州の息子を訪ねており、折返しの途上でヒッチハイカーを便乗させたのではないかと、州間高速道路(インターステート)四十号線を利用するドライバーに情報提供を呼びかけ……
リックは顔を上げた。驚きよりも疑心が先に立った。
「事故……まさか」
件の吸血鬼は滅んだのだ――ジェーンとコリンに別れを惜しまれた男は。
「不幸は単独(ひとり)で訪れない、と言うではないか。それとも、事故ではなかったと言いたいのかね?」
呆然と立ち尽くすリックを残して、ロードはオフィスから立ち去った。
男の死因が衝突事故ではないと判明すれば、警察は彼の身元調査を打ち切るだろう。擦り減ったブーツの下に真新しい靴下を履いたヒッチハイカーは、何十年も前に既に死亡していたのだから。
釈然としないながらも、リックは起こった出来事を受け入れるしかなかった。何しろ彼はジェーンから話を聞き、コリンを病院に収容するよう計らっただけで、この自動車事故を発端とする吸血鬼案件にはなんら関与していない。つまり週に二度も交通事故に遭遇した不運な吸血鬼が存在し、それが切欠となって結ばれたカップルがいたという事実を知り得ただけなのだ。
それにしても、と、リックは考えた。
とんだキューピッドを撥ねたものではないか――その愛の矢を自らの心臓に受けて祝福を授けるとは。
Dec. 2024
シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉: 真夜中のヒッチハイカー
https://heartdelsol.com/works/novel/swd07.htm
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