シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉

あおい うしお

生物標本 Evidence of a Life

 特殊咬傷科の物語は犠牲者、或いはその身内や配偶者の来院から始まるのが常だ。それが今夜は違った。
 誰の了承を得て院内を訪れたものか、案内された病室の簡易椅子に掛けているのは、他でもない吸血鬼であった。
 「――スティーヴン・クラークと申します」
 男は穏やかな口調で名乗った。古着屋ではなく骨董品店のショーウィンドウから取り寄せたようなオーバーコートは、初老と呼ぶにはまだ早い彼の本当の年齢を示唆しているのかもしれない。
 「驚きになられたでしょう、私のような者が、こういった場所を訪ねるとは。杭を振りかざして追い返さなかったことを、まずは感謝いたします」
 古風なアクセントのある丁寧な言葉遣いだった。
 「いえ、敵意がないのは明らかでしたし、今夜は科長が不在ですから――」
 ロンなら断ったであろう相談者を迎え入れたのは、リックの独断だった。男の礼儀正しい物腰に動かされたこともあるし、ハンターの本拠地に単身乗り込んで来る覚悟が、彼の抱える問題の深刻さを物語っていた。
 吸血鬼が名乗り現れて取り乱さずに、そして真摯に対応できる人間が、世にどれほどいるかは分からない。けれどその内の一人が今、彼と向かい合った。
 「ご用件を伺います」
 「依頼ですよ、吸血鬼退治の。実は一人、しぶとく人生にしがみ付いている輩がおりまして、あなたのご協力のもと送ってもらいたいのです」
 やや戸惑いながらリックは頷いた。吸血鬼に吸血鬼退治を依頼されるケースは初めてだった。ロンの記録にもないはずだ。
 理不尽な話ではない。敵対する吸血鬼同士が夜間に渡り合うよりも、昼間、相手の寝所を暴いた上で送り込んだ人間の杭の一打ちの方が、場合によっては容易に相手を滅ぼすことが可能だ。通常ならば吸血して僕となった人間を差し向けるのだろうが、穏便に金で人を雇うという選択肢もある。義侠心に訴えれば、無償で志願する者さえ現れるはずだ。
 「――お知り合いの方ですか?」
 訊ねると、男は困ったような笑みを浮かべた。
 「知り会いというには、少々付き合いが長過ぎるでしょうか――つまり、私のことなのですが」
 リックは言葉を失った。彼は自分を滅ぼす依頼をしに訪れたというのか。
 その沈黙を見越したように、男は言葉を続けた。
 「驚くのも無理はないでしょうが――ただその前に、どうしてもお聞き入れ頂きたい条件がありまして」
 「条件?」
 「条件というよりは、希望でしょうか。逝く前に、どうしても会っておきたい方がいるのです。そうしなければ、私は滅んでも滅びきれないでしょう」
 「会って――それだけですか?」
 リックは訊ねた。的確な問いであった。
 「――それだけだと思いますか?」
 あえて挑むように男は問い返した。リックが答えられずにいると、彼はふと微笑んだ。
 「正直にお話ししましょう。私はその女性に会って口づけたいのです――唇ではなく、この牙で」
 またもリックは二の句を継げなかった。彼には襲いたい女性がいる。その代償が自身の滅亡であっても。
 「どうでしょう、引き受けていただけませんか?」
 当然ながら、すぐに答えは出せなかった。しばらく考えてから、リックは訊ねた。
 「もし僕が引き受けなかったら……」
 「私のことは全て忘れて下さい。依頼についても、今夜ここでお会いしたことも。他を当たることにします」
 そこへ第三者の声が割って入った。
 「――引き受けてやれ、リック。冥土へ旅立つ紳士への手向けだと思って」
 いつの間にか、ドアの脇にロードが立っていた。(C)LadySolMina本来ならばロンの定位置である。
 「その女を襲っても、彼はその心臓をおまえに委ねている。後始末をつけてやれば、科長殿も文句はあるまい」
 ロードの指摘も一理ある。もし相談を受けていたのがロンのようなハンターだったら、男の寝所だけを聞き出して帰してしまったはずだ――そして昼の仕事のみを遂行するに違いない。
 幸いにもリックは医療従事者であり、この不治の病に冒された男は、自らの終末に臨むべく科を受診した。同じ最期を迎えるとしても、そこへ至る道筋は可能な限り患者の希望に沿うべきではないか。
 「相手がどなたか、お訊きしても構いませんか?」
 「‘スイートハート’、そう聞いています」
 愛しいひと(スイートハート)。その響きに相応しく、男は感慨深げにその名を口にした。
 「それは――彼女の愛称ではありませんか?」
 困惑するリックに、彼は付言した。
 「驚いたことに、それが本名らしいのです。見せてくれた学生証に、確かにそう記されていまして。可哀想に、一風変わったご両親を持って、苦労が絶えなかったようです」
 「どちらに住んでいるかはご存知ですか?」
 「それが名前しか判らないのですよ。それと二十年前に住んでいた場所……しかし、コンピューターとかインターネットを使えば、見つけられるのではないかと思いまして――お恥ずかしながら、私はその手の発明品にはすこぶる疎いので」
 つまり彼の依頼は実質人捜しであり、それを引き受けることは、吸血鬼の片棒を担ぐことになる。何かしらの込み入った事情を踏まえてこの紳士の力になりたい一方、その女性の身を案じれば良心が咎める。
 悩み込むリックに男は申し出た。
 「少し離れていますが、私の研究室にいらしていただけないでしょうか。詳しいお話はそちらで――」
 「研究室?」
 「はい。私は学者として長年研究活動に従事しておりまして、今では研究室そのものが住まいとなっています。依頼を引き受けていただけるようでしたら、今後はあなたの指示に従いましょう」
 それでも首を縦に振れないリックに、ロードが言った。
 「オフィスの番なら引き受けてやろう。ベスもいることだ」

 来院にはタクシーを乗り継いだという男を借り出した自動車の助手席に乗せて、リックは二時間かけて彼の住居を目指した。道案内は目的地の住所を入力したデバイスが行ない、道中の会話は殆どなかったものの、男は車窓からの眺めを愉しんでいるようだった。
 「変わったものですよ、世界も――これからも、変わり続けてゆくのでしょうね」
 高架道路から見下ろす夜景を見つめながら、ふと男が漏らした。
 「変化とは、より良い状態を求める試みです。現状に満足してしまえば、進歩は起こらないものですから――私のように」
 郊外に近いヨーロッパ調の古い町並み、その一角に路上駐車して車を降り、二人は狭い路地を歩いた。軒を連ねる家々の戸口や窓辺に並んだ花や木の鉢植えが、街灯と軒先のほの暗い明かりに影を落としている。
 質素なアパートに囲まれた小さな住宅が彼の住まいだった。
 「客人を迎えるのは、実に久しぶりです。ここまで送っていただきながら、もてなしのお茶も用意できず申し訳ありませんが……」
 飾り気のない玄関に着くと、男は開錠してリックを迎え入れた。静寂の満ちる屋内に明かりが点る。家屋は古びていながらも家具調度には塵ひとつ見当たらず、近代の歴史を扱うドラマか博物館のセットと見まごうような趣があった。古風なテレフォンテーブルに置かれたデジタル表示の電話機だけが、本当の時代を知る手掛かりだ。
 男は居間を抜けて廊下の階段を降り、電球式の照明器具に照らされた地下室にリックを通した。天井まで標本の箱やホルマリン漬けの瓶で埋め尽くされた陳列棚が壁の層を成し、研究室というよりは保管庫と呼ぶに相応しい様相を呈していた。
 針で固定された色とりどりの甲虫や蝶。瓶詰めの液体に浮かぶ白茶けた魚や蜥蜴。虚ろな目をした鳥や小動物の剥製。棚の隅には埃や蜘蛛の巣が散見される。あまりの数に手入れが行き届かないのだろう。
 「生物学者……ですか?」
 黄ばんだラベルの付属した様々な収集品を見ながらリックが訊ねた。
 「そう呼んでいただけると嬉しいです。若い頃は世界中の森やジャングルを巡り、珍しい生物を見つけては、夢中になって採取したものです。今こういう境遇にあるのも、そういった活動が一因となったことは否めませんが――」
 コートを脱いだ学者は、奥に設置された居心地の良さそうなデスクに着いて客人を迎えた。背後の壁際にも作業台が設置され、書籍や顕微鏡、道具類が整頓されて並んでいる。どれも長年に亘って使い込まれた品であると一目で知れる。
 「その頃には既に、収集した標本は相当な数に上っていました。一生かかっても調べきれない――そう思っていたものです。信じられないかもしれませんが、ここに引き篭もって研究を続けるうちに、あらかた調べて終えてしまったのです。研究の成果は論文として複数のペンネームで科学誌に投稿してきました。昆虫、爬虫類、鳥類、両生類、哺乳類、そういった小型の生物の進化論――専門的で目立たない分野ながら、多少なりは貢献してきたと自負しています。
 近年の科学技術の発展は目覚しい。私のやり方はどうにも古いと感じていましたし、そろそろ次の世代に研究を託して引退を考え始めたのです。しかし研究のない人生など、私には考えられない。それならば、いつかは来たるべき自然の摂理を受け入れようと、先送りにしていた死に臨むことを決意するに至ったのです。だからこの研究室にも、もう未練はありません」
 勧められた椅子に掛けて、リックは訊ねた。
 「その女性と出会ったのも、ここで?」
 「いえ、彼女と初めて会ったのは、私が地域の催しに出店していた夜店でした。研究を終えて不要になった標本の一部は売却して、生活費や研究資金の足しにしていたのです。美しい蝶や蜘蛛、蛇や蜥蜴――珍しい、見栄えのする標本には、すぐに新たな持ち主が見つかりました。多くは男児でした。中には大人もいました。けれど彼女はほんの少女でした。こちらの小説は、ハートでるソルどっとこむ、からコピーされたものです。
  季節ごとに催しが開催されると必ず私の店を訪れて、取り付かれたように標本に見入っていく姿が印象的で、何度も顔を合わせる内に親しくなりまして。標本を購入するだけの金銭は持ち合わせていないようでしたが、あまりに熱心だったので、いくつか無償で譲ったのを憶えていますよ。自分でも標本を作ると話していて――興味を抱いたようで、一度だけこの研究室に招待したのです」

 少女は夢見るように研究室を見渡し、天井までそびえる棚を見上げ、そこに詰め込まれた標本をじっくりと見て回った。
 「――気に入ってもらえたかね?」
 研究室の主が訊ねても、彼女は興奮のあまり無言で頷くだけだった。襟元と袖口にレースのついた衣服は、まるで人形のようだ。
 ひとしきり眺め終わると、少女は彼のデスクに両腕の頬杖をついて、満足気な表情を浮かべて礼を伝えた。髪は頭の両脇にリボンで三つ編みに結わえていたが、彼女の口調は少年のようだった。
 「ありがとう、どれもすごいね……」
 彼女の生物学や標本製作に関するいくつかの質問に答えてから、今度は彼の方から訊ねた。
 「どうして君が標本に興味を持ったのか、知りたいな」
 彼が用意した椅子にかけた少女は、率直に話した。
 「私、怖いんだ、死ぬのが。死にたくないの――地面に埋められて、それっきり忘れられて。ね、寂しいと思わない? 時間が経つと、自分が生きてたことを憶えてる人がいなくなって――」
 それは十一歳の少女が語るには、やや重い内容だった。
 「私ね、死んだら標本になりたい――クラークさん、もし私が死んだらさ、ホルマリン漬けにしてよ」
 彼は驚いて言った。
 「とんでもないよ、スイーティー。死、なんて、まだ考える歳じゃ……」
 「大人はみんなそう言うけどさ、そんなことないよ。子供だって死ぬ時は死んじゃうでしょ。事故とか病気とか――私は死にたくない。あなたもでしょ?」
 「私は――死ねないんだ」
 彼は言った。彼女の瞳を見ていると、嘘をつくことはためらわれた。
 「死ねない? どうして?」
 「吸血鬼というのを、聞いたことがあるかね」
 「あるけど――そんなこと言って、私を騙すなんてひどい。おじさん学者でしょ? 私、そんなに子供じゃないんだから」
 無邪気さの中に垣間見える大人びた沈着さが、彼の言葉を信じさせなかったのだろう。
 「もし本当だとしたら――どうしたら信じてもらえるだろう?」
 「それは――標本よ」
 少女は周囲を見回して言った。答は間近にあった。
 「吸血鬼の標本を見せてくれたら信じてあげる」
 「標本?」
 「人間の標本だってあるでしょ。脳味噌とか、珍しい病気にかかった心臓とか、生まれる前に死んじゃった赤ちゃんとか。だから吸血鬼が本当にいるなら、標本があったっておかしくないはず。それに、ほら、絶滅した恐竜とか動物とか――標本ってそのためにあるんでしょ、そういう生物がいた証拠として」

 「――年齢にしてはませた子で、証拠がなければ何も信じない疑い深い少女でした。けれど論理的な考察や検証は、科学研究には不可欠な過程です。彼女にはその素質がありましたし、良い科学者に成れるだろうと思っていました。場合によっては、この研究室ごと譲ろうとさえ考えていましたが……」
 男の表情が陰った。
 「ここで会ったのを最後に、彼女は姿を消してしまったのです。夜店にも現れず、翌年の催しで引越したという噂を耳にして、それきりです。それから二十年、私は彼女のことが気がかりで……」
 事情を聞き終えると、リックは改めて訊ねた。依頼の諾否についてはまだ決めかねていた。
 「彼女を見つけたら、どうするのですか?」
 男は静かに答えた。
 「彼女の前に姿を現して、私が‘本物’であると証明します」
 「それから――」
 「それから、あなたの協力が必要なのです」
 男はデスクの引き出しから、ジャムの瓶ほどの大きさの空の保存瓶を取り出して、卓上に置いた。既にラベルがしてあった――手書きの文字で「吸血鬼」。
 リックは男の顔を見上げた。そこには相変わらず朗らかな表情があった。
 彼の決意は本物だ。

 翌日、リックはクラーク氏の尋ね人の行方を探るために、ロンの目を盗んでインターネットで検索をかけた。風変わりな名が幸いして、短時間でそれらしい一人の女性を絞り込むことができた。
 検索結果には、州境にある自治体の福祉施設の情報がヒットした。そこに福祉士(ソーシャルワーカー)として勤めるスイートハートという職員がいるらしい。苗字は違うが、結婚している可能性もある。当時十一歳だったのならば、現在は三十代――年齢の記載もないため、本人確認は実際に会って行なう他ない。
 福祉施設と病院は相性がいいものだ。リックはシティ・ホスピタルのロゴ入りの自動車を再び借り出し、フリーウェイを飛ばして件の施設を訪ねた。
 職員IDとスクラブが物を言い、担当している患者の要望で人を捜していると受付で話すと、スイーティーと呼ばれる女性が上階のオフィスから呼び出され、本名はスイートハートであると名乗った。半袖のシャツにスラックスを合わせた、気さくな女性だった。年齢も身体的特徴も条件に合致している。
 ある紳士が二十年前に会った少女を捜していると、リックは掻い摘んで事情を説明した。
 「子供の頃、そのクラークという男性から生物標本をもらったことを憶えていませんか?」
 「クラークさん……いいえ、たぶん知らないわ」
 「彼は生物学者で、標本やホルマリン漬けの瓶で埋め尽くされた研究室を、君は訪ねたことがあると思うんだ」
 「待って……倉庫みたいな地下室でしょう……ええ、たぶん思い出したわ。あまり憶えていないけど――色々あって、あの後すぐに街から引越してしまって。その方が私に何か用があるの?」
 「君に会って渡したいものがあるそうなんだ。でも、今は手元になくて、その伝言を頼まれた」
 「渡したいもの?」
 「連絡先を渡しておくよ。会うかどうかは、君が決めればいい。それと、その電話は夜にしか通じないことを覚えておいてほしい」
 首をかしげながらも、スイーティーは電話番号の記されたメモとリックの名刺を受け取って礼を告げた。

 彼女の自宅前に路上駐車したリックとクラークは、約束の時間を見計らって玄関先に赴いた。
 「こんばんは。遅い時間にお邪魔してしまって申し訳ない」
 戸口で二人を迎えたスイーティーにクラークが詫びた。
 「気にしないで、平日は私も仕事があるから、夜しか空いていないの。それにしても、お久しぶり――まるで何も変わっていらっしゃらないみたい」
 「変わっていないんだ」
 男は苦笑した。
 「渡したいものがあるって、お聞きして……」
 「そうなのです。けれどその前に、よろしければ少しお話を聞かせていただけませんか。あなたが消えてから、ずっと行方を案じていたのです。コピーライト、ハートデルソルドットコム。 時間は取らせません――彼も待っているので」
 男が振り向いて頷くと、リックは車で待っていると伝えて、二人を残して立ち去った。
 スイーティーは立ち話も何だからと客人をリビングのカウチに案内し、隣に掛けて町を去ってからの経緯を手短に話して聞かせた。両親の虐待が露顕し、福祉士に救出されたこと。里親に引き取られて、他州で生活を始めたこと。彼らは素晴らしい両親で、彼女は幸福な学生時代を過ごし、過去の経験から自らも福祉に関わる仕事を志すようになったこと。
 まだ標本を集めているかとクラークが訊ねると、彼女は微笑んで首を振った。
 「いいえ、引き取られた時に何も持ち出せなくて、標本のコレクションは手放さなくてはならなかったの。でも新しい両親がとても良くしてくれて、安心できる居場所を見つけてからは、標本にはあまり興味を持たなくなって……」
 スイーティーはジェスチャーを交えて語った。
 「今になってから思うの。ほら、とてもストレスの多い幼少期を過ごしたでしょう、だから私の中に抑圧された感情みたいなものがあって、小さな生物を瓶の中に閉じ込めて、自分と同じような境遇を作り出して、征服者になったり、同情したり――そうやって自分を慰めていたんじゃないかって。だから引越して自由を得られてからは、死や病気みたいな不安に囚われることもなくなって、物事を自然に受け止められるようになれた――かな」
 クラークは何度も頷いて、彼女の話に耳を傾けていた。二十年の空白が満たされると、彼は満足気に言った。
 「あなたが幸福な人生を歩んでいるようで安心しました。てっきり私は、あなたが科学者になるものとばかり……」
 「がっかりさせちゃったかしら?」
 「いえ、より自分らしい道を見つけて歩んでいる。素晴らしいではありませんか」
 スイーティーははにかんだ表情で答えた。
 「ありがとう。それで、渡したいものって……」
 「実はあなたに頼まれたものを、ようやくお見せできそうでして」
 「私、何か頼んでいたかしら?」
 「忘れているだろうと思いました――ひとつ、思い出してみませんか」
 徐に、クラークは右手を掲げた。
 不思議そうに見上げるスイーティーの眼差しが、彼のそれと出合った。掌に意識が吸い寄せられるように、彼女は動けなくなった。
 「クラークさん、何を……」
 何も言わずに、クラークは笑いかけた。その口元に鋭い光を見つけて、スイーティーの目に戸惑いの色が浮かんだ。
 「思い出すのだ、あなた自身の言葉を――」
 突然、ひとつの記憶が彼女の脳裏に閃いた。二十年前にあの研究室で彼と交わした会話が、まるで昨夜の出来事のように甦った。同時に、ある確信が浮かんだ。
 「あなた……本当に……」
 覚束ない意識の中で、彼女は声を絞り出した。
 「それを証明するために来たのです」
 「やめ……て……」
 拒絶の言葉とは裏腹に、スイーティーは瞼を閉じた。そう仕向けられているのか、悪い気はしなかった。
 始終意識はあった。けれど反抗する意志は失われていた。冷たい腕に抱き寄せられ、喉に鋭い痛みが走っても、彼女は悲鳴一つ上げず、心地よい恐怖と湧き上がる快楽に身を震わせた。
 寝息を立て始めた彼女をカウチに横たえると、クラークは家を出てリックの待つ車に向かった。
 「信じた――そう願いましょう」
 乗車してから自宅に着くまで、彼は無言のまま流れ去る車窓の景色を眺めていた。

 「もう何も思い残すことはありません――実に晴れやかな気分です」
 デスクに着いたクラークは、最後の来訪客に告げた。謝礼金を収めた封筒を卓上に差し出し、鍵束を乗せる。
 「書類も何組か入っています。家とこの研究室は好きになさって下さい。売却するなり、どこかの大学にでも寄贈するなり――タイプライターは扱えますか? こちらにサインだけした空の手紙を何通か用意しておきました。適当な本文を付けて送れば、応じてもらえるでしょう。貴重なものはその価値の分かる目ぼしい研究者に送ってしまったし、スイーティーが学者になっていたら譲ろうと思っていたものも、今の彼女には重荷になるだけでしょう」
 椅子から立ち上がった男は、長年に亘り収集された膨大な数の標本の壁、その間を歩き始めた。
 「瓶に閉じ込めたところで、永遠に残るわけではありません。これらもいつか劣化して、破棄され、失われるでしょう。いつまでも残ればいいと願いはしますが、長い目で見れば不可能です。それでもひととき、何かを留めたかった――その思いの結集なんです、ここは」
 部屋を一巡りして戻ると、椅子に掛けたリックの隣に立って男は言った。
 「ウィルソンさん、あなたには心から感謝しますよ。残された時間は僅かですが、謝礼金の他に、何かあなたのためにできる事はありませんか?」
 「僕に……?」
 視線を落として黙り込むリックを残して、クラークはデスクに戻った。優しい音を立てて椅子が軋む。
 暫しの沈黙の後、リックが口を開いた。
 「質問をしても構いませんか――科学に関する……」
 「もちろんです。私の知識は少々古いかもしれませんが」
 息をついてから、リックは訊ねた。
 「科学者としての経験を通して――魂は、あると思いますか? 死んだ後も残ると――」
 「いい質問ですね。そして難しい命題だ。魂というのが、我々の意識であるという前提で考えてみましょう。肉体が死を迎えても、それを知覚する意識は残るのか――?」
 クラークは学生に教える教授のように答えた。
 「生物学者として、でしたら、その問いにはお答えできないことをお許し願いたい。ご存知の通り、生物学は生命の神秘を解明するに至ってはいないのです。生命活動は説明できても、魂の存在は未だ証明されていません。
 けれど近年の物理学には、観察者があって、初めてそれは存在し得るという説があるそうです。あなたが存在すると知覚した時点で、意識、つまり魂は確かに存在する――何かしらの形で。それは哲学でいうところの‘我思う、故に我あり’なのでしょう。そして物質を含む全ての現象は、エネルギーとして捉えることができるという。すると、そこにエネルギー保存の法則が適用される――つまり、どんなものでも、ただ無に帰す、ということは不可能なのではないでしょうか」
 男はデスクの隅のオイルランプを示した。くすんだ火屋の内側には、煤けた芯と透明な空間だけがあった。
 「炎が消えても、それは燃焼や発光といった反応が観察できなくなっただけで、放出されたエネルギーは形を変えて存在しています。熱や煙――それらも拡散して周囲に溶け込んでしまいますが、それでも失われたわけではありません。ただ不可逆的で、元の状態に戻すことができないだけです。
 つまり死を迎えた肉体に意識が観察されなくなっても、一度は存在した意識――そして魂は、それまでとは違った形で保存される――というのが私の見解です。物理は専門外ですし、それを証明する手立てはありませんが――まあ、これは近々知れることでしょう」
 穏やかどころか、むしろ嬉々として語った男に、リックは礼を告げた。
 「――ありがとうございます」
 「質問は、それだけですか?」
 「はい」
 答えたリックに、今度は男が訊ねた。
 「あなたも死を怖れますか、少女の頃のスイートハートのように?」
 リックは首を振った。
 「いえ、自分の死が怖いと思ったことはないんです。でも、周りの人を失うのは……」
 「なるほど……ですが、あなたが思うほど、向こうの世界も悪くはないのかもしれません。ここで研究を重ねるうちに、私はそう信じるようになりまして――信仰抜きで、ですよ。進化論を語るだけで、非難を受ける時代もありました。現在は自由に論じられるようになったものですが、科学だけでは説明できない事象の存在を、私自身が証明しているようなものでしょう。著あおいうしお。まだ科学も至らないところが多いのは事実です」
 男は淡々と語った。
 「順序が不規則で、戸惑うことはあります。若くして逝く者もあれば、私のように長く居座っている者も。けれどベールの向こうで待っている先駆者があり、遅かれ早かれ、誰もが仲間入りすることになります。あなたとも、また出会えるように願っていますよ――さて、そろそろ朝ですね」
 時計を見ることもなく、男は立ち上がった。
 「旅立つ前に、一度くらいは日の出を拝んでみたいとも考えていましたが、風に吹き散らされては堪りませんから――年季が入った生物の骸の扱い難さはよく知っているのです。最期は私の寝所で迎えても構わないでしょうか?」
 「もちろんです」
 リックも立ち上がり、男の後について研究室の片隅に設けられたクロゼットに向かった。
 扉を開けると、そこにはシンクと用具入れが設置され、脇に黒ずんだ長い木枠の箱が置かれていた。底に敷かれた白いシーツは、今日のために用意したものだろう。その下は恐らく裸の土だ。
 「瓶に入らない分は、ここに埋めてしまって下さい。大した嵩にはならないでしょう。衣服だけはすみませんが処分していただきたい」
 男は慣れた身振りで箱に身を横たえ、小部屋に入りあぐねているリックに声をかけた。
 「構いませんよ、お入りになっても――見送ってくれるのでしょう」
 リックはシンクと棚の間に身を滑り込ませ、棺の傍らにスペースを見つけて腰を下ろした。
 「昔はここを暴かれぬかと始終案じていたものですが、よりによってハンターに見守られて逝くとは、不思議なものです」
 床の上で男が言った。
 「僕も――こうして見送るのは初めてです」
 不安気なリックの顔を見上げて、クラークは手を差し出した。
 「お別れです。後は頼みました」
 冷たい指を握り返して、リックは答えた。
 「はい……おやすみなさい(グッドナイト)」
 朝が来るというのに、男を送る言葉を他に見つけられなかった。
 彼は微笑み、頷いて瞼を閉じた。
 間もなく固く握られた指から力が抜けていった。リックは男の手を腹の上に置かれた彼の左手に重ねた。
 たった今、それは死体となった。けれどその身に受けた呪いのために、魂はここに留まっている。リックは腰に提げていたロッドを手に取り、安全装置(セーフティ)を外した。
 吸血鬼退治には、白木の杭が不可欠であることはよく知られている。フィクションでは心臓を貫くことだけが強調され、本質を伴わずに流布されている方法であるが、本来は生ける屍――死して尚、死を受け入れぬ肉体を大地に打ち付け、そこに囚われた魂を解放することが目的である。だからその心臓を貫く杭の切先は、地に到達していることが望ましい。
 なんとも非科学的で――それでいて納得の説ではないか。
 男のシャツの胸元に切先を当てて、リックはトリガーを押し込んだ。
 圧縮ガスの抜ける短い音と軽い衝撃。瞬く間に男の身体は干乾びて落ち窪み、崩れてわだかまる服を着た遺骸の中央で、杭だけが墓標のように天へと突き立っていた。
 リックは頭を垂れて祈った。
 観察者――その存在を証明する者。祈りとは、その名乗りを上げることなのかもしれない。

 朝、リックは再びスイーティーの家を訪ねた。
 呼び鈴を押すなり、昨夜の格好のままの彼女が慌てて飛び出してきた。
 「あの人……クラークさんは……」
 リックは頷いて差し出した――粗い遺灰の入った小瓶を。
 受け取ってラベルを検める手が震えた。
 「どうして――」
 込み上げるものを堪えながら、スイーティーが訊ねた。
 「思うに……彼は怖かったんだ、忘れられてしまうことが。死を怖れる以上に――」
 「私がこれを持っていたって、私もいつかは死ぬのよ。そうしたら、彼は忘れさられて……」
 「いいんだ。ほんのひと時でも彼を思い出して、その言葉を信じる手掛かりになるのなら、彼も本望だろう」
 「信じるわ――証拠があるもの」
 スイーティーは涙を拭った指で白い喉に触れた。
 「私、吸血鬼に咬まれたの――信じられます?」


Nov. 2023

シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉: 生物標本 
https://heartdelsol.com/works/novel/swd06.htm

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