シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉

あおい うしお

トリック・オア・トリート Trick or Treat

目次
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  8. ***

 十月が訪れると、特殊咬傷科の病棟はある種独特な雰囲気に包まれる。その訳は、シティ・ホスピタルのメインロビーを訪れれば知れる。
 受付カウンターには蛍光色のパンプキンが居座り、中空の腹に蓄えたキャンディを来院者に無償で提供している。高血圧症と糖尿病が蔓延するこのご時勢、糖分と人口香料のふんだんに含まれた菓子を病院が振舞うとは、なんとも皮肉めいたサービスである。
 悪魔崇拝と称してハロウィンを禁じている団体も多々ある中、宗教行事は自粛するという病院側の意向は、現場の医療従事者と利用者双方の暗黙の了解によって無視され続けている。小児病棟のように月ごとの装飾がなされることはなくても、復活祭(イースター)からクリスマスまで、病院という閉じた世界の中にも季節は巡るのである。
 隔離病棟である特殊咬傷科とて、その影響は免れない。職員に開放されるパーティーや催しの知らせは、地下の片隅に置かれたオフィスにも届くし、祝日や連休の高揚感とそのために繁忙を極める緊急治療室(ER)の慌しさも、通年常温に保たれた院内の空気越しに伝わってくるものだ。
 けれどハロウィンだけは例外だ。この病棟において、それはあたかも存在しないかのように扱われる。静寂に沈む秋の最中の診療科、その静けさに理由を挙げるのなら、主たる原因は困惑だ。
 不謹慎と定めた者はないのに、三人の専属スタッフはハロウィンの話題に触れようとはせず、来訪者も禁忌を犯すような違和感を覚えて自ずと口を噤む。
 彼らはどんな心構えで三十一日を迎えるべきか、未だ確信が持てないのである――奇抜な衣装を身に纏い、模造血液を全身に塗り付けた人々が、自ら怪物と成り代わって街中を闊歩する夜を。

 病院棟四階のカウンセリング・ルームは、明るく清潔感のある穏やかな空間だ。
 淡い暖色系の壁と絨毯、落ち着いた青緑色のラウンジチェアのセット。大判のロールブラインドに覆われた窓の外には、秋口の夜と街の明かりがあった。
 今夜のセッションに同席するのは三名。ドクター・ロバーツ、彼の患者デイビッド、そして――
 「こちらが前に話したミスター・ウィルソン。研修のため私のセッションを見学したいということで、呼ばせてもらった」
 弱冠三十五歳の博士は、隣の椅子に掛けたリックを紹介した。どちらもワイシャツにスラックス姿で面談に臨んでいる。
 「どうも、アシスタント・ナースのリックです。希望を聞き入れていただき感謝します」
 リックの挨拶に、スタイリッシュな茶色のセーターを着た男性は、愛想の良い会釈をした。
 「気にしませんよ。きっと特殊なケースでしょうから、学べるところも多いでしょう……僕はデイビッドです」
 丁寧な物腰ながらも彼が握手の手を差し出すことはなかった。すかさずロバーツが進行を促した。
 「さて、デイビッド、ミスター・ウィルソンは君がカウンセリングを受けに来ている訳を知らないんだ。そこで一つ、君がここに通っている理由を、君の言葉で教えてあげるというのはどうだろうか。私よりも君が伝えた方が正確だろうし、君が話したいことだけを共有しよう」
 「ええ、構いませんよ」
 行儀よく椅子に掛けたデイビッドは快く引き受けた。傍目には病の徴候など微塵も感じられない。
 「まず話しておきますが、僕は人間ではありません。驚かれるかもしれませんが、僕は吸血鬼なんです」
 真顔で切り出した男にやや驚いたような表情を作ってみせたものの、職業柄、リックにとってはそう珍しい話でもなかった。
 リックがシティ・ホスピタルの精神科に勤めるドクター・ロバーツと知り合ったのは、特殊咬傷科を設立して間もない頃だった。精神科へ患者を回す際の紹介状は彼に宛てる手筈となっているのだ。
 特殊咬傷科を受診する来院者の多くは気の病を患っていると思しい人々で、吸血鬼に襲われた、或いは自他が吸血鬼であると主張する彼らの話の真偽を見定めるのも、リックの仕事の一環である。その原因が精神疾患であれ薬物中毒であれ、ハンターや白木の杭を必要としない患者は専門家に任せる他ない。
 ところが今回の患者に限っては、精神科の方から相談を持ちかけられた。リックを今回のセッションに招待したのは他でもなくドクター・ロバーツであり、ナースの研修という口実を設けて予め患者の承諾も得ていた。
 「僕が定期的にドクターに会ってカウンセリングを受けているのは、このせいなんです」
 デイビッドは左手の袖口をまくった。しなやかな手首の内側には、痛々しい裂傷が二本の盛り上がった筋となっていた。一つはまだ瘡蓋に覆われている。
 「半年ほど前に自分で切りつけて、それで初めて自分が死にたいらしいことを知ったんです。弟の勧めでドクターにお会いして、アドバイスを受けてはいたのですが、一ヶ月前にもまたやってしまいまして……再発を防ぐために、定期的にこちらに通っているのです」
 つまりこの男性は、吸血鬼として精神科にかかり、自傷行為を抑制するべくカウンセリングを受けているのだ。博士号を持つ精神科医にも、吸血鬼の心理は理解しかねるというのである。
 もっとも、リックとて彼らの力になれる自信はなかった。それでも日頃から厄介な患者を積極的に受け入れてくれるドクターの頼みとあらば断る訳にはいかなかったし、ロードに宛ててデイビッドの紹介状を書いてやる訳にもいくまい。
 カウンセリング・セッションに立ち会うに当たり、リックは患者についてある程度の予備知識を与えられていた。
 まずデイビッドが吸血鬼でないことは紛れもない事実で、以前に襲われた、或いは接触した可能性も極めて低い。彼はロールプレイングや性的嗜好などとは全く異なるプロセスで、人生のある時点において自分が吸血鬼になったと信じ込んでいるのだ。
 実際、日光を浴びると彼の肌には赤味や発疹が生じ、過呼吸を起こしてパニック状態に陥る。これは太陽への精神的な強い拒絶反応が身体に影響を及ぼしていると考えられる。また彼は鏡の中に己の姿を見るが、他人にはその鏡像が見えていないと考えている。地に落ちる影についても同様である。
 ロバーツによれば、人は精神的苦痛を回避するため、別人や違う立場の人物へと成り変ることで自己防衛することがあるという。それがデイビッドの場合は吸血鬼であったのだ。彼の見解では、デイビッドの‘変化’は彼の幼少期における何らかの経験に起因するのではないかということだった。
 しかしながら、デビッドが何を自称してどう生きようと、その実生活や社会活動において支障がない限り、全くの自由である。事実、彼はホームスクールを経て通信制の専門大学を卒業し、就職もしている。工業デザインを専攻した彼は、その独特で繊細なセンスを買われて、卒業前には既にベンチャー企業が正社員として採用していたのである。
 問題は彼が自傷行為に及んだという事実と、その動機である。早急に原因を解明しなければ、再び彼の命を危険に晒すことになるのだ。これまでは幸運にも事無きを得て来たが、発見が遅れれば致死も免れなかったかもしれない。
 またデイビッド自身は自殺未遂と説明しているものの、自傷行為が必ずしも自死を目的としているとは限らない。ストレスの発散や抑圧された感情のアピール、自己の存在の再確認の手段という可能性もある。そして自称吸血鬼である彼の場合、手首を切るという行為そのものが、さらに違った意味を持つかもしれないのだ。
 人間には不可解な欲求を満たすべく、血液を口にしたかったのか。それとも人としての死を経て、真の吸血鬼への変貌を望んでいたのか。デイビッドの‘変化’と自傷行為に関係があるとの確証が得られない限り、ドクターは彼を人間に戻すような療法は不要であると考えている。その複雑な心理の絡まりを解く糸口を求めて、ドクターはリックをセッションに同席させたのだ。
 「――ありがとう、デイビッド。何か訊きたいことがあれば、どうぞ」
 ロバーツはリックに目配せした。
 「遠慮はいりませんよ。好奇の目で見られることは慣れてますから」
 デイビッドが言った。自虐的な発言ながら、そこに悲観や苦悩の影はなかった。
 「食事は摂っているのかい? 例えば、その――血液が必要になったり……」
 言葉を濁しつつリックが訊ねると、デイビッドは率直に答えた。
 「そうですね、そういう願望があるにはあります。前に一度、オフィスで同僚の女性を襲いかけたことがあって、警察沙汰になるところでしたが、相手が理解のある方で助かりました。それからは専ら在宅勤務をしています。食生活については、毎日普通の食事をいただいてます。パンとかスープとか――まだ‘生きて’いますから。それに、人を襲うことに関しては抵抗や罪悪感もありますし、警察の厄介になる訳にもいきませんから」
 デイビッドは牙のない歯を見せて微笑んだ。
 「‘生きて’る?」
 「はい。吸血鬼というのは、普通は死んでからなるものです。でも僕の場合は、生きながらなったらしいんですね。ですから血を求める願望も、今はあまり強くはないのでしょう」
 「つまり、人間として生きながら、同時に吸血鬼でもあると?」
 「人間であるという実感は、もうあまりありませんが……太陽も十年以上見てませんし。多分、少しずつ置き換わって、人間だった部分は殆ど死んでしまったんでしょうね」
 「このまま進行すれば、本当に吸血鬼になってしまうという抵抗は感じないのかい? 人間のままでいたい気持ちとか……」
 「それは随分前に諦めました。そうなるべくしてなったのでしょうし、それなら逆らいません」
 「それなら、手首を切ったのもそのためなのかい? つまり、変化のプロセスを早めたいと望んでいた?」
 「それが自分でもよく判らないんです、どうしてあんな行動に走ったのか。気づいたらナイフが手の中にあって、死にたくて切った訳ではないのかもしれませんが、そのまま死んでしまっても悪い気はしないと感じて……」
 「良心が咎めて、他人の代わりに自分を襲った、という可能性は?」
 「どうでしょう。僕は血そのものを求めている訳ではないと思うのです。命というか、生命力というか、そういうものが時折、無性に奪いたくなることがあって――血液は、その媒体に過ぎないのではないでしょうか。そうだとすると、自分から自分の命を奪っても、意味がありませんよね」
 「確かにそうだ……つまり、君が他人の生命力を求めるというのは、君自身に不足しているから、ということになるのかな?」
 「ええ、先ほども言ったように、僕の人間である部分は、殆ど死んでしまったんです。だから無意識に枯渇してしまった分を補いたくなるんでしょうね」
 「なるほど。答えてくれてありがとう。ところで、人間を襲うことに抵抗があるのなら、動物を代用にすることは考えなかったのかい? ――ひどいことを訊くようだけど」
 謙虚な姿勢のリックに、デイビッドは苦笑して答えた。
 「気にしないで下さい。それにあなたも肉は食べるでしょう。僕もステーキをいただきますし、だからひどいとは思いません。でも、動物の血では、この欲求は満たせないと思います。いくら吸血鬼といっても元は人間ですから、やはり生命力も人間から摂取するのが自然ではないでしょうか」
 リックが質問を終えると、ロバーツは通常のカウンセリングに移行した。そこでデイビッドは、前回のセッションから今日までの近況や出来事を、順を追って報告した。リックは特に口を挟むことなく、傍聴者として両者の会話を聞いていた。
 仕事でプロジェクトを一つ完了した事。同居する弟とストレージの整理を行なった事。封切りされたばかりのアクション映画の事。ホームセンターに出かけた際の小さな発見――夜のみに営まれないのなら、それは至って普通の、ごく一般的な生活模様であった。
 彼の特殊なライフスタイルを理解する職場や環境に恵まれ、ショッピングや映画鑑賞をする余裕もあり、デイビッドが死を望む理由などまるで見当たらなかった。彼が吸血鬼である事、その状態が彼を精神的に追い込んでいるとも思い難い。この文章はハートデルソルドットコムからのコピペです。それとも、それは表に現れている彼の一面に過ぎないのだろうか。
 優秀な精神科医として、ロバーツは患者に指示や指図をすることなく、時に同意や同感を示したり、デイビッドの行動や判断の理由を訊ねたりしながら、その話に耳を傾けていた。
 二十分ほどの対話の後、ドクターはデイビッドと二週間後のセッションの約束をして、一同は別れの挨拶を交わした。
 デイビッドが去った後、二人は再度椅子に腰を下ろした。
 「リック、彼について君の見解を聞かせてもらいたい。君は心理学については専門ではないが、だから気づける事もあるだろう。どんな事でもいい、君が思うところを教えてもらいたい」
 ロバーツは肘掛に腕を預けて訊ねた。寛いでいるように見せることで、相手の警戒心を解き、話を聞き出しやすい環境を整える。そういった術を彼はよく心得ているのだ。
 「僕の印象は――デイビッドを人間ではないという前提で捉えるなら、彼は吸血鬼としては未熟だということです。成り切れていないというか、人である状態と吸血鬼である状態を行き来してるというか……もっと犠牲者に近いような……」
 「詳しく聞かせてもらえるかな?」
 「例えば、吸血鬼の犠牲者には、内面の不合理な部分が性格の変貌として現れることがあります。それは‘主’と犠牲者、双方の利害が一致する時で、自分の都合だけで切り替えることはまずありません。そこには犠牲者自身のものではない思考や感情、つまり主の影響があり、犠牲者はそれに従っていると考えられる。でも、デイビッドは、必要に応じて人間と吸血鬼、どちらになることもできる。それが意図的なものなのか感情的なものなのか、それは僕には分りませんでしたが、吸血鬼と呼べ得る確かな人格が確立されていないというのは感じました」
 「なるほど」
 「逆にいえば、とても自然だ。彼はそれを自分の一部として受け止めていて、それが彼の全体を支配しようとしているのにも、逆らうことはない。それも犠牲者によく似ていますが、本物の犠牲者の場合、それは不自然な感情や、説明のつかない突飛な欲望や衝動に駆られることで起きます。でも彼の中では、そういったものには折り合いがついていて、必要に応じて吸血鬼の部分が現れるのではないでしょうか――手首を切ったのは例外でしょうが」
 ドクターは傾聴する言葉を吟味するようにリックを見つめていた。リックは自分が彼のクライアントになったような錯覚に囚われた。
 「では――デイビッドにとって、吸血鬼とは何なのだろう? なぜ彼は吸血鬼を選んだのだろうか。たとえば魔法使いや狼男を彼は選ばなかった訳だ」
 リックは少し考えてから口を開いた。
 「崇拝や憧れのような、そういう特別な感情を抱く対象ではないと思います。不老不死を望んでいる訳ではなさそうだったし……居心地のいい居場所を提供してくれる隠れ蓑のような……夜、というのは、一つのキーワードかもしれません。ハリー・ポッターを読破しても魔法が使えるようにはなりませんし、満月は月に一度しか訪れませんが、夜は毎晩やってきて、そして人間には血が通っている。棺を必要としないなら、思い込み一つで簡単に成れる身近なステータスでしょう。デイビッドは何か事情があって昼を避けなければならず、そこで彼は吸血鬼という夜に生きる口実を得た。諦めて閉じ篭るよりは、むしろ前向きなものを感じるけど……」
 「夜、か。なるほど……」
 含蓄のある頷きを見せてから、ロバーツは訊ねた。
 「君は、デイビッドを人間に戻すべきだと思うか?」
 「彼にとってはそれが日常となっているようですが、僕個人としては、あまり好ましくない状態だと思います。特に血液への執着は――ジョークとかアイデンティティとか、そういう域はとっくに超えていて、自己催眠みたいに、思えば思うほど気になって――」
 リックは渋い表情で首を振った。
 「何かを回避するために、そう成らざるを得なかったのだとしたら、彼から吸血鬼を奪って、その後に何が残るかは心配です。でも完全に成り切れていないということは、人間であることに未練があるということで、だから見込みはあるはずです。吸血鬼であるという状態が彼に何をもたらしているのか、よりも、逆にどういう時に彼が吸血鬼に成らずにいられるのか、を知ることが重要だと思います。彼が手首を切ったのは――僕はそれがとても人間的な行為だと感じました」
 「それはそうだろうな。彼は人間なのだからね」
 ドクターは同意を示した。
 「彼にとって吸血鬼というのは、外の世界と接するための彼なりの手段なんでしょう。冬の日にコートを着込むような……でも春になったら、やはり脱ぐべきです」
 リックの言葉を聞きながら、ドクターは手元のスパイラル・ノートに手短に走り書きをすると――ひどい字だ――立ち上がって礼を告げた。
 「ありがとう、リック。とても参考になったよ」
 「こちらこそ、何か助けになれたのなら嬉しいです」
 握手を交わしてから、リックはカウンセリング・ルームを後にした。
 通路に出てドアを閉め、立ち止まって一息つく。
 病院に勤めながらも、正直なところリックは医者という人種が苦手だった。精神科医に限らず、医師を前にすると、つい身構えてしまう。問答ともなれば緊張の一言に尽きる。患者を相手にする方がまだましだ。
 例によって今夜もリックは一時的な自己嫌悪に襲われた。専門知識ではなく、私情で話し過ぎただろうか。夜がデイビッドにとって好条件かどうかなんて、本人でなければ判るはずもないのに。
 けれど、リックには覚えがあった。夜にしか安らぎを見出せなかった日々を――そこに満ちる繊細な静けさを、ただ待ち望んだ昼日向の時を。

 カウンセリング・セッションから二週間。大きな案件が舞い込むこともなく、ドクター・ロバーツからの音信もないまま、リックは平穏な日々を送っていた。
 デスクワークを片付けながら過ごした夜のシフトも終業時間に近づく頃、リックは患者の収容要請の連絡を受けて、緊急外来のエントランスに向かった。
 患者は市内の公園で倒れているところを発見され、搬送先の病院で喉の傷が発覚、応急処置の後シティ・ホスピタルに再搬送されたという。特殊咬傷科の存在は、近隣の医療関係者の間において多少は知られるようになったらしい。
 早朝のまだ薄暗いうちに救急車が到着し、救急隊員がキャビンのドアを開けてストレッチャーを降ろす。後から患者の所持品と思しい膨らんだ買物バッグがその足元に乗せられた。
 輸血用のチューブに繋がれた患者にリックは近づいた。見覚えのある顔が、驚きを伴ってひとつの名を呼び起こした。
 皮肉なものだ――デイビッド。
 今や犠牲者となった男を、リックは病棟の地下病室に収容した。
 朝の訪れを間近に控え、緊急性はないと判断してロンに連絡はしなかった。間もなく病室を訪れたベスが診察を行ない、患者の容態と輸血処置が適切に行なわれている事を確認した。
 デイビッドの意識は戻らず、顕著な体温の低下がみられたため、リックは一般病棟から借り出してきた電気毛布でベッドを保温しながら、しばらく彼に付添っていた。
 咬傷は喉の右側。両刺傷の間隔は狭く、相手はデイビッドよりも小柄な人物であると推測される。一見したところ抵抗した跡はないようだが、果たして故意か偶然か――本人から事情を聞き出せることを願うしかない。
 日の出の時刻を迎えてベスが帰宅した後、輸血を終えて容態が落ち着いた患者を病室に残して、リックはオフィスに戻った。
 コーヒーで一服し、仮眠を取ろうとカウチに横になると、ドアがノックされた。
 起き上がって出迎えると、それはドクター・ロバーツであった。受け持ちの患者が収容されたと連絡を受け、出勤前に立ち寄ったのだという。再度の自殺未遂を案じていたものの、それが吸血鬼事案であると知らされ半信半疑でリックを訪ねたのだ。
 デイビッドとの面会を求めるロバーツに、リックは面会は謝絶であると特殊咬傷科の常套句を告げた。患者の容態が安定している事、そして今度の怪我は自傷ではない旨を伝えるのみに留めたが、彼も理解のある男で、無理を押し通すような真似はしなかった。すぐに科の方針を聞き入れ、何かあればいつでも知らせてくれと伝えて彼は去った。冷淡なようだが、精神科の患者の数は特殊咬傷科の比ではない。ロバーツにとってデイビッドは患者の一人に過ぎず、彼は多忙なのだ。
 数時間後にロンが出勤し、リックは患者の妄想癖や自傷行為などの背景を含めて事情を説明した。ロンに言わせれば類は友を呼ぶ、つまりデイビッドの奇抜な言動がそういった存在を引き寄せたという理屈である。
 どんな人間をその晩餐に相伴させるかは、個々の吸血鬼の嗜好によるだろう。女性の血しか口にしない主義を貫く男性吸血鬼などがその典型的な例で、人がレストランでメニューを開くように、彼らも状況が許す限り獲物の選り好みをする。
 しかし、犠牲者となり易い性質や傾向というのもある程度は存在するようで、精神病の罹患は一つの指標となる。但し、吸血鬼による干渉が犠牲者の精神に影響を及ぼすのか、或いは犠牲者の不安定な精神が吸血鬼の付け入る隙となるのか、その前後関係は不明である。
 夢遊病にかかり夜間に出歩くことが吸血鬼に襲われる切欠となるのか、それとも吸血鬼に見込まれたことで夢遊病を発症して夜の街に繰り出したのか。判明したところで犠牲者を救う手立てとなる訳でもないが、惹かれ合う因子を保有する二人が、どちらからともなく寄り合ったと考える方が合理的かもしれない。ロンが双方を類と見做す所以である。
 デイビッドの場合はどうなのだろう。彼を襲った相手は、デイビッドの人柄を知った上で彼に近づいたのだろうか。それとも全くの偶然か――吸血鬼であると自称する人間は、当の彼らの目にはどのように映るのだろう。

 正午前にデイビッドは目覚めた。
 回診に訪れたリックに、彼が最初に訊ねたのは現在の時刻だった。病院にいる自覚はあるようだ。
 「時間は気にしなくてもいい。地下の病室なんだ」
 「そうか……」
 デイビッドは安心して顔を擦り始めた。日光を案じていたのだろう。
 彼の目が覚めるまでしばらく待ってから、リックは診察を開始した。相変わらず体温と血圧の数値は低かった。
 「あなたは確か、ドクター・ロバーツのセッションでお会いした――」
 上半身を起こしたデイビッドは、傍らの簡易椅子に掛けたリックをまじまじと眺めた。今日は薄青色のスクラブを着ている。
 「ああ、リックだ。憶えていてもらえたなら嬉しいよ。君の担当になったんだ」
 特殊咬傷科については黙っていることにした。居心地が悪くなるかもしれない。
 「昨日の夜、買物に出たんだな」
 リックは部屋の隅のキャビネットに置かれた買物バッグを示した。ベスの親切で生ものはオフィスの冷蔵庫に移してある。
 「はい」
 「帰り道で起こった事は、憶えているかい?」
 「ええ、まあ――」
 「僕に教えてくれないか?」
 頷きつつ、デイビッドはそのまま黙り込んだ。記憶を手繰り寄せていると知れた。
 徐にデイビッドはブランケットを引き寄せて呟いた。
 「寒い……」
 「そうかい? 部屋の温度を上げよう」
 リックは立ち上がって壁に設置された空調のコントロール・パネルで室温を高めに設定した。それでも蒼い顔をして縮こまっているデイビッドを見兼ねて、用具室から予備の毛布を調達してきた。
 犠牲者が肌寒さを訴えたり冷え性を発症することはあるが、ここまで重度の症状が現れるのは珍しかった。室温はリックには暑いぐらいなのに、デイビッドは重ねた毛布に包まれて尚、声を震わせながら昨夜の出来事を語った。
 「毎週、マーケットに買い出しに行っていて――家の近所にあるので、運動も兼ねて歩いて――昨日もいつも通り買物をして、その帰り際に、店のポーチで知らない女の子に声をかけられて――足(ライド)がなくて困っていたんだ。暗かったし、不安だったんだろうな。自分は徒歩だと伝えたのですが、話しているうちに家の方向が同じだと判って、一緒に歩いて帰ることにしたんです。途中、近道になるので公園を横切ったのですが、木が影になって暗いところに差しかかった時、僕は我慢できなくなって――」
 リックは顔をあげた。
 「待てよ、君が襲ったのか?」
 「そのつもりで誘ったんだ。大きな青いマフラーをしてて、白くて細い首がその隙間から見えた時、どうしても欲しくなって――思いの外、簡単に誘いに乗ってくれて、しめたと思った……」
 どんな顔をして歩いていたんだろうとリックは考えた。彼は透明な牙を剥き出しにして、獲物と肩を並べて夜の街を歩いていたのだ。
 「どんな子だった?」
 「若い女の子で、中学か高校生ぐらいだと思いました。カールした長めの髪型で、ロアナと名乗ったよ。友達と別れた後、親を待っていたのに、都合が悪くて来られなくなったと……」
 「それで、彼女をどうしたんだ?」
 「肩を抱き寄せて、暗闇に引き込んでから――何か変だと思ったんだ。彼女は悲鳴一つあげなくて、抗うこともなく、笑っていたような……」
 デイビッドは肩から被ったブランケットを引き寄せた。
 「やけに冷たい手で僕の顔を触ってきて、咄嗟に突き放そうとしたら逆に抱きしめられて、地面に倒れこんで――すごい力で、解いて逃げることもできなくて――それから憶えてないんです。救急車の中と病院で少しだけ意識が戻ったような気がしますが、寒くて体に力が入らなくて……」
 そうか、彼は気を失ったのか――リックはなるべく穏やかに、ある事を指摘した。
 「ところで――気づいているかい、その喉の傷のこと……」
 自分の首元に指を伸ばすなり、デイビッドは血色の悪い顔を一層蒼白にして言葉を失った。
 昨夜まで吸血鬼だった男が、今日は犠牲者となって目覚めた。それがどんな衝撃を与えたものか、デイビッドは黙り込んだままベッドの中で震え続けた。
 部屋の温度を確認し、ランチには熱いスープを運ぶと約束してから、リックは昼の診察を終えた。

 リックは午後に一度帰宅して休息をとり、日暮れ前にアパートを出た。通勤の途中で少し遠回りをして、昨晩デイビッドが襲われた市民公園を訪れた。
 テニスコートの隣に整備された駐車場にバイクを停めて、数ブロックに跨る公園を一巡りできる遊歩道に降り立つ。見上げた夕暮れの空には重い雲が垂れこめ、湿気を含んだ風が吹き始めていた。今夜も雨の予報だ。
 子供たちの手書きの文字が濡れて溶け出したハロウィンのイベント告知の看板を横目に、リックはヘルメットを小脇に抱えて歩き始めた。
 彼には学生時代にその公園を訪れた記憶があった。当時はアスレチック遊具やバスケットコート程度の設備しかなかったそこは、今では体育館やホッケー場まで増設されて、多様なスポーツ活動に対応した複合施設として利用されている。
 芝で覆われた公園内の敷地には、バックパックやスポーツバッグを携えたティーンエイジャーの姿が見受けられた。近隣の学校からの帰宅途中か部活動の生徒たちだろう。日の短いこの季節、保護者が児童を遊ばせるには遅い時間帯だ。もう街灯の明かりが灯り始めている。
 誰もいないピクニック・エリアを回り込み、並木の間を通る緩やかな傾斜にさしかかっても、昨夜の事件の痕跡は何も残されていなかった。手掛かりを期待して訪れた訳ではない。©れでぃそるみな。それでもリックは立ち止まって周囲を見回した。
 湿った芝の地面には、街灯の影だけが落ちている。遊歩道を外れた遊び場とスポーツ・フィールドを隔てる木立の陰ならば、誰にも気づかれずに犠牲者を襲うことができただろう――そこへ相手を誘導したのがどちらであったにせよ。デイビッドを襲った吸血鬼は、標的が自ら暗がりへと誘い込んでくれるとは願ってもみなかったに違いない。
 最後の角を曲がり、野球場を通り過ぎて駐車場に戻る頃には日も暮れ、にわかに小雨が降り始めた。リックはヘルメットを被ってバイクに跨り、ジャケットの腕でバイザーを拭った。

 昼夜を跨いだ犠牲者の変化を観察することは、ハンターにとって重要な過程である。吸血鬼の覚醒時間にその影響が最も強く及ぶとすれば、それは夜間の異常な言動として犠牲者に反映され、主の正体や思惑を知る手掛かりとなるからだ。
 「――デイビッド、少しは温まったかい?」
 リックが二号室を訪れると、デイビッドはリクライニングさせたベッドに身を持たせかけていた。ブランケットは彼の足元だけを覆っている。
 「はい、すっかり気分が良くなりました。僕の容態はどうなんでしょう。いつ頃、退院できますか?」
 寒気は収まったのか、強張っていた表情もいくらか和らいだようだった。声にも生気が戻っている。
 「とりあえず診察して、体調をチェックしてみよう」
 しかし、うわべの様子とは裏腹に、彼の体温と血圧は相変わらず平常値を大幅に下回り、昼の数値からの大きな変化は見られなかった。
 「――ところで、この病室は鍵がかかっているんですね」
 測定器を片付けるリックに、デイビッドが訊ねた。
 「ああ、セキュリティのためにね」
 「でも、ここは精神科ではないんでしょう。患者を閉じ込める必要があるんですか?」
 「どうだろう……それは君次第かな」
 リックはベッド脇の簡易椅子に掛けてデイビッドと向き合った。
 「と言いますと?」
 「君は吸血鬼であると、僕に自己紹介したね」
 「はい」
 「それは、今でも変わらないのかい?」
 「もちろんです」
 「けれど、君は今、同時に犠牲者でもある」
 「それは、まあ……」
 デイビッドの表情が曇る。当人も複雑な心境なのだろう。
 「吸血鬼は犠牲者を操ることができると聞いてる……本当だろうか?」
 「それは、吸血鬼にもよると思いますが」
 「君の場合は、どうだろう?」
 黙り込むデイビッドに、リックはさらに問いかけた。
 「君を襲った相手は、また君に干渉するだろうか?」
 「それは……分かりません」
 「もしそうだとしたら、病院としては君を護らないといけないんだ」
 デイビッドは顔を上げた。
 「つまりそれは、その、彼女を……ロアナを追い返すということですか?」
 控えめな物言いが、却って彼の狼狽をよく表していた。主の身を案じていると知れる。
 「そういうことになるかな。でも、それだけでは、具体的な解決には至らないだろう。探し出して滅ぼす、というところまで考慮する必要が――」
 「それなら心配なさらないで下さい」
 リックの言葉を遮るように、デイビッドが声を上げた。
 「彼女の事は、僕が自分でなんとかします。だから僕を退院させて下さい」
 「それは有難いけど……まだ体温も血圧も安定しないし、君の健康状態が心配だ。もう少し様子を見よう。容態が悪化したら大変だ」
 「ですが……」
 デイビッドは反論しかけたものの、絶妙なタイミングでベスが夕食のトレイを運んできた。リックは話をはぐらかしつつ退室し、今夜最初の診察を終えた。
 犠牲者が主を庇うのは当然の行為だ。そしてデイビッドが退院を望むのは、主との再会を望むからに他ならない。それが次のキスを求めるためか、或いは彼の変身願望がそうさせるのか定かではないが、彼を解放すれば両者の思う壺である。
 リックはオフィスで仕事をしながら、デスクのモニターで定期的にデイビッドの様子を確認した。彼は二度バスルームを使用した以外はリクライニングさせたベッドに腰掛け、ベスが一般病棟から調達してきた新聞や雑誌に目を落としているらしかった。

 深夜過ぎにリックが病室を訪れると、デイビッドはベッドに横たわっていた。リックが近づいても起き上がろうとはせず、暗い表情のまま彼を迎えた。
 バイタルをチェックすると、意外にも体温、血圧共に標準値に近かった。寒気もさして感じないという。
 「なんだか元気がないように見えるけど、具合が悪いのかい?」
 リックが何を訊ねても彼は首を振り、生気のない返事が返ってくるばかりだった。
 「僕の事は放っておいて下さい……嫌な事ばかり思い出して、もう生きていく自信がなくなった」
 ひどく弱気になっているらしい。
 「そんなこと言うなよ。仕事だってあるんだろう。すぐに退院して復帰できるさ」
 リックの励ましも他所に、デイビッドは呟くように答えた。
 「なんだかその前に……眠ったまま、二度と目覚めなくなるような気がする……」
 「眠るのが怖いのかい」
 「いえ……いや、そうかもしれません……」
 「軽食を用意しているんだけど、どうかな」
 デイビッドはまた首を振った。その動作さえ億劫なようで、部屋を暗くして欲しいとだけ告げると、目を閉じてそれ以上の会話を受け付けなかった。
 退室してオフィスに戻ったリックは、デイビッドの態度や情緒の変化について思案を巡らせた。
 犠牲者の昼夜を挟んだ変貌は有り触れた現象だ。けれど彼の場合、それは夜間に起こるらしい。主の影響よりも、彼自身の不安定な精神状態がもたらしたものと考えるべきだろうか。
 リックは帰宅前のロンにも意見を伺った。彼の経験からすると、犠牲者の夜の行動や態度が一貫しないのは、周囲の者を欺く演技である可能性が高いという。脆弱さや体調不良を装った犠牲者にハンターが気を許した瞬間、彼らの授かった超人的な能力によって形勢は容易に逆転する。年端もゆかぬ少女の繊手が屈強な男性の頚椎を捻り潰したり、病弱な青年がその眼差しだけで他者を意のままに操ったりするのも、吸血鬼に見込まれた者にとっては造作ない行為なのだろう。
 また、吸血鬼からの明確な指示や暗示がない場合、犠牲者は主を待ち焦がれるあまり、待機よりも独断行動を選択する傾向にあるとロンは見ている。彼らが主のためにと取った行動が仇となり、結果的にハンターが標的を追い詰める絶好の機会をもたらす事もある。いずれにしろ犠牲者の言動が定まらない限り、そこには主の干渉があるものと見なして要観察、要注意、というのがロンの助言だった。
 モニターの中のデイビッドは、居心地が悪そうに何度も寝返りを打っていた。

 夜明け前の診察の時間となり、リックがデイビッドの病室を訪れると、彼は暗い部屋の中でブランケットを投げ出し、ベッドの端に腰掛けて脚を組んでいた。病院着でなければ、豪邸のカウチで寛ぐハリウッドスターばりの風体だった。
 「やあデイビッド、調子はどうだい?」
 問うまでもなく、見るからに好調なその姿を目に留めるなり、リックは空調のコントローラーを確認する振りをしながら、なるべく距離を保ちつつ訊ねた。
 「悪くありませんよ……直に夜明けが訪れるのが惜しいところです」
 薄闇の奥から語りかける不敵な声からも、優位に立とうとしている姿勢が伺える。優越感を抱く犠牲者は、とにかく刺激しないことだ。見え透いた嘘も下手な警戒心も、付け入る隙を与えるだけだ。
 医療従事者と患者が対等な立場である事を念頭に置いて、リックは自然体を意識しながらデイビッドに近づいた。
 「さっき夜食を食べなかっただろう。腹が減っているんじゃないかと思って。今ならまだ用意できるけど……」
 「いえ、結構です――と言いたいところですが、食事の件でお願いがありまして」
 「お願い?」
 「病院ですから、血液のパックなどストックされているでしょう」
 リックはぎょっとして足を止めた。彼は今、吸血鬼に成り切っている。
 「あれが……飲みたいのか?」
 「いけませんか?」
 「ああ、いや……あれは製剤扱いだから、ドクターの処方箋がないと出せないんだ。ほら、僕はアシスタントだから……」
 「そうですか、残念です」
 そう答えはしたものの、デイビッドに落胆した様子はない。
 リックは手早く彼のバイタルを測定した。幸い、その心臓は鼓動しており、体温は人間の生存許容範囲内であった。
 「――どうしました、口数が少ないようですが?」
 血圧測定のカフを片付けるリックに、デイビッドが声をかけた。
 「いや、終業時間が近いと、ちょっと疲れが出るんだ……」
 これは嘘ではなかった。殊に神経を使う患者を担当する晩は。
 リックの徹夜の勤務を労うように、デイビッドは微笑みかけた。
 「心配はいりませんよ、あなたを襲うつもりはありませんから。ところで、退院の目処は立ったのでしょうか?」
 「ああ――担当医によれば、体温と血圧が安定しないのが気がかりだから、もうしばらく経過を観察したいそうだ。不定期に寒気も感じるようだし、君が心配なんだろう」
 予想に反して、デイビッドは素直にリックの言葉を聞き入れた。日没後の彼のように食い下がらないのは、直に夜明けを迎えるからだろう。ドクター・ロバーツの話が本当なら、たとえ今、デイビッドをこの病棟から放り出しても、日が昇れば彼の行動は儘ならないはずだ。
 病室を去る前に、食事や必要な物がないかと再度リックが訊ねると、彼は飲料水のお代わりだけを所望し、後は間に合っていると告げた。水は室温がそれ以上の温度で、と付け加えたが、人肌と言わなかったのは、彼なりに気を遣ったのかもしれない。

 回診を済ませてオフィスに戻ると、帰宅したロンの席にロードが掛けていた。
 「早く帰れよ、朝が来ちまうぜ」
 簡易キッチンへと赴きながら、リックが声をかけた。もっとも、彼がどこに寝所を構えているのか、リックには見当もつかなかった。
 近隣の墓地の霊廟を間借りしているのかもしれないが、彼のことだから、郊外の山の中に城くらい構えていても不思議はない。ロンはその棺の在り処を把握しているといい、しかし、リックには未だ打ち明けていなかった。
 ハンターに寝所を知られることは、その鼓動なき心臓を杭に明け渡したも同然で、吸血鬼にとっては日光の如く致命的である。そこまで追い詰めておきながら、ロンがロードを野放しにしているのは不可解であるし、ロードもまた危険を冒してハンターの本拠地に居座る必要はない。そこにはリックの知らない事情があるはずだが、ロードの件についてロンは黙秘を貫いている。コピーライト、はーとでるそるどっとこむ。リックが疑問を抱くのも当然である。
 ロードに関してリックの知る事実は二つ。彼こそロンがハンターとなる切欠となった吸血鬼である事。そして、彼はベスの命の恩人である事。彼女が鍵であることは間違いない。ベスなくして特殊咬傷科は設立し得なかったのだから。
 問題はベスと二人の間に何があったのか――或いは起こっているのだろうか、ロンが唯一の例外を認めなければならないような事態が、この瞬間にも。
 どんな憶測も形のない疑念をもたらすだけで、そこに確証はない。にも拘らず、リックはロンに対して不信感を覚えることがあった。それが彼の助手としてでも、ハンターとしてでもなく、自分本位の感情であることに戸惑いを感じながら。
 今夜最後の一杯をブラックで淹れて、リックはデスクのモニターでデイビッドを見守った。バスルームを行き来して寝支度をしているようだ。
 ほどなくして今夜のシフトを終えたベスがオフィスに立ち寄った。
 「――変った患者が来たものね」
 無論デイビッドの事である。彼女も何度か病室を訪ねている。書類上は彼女が主治医なのだ。
 リックは溜息をついてこぼした。
 「ああ、まるで多重人格だ。ロンの言うとおり芝居かもしれないし、どれが本物のデイビッドなんだか。さっきは輸血パックを強請られた。今度は新鮮な方を頼まれるかもしれない」
 「提供してやれ。その男も満足するだろう」
 ロードが口を挟んだ。
 「冗談じゃないぜ」
 吐き捨てるリックに、ベスが意見を述べた。
 「案外、いい薬になるかもしれないわ、彼が本当に血液嗜好でないのなら……手首を切って自分の血を飲んだのですって?」
 「デイビッドにその自覚はないそうだけど、それでドクター・ロバーツは手を焼いていたんだ。偏食にも程があるよ」
 リックは肩を竦めた。
 「試してみないと、好きか嫌いかなんて判らないものよ。でも、その味を知った上で、血を求めているのかしら……?」
 「生命(いのち)そのものを味わうのだ。病み付きにもなる」
 デスクで寛ぐロードが答えた。まるで美食家の評論だ。
 「しかし、その男の舌がそこまで肥えているとも思い難いな。嗜好とは欲求を満たす条件に過ぎぬ――不満を解消したところで、生命が満たされることはあるまい」

 早朝の終業間際に、リックは眠りに就いたデイビッドを見舞った。
 彼はブランケットに埋もれて、うわ言で寒いと呟いた。既に日の出の時刻は迎えている。やはり日中は主の影響が薄れるのだろう。
 そうすると、夜間の性格や気分の変動は吸血鬼の干渉によるもので、こうしてベッドで蒼くなって震える彼が、本当のデイビッドなのだろうか?

 連日の雨と冷え込みで、秋は街の隅々にまで深く染み渡っていった。
 今日も午後から降り出した冷たい雨が、深夜にかけて雨脚を強めながら降り続く予報だ。リックは手にしたヘルメットと防水ジャケットから水滴を滴らせながら、雨音一つ届かぬ地下のオフィスに出勤した。
 悪天候は厄介なものだが、雨中の吸血鬼案件は稀である。この事から、降雨は流水と同様の効果があるとされ、地上の空模様はオフィスでも常時観測している。
 昼間のシフトを担当したロンは、デイビッドは日がな一日眠っていたと報告した。今夜の日没は六時過ぎ――そろそろ彼の一日が始まる時刻だ。
 昨夜のように退院を求めて詰め寄られることを懸念したリックは、デイビッドが目を覚ますタイミングを見計らって二号室に向かった。眠気が完全に覚める前にバイタルを測定し、夕食、つまり彼にとっての朝食が間もなく来ると告げて素早く診察を切り上げた。
 デイビッドは睡眠中に幾度も寒気に襲われてよく眠れなかったと話したが、今は寒さは和らいで、体調も良好ということだった。体温と血圧も標準値に近づき、食欲もあると告げた彼が心身共に安定した状態にあると知り、リックは安堵してオフィスに戻った。
 帰宅するロンを見送り、二号室の様子をモニターしつつ、月末のデスクワークに取り掛かる。デイビッドはベスの運んできた食事を摂った後、消灯して再びベッドに横になっていた。寝不足を補うつもりなのだろう。やがて眠ったと見え、彼は時折寝返りを打つ以外には動かなくなった。
 そのまま何事もなく数時間が経過した。作業に没頭していたリックがふとモニターを確認すると、そこにデイビッドの姿はなく、バスルームのドアが開いて明かりが漏れていた。ベッドはもぬけの空だ――枕もブランケットも?
 嫌な予感がして、リックは二号室に急行した。バスルームを覗くと、デイビッドは捻ったブランケットをシャワーヘッドに引っかけて首を括ろうとしていた。
 「デイビッド!」
 叫ぶと同時に室内に駆け込み、自重でぶら下がろうとする背中を抱え込んで押さえながら、無線端末(ページャー)でベスをコールした。
 「死なせてくれ――!」
 興奮する男は、リックを降り解こうと即席の縄を手にしたままもがいた。犠牲者となった状態のまま死を迎えれば、晴れて彼は吸血鬼となる。なんとしても阻止しなければ。
 暫く揉み合ってからブランケットをデイビッドから引き離すと、彼は床に崩れ落ちて頭を抱えた。
 「生きていても意味がないんだ――ここは病院でしょう、毒になる薬があるはずだ。出してくれよぉ――!」
 絶望の声を絞り出すデイビッドの隣に屈み込み、リックは咽び泣く憐れな男を宥めた。
 「いいかデイビッド、君は今、病気なんだ。でも必ず良くなるから、そう弱気になるな」
 リック自身も息を切らしながら、デイビッドに寄り添って彼の状態が落ち着くのを待った。
 吸血鬼に襲われた人間が自殺願望を抱くことは、通常では考え難い。新鮮な生血を求める吸血鬼とその吸血行為がもたらす快楽を求める人間、その関係は呪われた牙を介した相互作用によって維持される。主の再来を待ち望みながらも、その目的である血液の提供ができなければ、見放されるのは当然だ。犠牲者の鼓動の切れ目が主との縁の切れ目となる。
 犠牲者が確固たる意志と自制心をもって主の誘惑を断ち、吸血鬼への変貌を阻止すべく自ら命を断つという選択肢に思い至ることはあるかもしれない。しかし、死そのものが犠牲者の吸血鬼化を誘発するとなれば、それは避けるべき行動であると知れる。同様に善意に託けて犠牲者を手にかけるなどもっての外だ。それは犠牲者の魂を悪鬼に売り渡す行為に他ならない。
 特殊な例として、吸血鬼が歯牙にかけた獲物を自死するよう仕向ける可能性はある。死を迎えた犠牲者が必ずしも吸血鬼化するとは限らないが、夜を謳歌する自由の身分を授ける一方、主の影響や拘束力は失われる。
 この場合、主の犠牲者への思い入れの度合いが重要となるのだが、二日前にデイビッドを襲った吸血鬼が、ただ一度の接触で彼にそこまでの執着を抱いたとは考え難い。そうすると、やはりデイビッドの行動は吸血鬼の影響ではなく、彼自身の精神状態がもたらしたものと捉えるべきか。
 デイビッドの発作が収まり、呼吸が緩やかになると、リックは彼を励ましつつ病室へと連れ戻した。
 医療処置用のカートを押して現れたベスが明かりをつけて簡単な診察を行ない、鎮静剤の投与は不要と判断した。
 「死にたかった……どうして助けた……」
 腰掛けたベッドに項垂れ、力なく問うデイビッドに、リックは訊ね返した。
 「死んで――どうするんだ?」
 「それで……それで終りにできる。もう何も考えなくていい……」
 デイビッドは顔を上げた。
 「外に出してくれませんか。もうあんな事はしない。ほんの数分でいいんです、外の空気を吸いたい――そうすれば、頭がすっきりすると思います」
 「デイビッド、悪いけど――」
 リックが告げると、デイビッドは首を振って答えた。
 「いいんです、訊いてみただけで……無理を言いました」
 そして肩を落とすと、彼はベッドにもたれかかった。
 意気消沈した姿を見て、もう危険はないと判断したリックが胸を撫で下ろした瞬間、デイビッドはばねのようにベッドから飛び出し、傍らのカートから鋏を取り上げると同時にベスを引き寄せた。
 「動くな! 僕をここから解放して下さい。でないと、分かりますね――」
 口早に告げて、デイビッドは逆手に持った鋏をベスの喉元に突きつけた。
 ベスは驚くほど冷静だった。人質にされても取り乱すことなく、空の両手をゆっくりと胸の前に掲げた。ベッドの反対側にいたリックの方がよほど慌てふためき、咄嗟に声も出せなかった。
 「お、おい――彼女を放せ――」
 人質を見つめるデイビッドの目には狂気が浮かんでいた。
 「血が欲しい、温かいのが――我慢できないんだ、こう寒いと……」
 独り言のように呟きながら、デイビッドはベスの肩に腕を回して鋏に指をかけ、彼女がスクラブの下に着用している白いハイネックのインナーの襟を切り開け始めた。
 「一度、見てみたかった、この首筋……初めて見た時から、ずっと感じてたんだ、咬んでみたいと……咬んで熱いのを……」
 鋏の刃が襟元の縫目に差しかかった時、不意にその手が止まった。思わず取り落とした鋏を、ベスはすかさず蹴飛ばした。デイビッドは彼女の喉のある一点を凝視していた。リックの眼も吸い寄せられた。
 正確には二点――二人の目が釘付けになっているのは、彼女の喉に刻まれた一対の咬傷だった。
 そんな気はしていた。けれど訊ねることはためらわれた。何の疑いもない――彼女は犠牲者なのだ。
 「あなたは……」
 意表を突かれて怯んだデイビッドは、威勢を失った声を上げた。まさか先客がいたとは。
 「いいのよ、咬んでも……」
 天使のように微笑んで優しく告げると、ベスは硬直する男を振り返って、その背中に両腕を回した。
 「こんなに凍えて――でも、まだ温かいわ、あなたの血は。だから、彼らが来る……温めてあげればいいわ、それが私たちにできる、唯一のこと……」
 慰めるように語りかけながら、ベスは男を抱き締めつつ移動し、ベッドへと誘導した。
 「キスなんて、本当はしたくないんでしょう。あなたはキスをされたいのだわ……ねえ、待ちましょう、全て良くなるから……」
 デイビッドはベッドに腰を下ろし、ベスに促されるまま横になった。
 「心配しなくていいのよ、全て任せていれば。さあ、目を瞑って……」
 まるで催眠術にでもかかったように、デイビッドは瞼を落として眠りに落ちた。薬剤の投与はしなかったはずだ。
 患者の呼吸と脈拍を確認してから、ベスはこちらも立ち尽くしたまま動けないリックを振り向いた。
 「大丈夫、リック?」
 「あ、ああ……」
 彼女の裂けた襟元から目を逸らしながら、リックは額に手を当てた。
 「驚いた――自殺未遂と傷害未遂……メディカル・スクールで対処法を教わったか?」
 「ドクター・ロバーツに、お勧めの講習がないか訊いてみるのもいいかもしれないわ」
 「君が無事でよかった」
 「私もカートの置き場所を考えるべきだったわね。次からは気をつけるわ」
 ベスは床から鋏を拾い上げた。
 リックはカートを押して病室を出て行く背中に、ロードか、と訊きかけてやめた。
 だったらどうなんだ――ロンが知らないはずがない。知った上で、見過ごしてるのか? なぜだ? 疑問は尽きなかった。
 疑問と――一握りの憤り。

 それから数時間、リックは病室のモニターから目を離さないようにしていた。回診の数も増やしてデイビッドを見守っていたが、彼は目覚めることなく、覚束ない意識で夢うつつを彷徨っていた。
 嗜眠性の意識障害は犠牲者によく見られる症状の一つである。待ち焦がれる主が目の前にいない現実よりは、夢に浸ることを選ぶのだ。それがどんな夢であるかは、その表情を見ればおおよその見当がつく。
 午前二時頃にベスが一般病棟の見回りから戻り、オフィスで休憩をとった。
 冷蔵庫から出したランチ――手作りのチキン入りパスタのようだ――を電子レンジにかけて、傍らで温まるのを待っていた。
 インナーは既に着替えていたが、首元に注がれるリックの視線に気づいたのだろう。彼女から話しかけてきた。
 「――隠すつもりはなかったの。ただ、話すチャンスがなくて。後ろめたさも、少しはあったかもしれない。でも、気づいていたんでしょう」
 「ああ……」
 リックはデスク越しに返事をした。
 「安心して。私が私でなくなったら、後はお願いって、ロンには話してある。条件は他にもあるのだけど」
 「君を患者だとは思わないよ」
 「ロンはそうは考えていないわ」
 冷蔵庫にもたれかかって、ベスは軽く腕を組んだ。
 「デイビッドの事だけど――思うに彼は、吸血鬼になりたいのではなくて、人間でいることをやめたいのでしょうね。デイビッドという人間を世界から消し去りたい――でも生と死、その中間は存在しないの。たとえ犠牲者になっても、人間であることに変わりはないのだから」
 モニターの中で寝返りを打つ男をリックは見た。直に目覚めるだろう。
 「彼、一度もナースコールを使っていないでしょう。求めたり、求められたりすることは、彼にとっては他人の血を望むほど、特別なことなのかもしれないわ。与えなければ与えられない、奪わなければ得られない――そんな概念を正当化するために吸血鬼として過ごして来たのなら、戸惑うのも無理はないわね。吸血鬼に求められるには、人間でいることを余儀なくされる。それはデイビッドという吸血鬼の存在を否定することになる……」
 ベスは出来上がったボウルとフォークを手に、カウチに落ち着いた。
 「彼は善人なのよ、どうしようもなく――自分さえ殺せないほどに。でも、出会ってしまった――救世主に」
 その救世主は、死の淵の向こう側からデイビッドに手を差し伸べているのだ。このテキストは、はーと、でる、そる、どっとこむ、からコピーされたものです。
 リックは死を望んだことはない。しかし、覚えがない訳でもなかった。ただ、消えたかった――透明になって、自分という存在が、ふと消滅してしまえばいいと思った。希望も幸福も見失い、思考の渦だけが取り巻いて、生きること、そこに居ること、それ自体が苦痛だった。
 絶望の中、自分に何の価値もないと思い知る時、死は甘く囁きかけるのだ――残酷な現実からの解放を仄めかしながら。そんな窮地に置かれ、救いを求めて差し出した手を握り返した者が、もしも死を超越した存在だったとしたら――?
 脆く儚い命を庇い、肯定し、意義を授けてくれる存在。音もなく落ちる月光のように、彼らが人生の闇夜に現れる時、人は崩れ落ちるようにその影に寄り縋り、甘美な魔性を受容する――その代償が正気と熱い血潮であると知りながらも。

 明け方頃、リックはデイビッドの回診に訪れた。彼は明かりを点けた病室で、リクライニングさせたベッドに持たれかかって昨日の新聞を読んでいた。
 「先ほどは取り乱して申し訳ありませんでした」
 小ざっぱりした顔でデイビッドは謝罪した。
 「よく眠ったようだけど、気分は良くなったかい?」
 「はい。死んだからといって、解決するものではありませんからね。命は大切にしなければ」
 デイビッドを刺激しないよう慎重に診察を済ませてから、リックが訊ねた。
 「食事を用意しているんだ。運んでこようか?」
 「いただきますよ」
 平然と答えて、デイビッドは再び新聞に目を落とした。
 リックは一度オフィスに戻ると、ボウルに移した缶詰のスープを電子レンジで温め、冷蔵庫から取り出した分厚いサブサンドイッチとチョコレートチップのクッキーをトレイに乗せた。どれも病院食として用意されたものではないが、カフェテリアは終夜閉業しているし、この棟で食事制限が行なわれることは滅多にない。強いて挙げるならば、造血に必要な栄養素を積極的に摂取させること、そして突発性の大蒜アレルギーに注意を払うことだ。
 元より夜型のデイビッドはさて置き、昼夜の生活リズムが逆転する犠牲者は多く、特殊咬傷科では病院食の配膳時間外にも食事の用意が必要となる。その場合、保存が利き、オフィスの簡易キッチンでも調理可能な缶詰や冷凍食品をサイドに、近隣のマーケットや飲食店で購入した出来合いの料理がメインとなる。食料品の調達はリックやベスが担っているため、患者の要望に応じることも可能ではあるが、入院費同様、食費は基本的に自己負担となるから、敢えて贅沢をしたがる者はそういない。
 温かいコーヒーに砂糖とクリーマーの小袋も添えて、リックは二号室に戻った。サイドテーブルにトレイをセットすると、デイビッドは礼を告げて遅い夜食だか早めの朝食に取りかかった。
 「よかったよ、食べてくれて。あまり食べないから、心配してたんだ」
 去り際にリックが告げると、デイビッドはかぶり付きかけたサンドイッチから顔を上げた。
 「輸血パックはいただけないということでしたので――また驚かせてしまいましたか?」
 戸口で立ち止まったリックが振り返った。
 「まだあれが欲しいのか?」
 「いえ、こちらをいただいておきます……今は」
 不穏な余韻を残して、デイビッドは食事を再開した。
 リックは病室を出ると、草臥れた溜息をついた。
 今度のデイビッドはやけに従順で、数時間前に自殺を試みた男とはとても思えなかった。主の影響と見ていいのか、それともこれが彼の元来の性格なのだろうか――頭がこんがらがりそうだ。

 厚い雲に覆われた空のどこかに朝日が昇る頃、俄に寒気に襲われたデイビッドは、頭までブランケットを被り震えながら眠りについた。睡眠に継ぐ睡眠も、犠牲者の症状としては珍しくない。場合によっては数週間でも数ヶ月でも眠り続けるのだ。
 デイビッドを見舞ってから勤務を終えたリックは、帰宅前にシティ・ホスピタルの精神科に立ち寄った。開院に二時間先立って出勤していたドクター・ロバーツは、彼のオフィスを訪ねたリックを快く迎え入れた。
 小部屋にはよく整頓されたデスクと本棚が配置され、傍らに設けられたスペースには肘掛け椅子が二脚――全ての精神科医が寝椅子を使う訳ではないらしい。
 ロバーツは大きなマグカップで朝の紅茶を嗜みながら、デスクを挟んだ来客用の椅子をリックに勧めた。ドクターの背後の窓には、薄明るい雨上がりの街の景色が広がっている。
 面会はまだできないと断ってから、リックは入院中のデイビッドの様子や昨夜の出来事を伝え、その対応に困っていると正直に打ち明けた。ベスの咬傷については伏せて、デイビッドは彼女の説得に応じて思い留まったとだけ伝えた。徹夜の疲れが神経を鈍らせているのか、今朝はさほど緊張せずに話すことができた。
 デイビッドの性格の顕著な入れ替わりや、自殺未遂と傷害未遂の報告を受けたロバーツは、まずリックの尽力を労ってから、それらは今までには見られなかった行動であると指摘した。つまりデイビッドが吸血鬼の影響を受けているのは明らかであるという。
 先入観を与えないよう敢えて話さなかったと前置きしてから、ロバーツはデイビッドの過去と背景を掻い摘んで明かした。立場上は看護助手でしかないリックであるが、同じ患者を担当する医療従事者として、ドクターの信用を得られたのかもしれない。
 「よくある話だ――両親の大き過ぎる期待に応えられなかった息子と、後に生まれた優秀な弟。二人はよく比較され、劣っている方は虐待紛いの扱いを受けた。人格を否定された彼は、劣等感に苛まれながら、自己を押し殺して過ごしてきた。両親や弟の眠る夜間は、デイビッドにとっては自分を解放できる唯一の自由な時間だったろう。昼を避ける吸血鬼というのは、確かにお誂え向きの設定だ。
 デイビッドには強い飢餓感があり、それを満たそうとしている。彼はそれを血や命であると思っているが、実際は違う。難しく考える必要はない――それは愛情であり、幼少期から無条件に与えられるべきものだった。愛情に触れる機会がなかった為に、大人になった今でも彼はそれが何かを知らないし、信じられない、そして受け入れられない。私たちがどんなに働きかけても、彼はそれを否定してしまう――それは人間に関することだから、と」
 ロバーツは淡々と語りながら、指で左手の結婚指輪を回した。彼が会話に集中する時の癖なのだ。
 「飢え、という言葉を使うのは好きではないが――必要があって欲するのだからな――彼は文字通り飢えている。ここからは私の憶測になるが、彼が手首を切ったのは、やはり血が目的であったのだと思う。彼は血、というものが、彼の飢えを満たせるかどうか、確かめたかったのではないだろうか。そして彼は失敗した――当然だ、それは愛情とはかけ離れたものだから。ところがとんだ偶然から、彼は本物の吸血鬼に成れるであろうチャンスを得た。
 これも想像に過ぎないが、昨夜の自殺未遂については、やはり本物の吸血鬼になれば、血の良さが分かると彼は考えたのかもしれない。その試みが失敗し、彼は刃物を得たが、それは自分を傷つける為ではなく、他人の血を求める為だった。これは試みを挫かれた彼が、吸血鬼に成り切ってしまうことで、その失敗を取り繕うとしたとも考えられる。それとも吸血鬼にとっては、血そのものが愛情として成立するのかもしれない。――どちらにしろ、その取り違いに気づいて、吸血鬼という身分から抜け出せない限り、彼は同じ行動を何度でも繰り返すだろう」
 「彼は誤解している、と……」
 「そう、デイビッドは長い間、そうして自分自身を守ってきた――君の言ったように、自ら織り上げた吸血鬼というコートを纏って、自己や現実を直視することを避けてきたんだ。しかし今度のことで、彼は吸血鬼という存在が、自分の認識とは異なったものであると知り、戸惑っているに違いない。ここ数日の突飛な行動や情緒の変化は、彼がそんな危機的な立場に置かれながらも、どんな自分でいれば其々の状況に対応できるかを模索している――そんな風に、前向きに捉えてみるのはどうだろうか」
 「つまり――外部からの影響で彼が変わる、変わらされる、のではなく、それらに適応しようとして、彼から変わろうとしている、ということですか?」
 リックの言葉に、ロバーツは頷いた。
 「意識的に行なっているかは分からないがね。コートを脱ぐチャンスかもしれない――恐らくそれは、抑圧していた自己を解放する、彼の初めての試みだ。その手探りの試行錯誤の中で彼が何かを得て、次のステップに進む途中であると信じて、今は陰から支えながら見守るしかない。
 均衡が取れるまでは、不安定な状態が続くだろうが、立ち代り現れる個々の人格を肯定したり否定したりするのではなくて、それらを全体の中の一部として認めていくことが大切だ。それら全てが、デイビッドという人間を構成する要素なのだから。――もちろん、君の仕事が順調に進むことが前提ではあるが」
 本物のデイビッドが違った役柄を演じているのではなく、それら全てが彼自身である――それは新たな視点だった。感心のあまり、リックは相槌を打つのも忘れてロバーツの言葉に聞き入っていた。
 「彼の取り違えているもの、その誤解さえ解ければ、後は自然に受け入れて、自分のあり方を確立していけるはずだ。経験から学び、成長する強さは、どんな人間にも備わっている。それを思い出す切欠を、こちらから彼に仕向けることはできない。でもその機会は必ず訪れるはずだ」
 若い博士は微笑んで話を結んだ。
 「君は彼のことをよく見ていると思うよ。手を差し伸べたいと焦る気持ちもあるだろうが、たとえ何もできなくても、傍らで見守り、励ます人があれば、彼も必ず応えてくれるだろう」
 リックはロバーツに礼を告げてオフィスを後にした。流石は専門家だけあって、彼のアドバイスは的確だった。著アオイウシオ。先日のセッションにリックが同席する必要などなかったのではないだろうか。
 ただ一つだけ、同意しかねる件があった。吸血鬼にとって、血は愛情であるのか――リックの直感は否と告げていた。
 血が愛に取って代わることはできない。逆もまた然りだ。吸血鬼と犠牲者、満たし合えるようでいて、双方の求めるものが一致することは決してない。
 見せかけの調和、その擦れ違いが生み出す悲劇を見抜いた者だけが、ハンターと成り得るのだ。

 昼前になっても上空には雲が立ち込め、時折、風に乗って冷たい小雨が街を掠めた。それでも午後には晴れ間が広がり、自宅で休息をとったリックは、秋の夕焼けが流れ去る鱗雲を染める頃に出勤した。
 ロンの話によれば、デイビッドは日中ひたすら眠り続けていたという。彼の生活パターンを考慮すればそれが通常なのだろうが、寝返りを繰り返し、眠りは浅かったようである。
 「今夜、来るかもしれん――」
 天気予報を確認したロンがリックに告げた。降水確率二十パーセントの夜空に満月が昇る――吸血鬼には絶好の外出日和という訳だ。
 二人は予め話し合っておいた計画を実行に移した。それは犠牲者を窓のある地上の病室に囮として収容し、訪れた吸血鬼を病棟内部に誘導して封じ込む作戦だった。
 リックは日の入り前にデイビッドの病室に向かい、簡単な診察の後に病室の清掃日という口実で彼を十七号室に案内した。今夜の彼は弱気ながらも従順で、リックに促されるとブランケットを被ったまま移動した。低血圧や低体温は相変わらずながら、彼自身は気分はそれほど悪くないと話した。
 今夜最初の食事を摂らせてから、主の襲来に関しては何も伝えないまま、リックは病室を後にした。モニター越しに監視するデイビッドは、窓辺に置いた椅子に掛けて、数日振りの地上の世界を、濡れた夜景を眺めて過ごしていた。
 午後九時を回る頃、病棟の中庭を横切って、白いセーターを着たティーンエイジャーの少女が現れた。デイビッドの話した通り、カールのあるストロベリー・ブロンドに大判の青いマフラーをしている。ここに現れたということは、デイビッドに少なからず興味を抱いているのだろう。他に判明しているのは、彼女がロアナと名乗ったことだけだ。
 少女は授業中のキャンパスで友人を探すように、棟の窓を端から順に覗いて回った。十七号室の前に来ると、デイビッドが椅子から立ち上がり、二人は厚い強化ガラスを挟んで対面した。物理的に音は遮断されているはずだが、二人は二人にしか聞こえない言葉を交わした。
 ロアナが窓から離れると、デイビッドは椅子に掛け、そのままゆっくりと崩れ落ちた。病室のエアダクトに催眠ガスが注入されたのだ。急速な換気の後、待機していたリックが彼を車椅子に乗せて運び、地下の病室のベッドに戻した。その間、少女は病院棟の表に回り、侵入口を探していた。デイビッドがその道筋を指図したのだろう。身内や親友が中にいると話せば、エントランスの警備員は何の疑問も抱かず彼女を院内へと導くに違いない。
 やがてロアナは、特殊咬傷科の地下の通路を、ファーのついた短いブーツの足で歩いて来た。そのまま上階の病室に誘導できれば、彼女を閉じ込めて身動きを封じることができる。しかし予期せぬ事態が発生した。
 眠っているはずのデイビッドが意識のないままベッドから立ち上がり、通りがかるロアナにその居場所を知らせるように、病室のドアを内側から叩き始めたのである。少女は立ち止まり、困ったように微笑んでドアノブに手をかけた。
 ロアナの侵入をオフィスで監視していたロンとリックは、作戦変更を余儀なくされた。危険ではあるが、デイビッド共々彼女を閉じ込めるしかない。予測不可能な犠牲者の行動によって裏をかかれることは、ある意味では想定内であり、その都度ハンターは臨機応変に対応しなければならない。
 かくて主たる少女を迎えたデイビッドは、ベッドに腰掛けて意識を取り戻し始めた。吸血鬼の魔力の前には、薬剤の効力など微々たるものなのだろう。
 「よく……来てくれた……」
 待ち草臥れたような虚ろな眼差しが、降ろした髪を揺らしながら歩み寄る少女に焦点を結んだ。
 「待っててくれたの? 嬉しい――」
 マフラーを解くと、無邪気な微笑みの中に牙が光った。
 「僕を連れて行ってくれ……」
 「さあ、どうしようかな……」
 両腕を広げて、ロアナはデイビッドに抱きついた。
 首元に顔を押し付けた瞬間、監視カメラの向こうでロンがキーを操作した。病室の照明がUVライトに切り替わり、室内に大蒜の粉末が散布される。
 ロアナが反応する前に、まずデイビッドが彼女を押し退けた。傍目には拒絶の理由は不明であったが、主の術中にある犠牲者が、咬み付かれた痛みで我に返ることはある。口づけの快楽は続く吸飲によるところが大きいのと、抵抗する獲物を甚振る行為も吸血鬼の支配欲を満たす要素となり得るため、通常は吸血の強行を選ぶ。
 しかし室内の異変を察知した彼女は顔を上げた。取り乱す様子は微塵もない。ロアナは厚手のセーターとマフラーに覆われていた。紫外線が偽物と知れれば慌てることはない。
 また大蒜には意外な弱点があった。気管や体内に吸入しなければ、その臭気が吸血鬼の肉体を苛むことはないのだ。そもそも生なき吸血鬼は息をする必要がなく、呼吸は惰性か発声のためと考えられる。異臭を感じた彼女は、速やかに息を止めた。それだけで喉や肺が焼き爛れることを防ぐ。
 周囲を見回し、天井の隅に設置された監視カメラに気づいたロアナは、卒業アルバムの写真みたいな笑顔を浮かべながら、仰け反るデイビッドに腕を絡めて身を寄せた。
 ロンとリックの見守るモニターのセンサーが、異常を警告するアラーム音を発した。病室内の温度がみるみる下がっていくのだ。
 「何が起こってるんだ?」
 リックが覗き込む画面の視界を、白い靄が覆い隠していく。
 「そいつが室内の温度を下げているんだ――くそっ」
 ロンが苛立たしげに罵った。吸血鬼と霧は縁深いものだが、稀に大気や風を操り、気象に干渉することのできる吸血鬼がいる。冷気を起こせるロアナはその一人だったのだ。
 ロンは遠隔操作で室温を最高値に設定して暖房設備をフル稼働させたが歯が立たず、温度計の数字は降下の一途を辿った。病室内は瞬く間に冷蔵庫と化し、氷点を切って尚、留まることなく下がり続けた。
 エアダクトから吹き出す風はブリザードとなり、氷の結晶が舞い、結露が氷結しながら壁や天井を覆っていく。デイビッドは突如訪れた極寒の中、ロアナの氷の両腕に拘束されたまま抵抗もできず、覆い被さる彼女に喉を明け渡すしかなかった。
 間もなく低温に晒された病室の電気系統が異常をきたし、停電すると同時に空調設備も停止した。カメラモニターが闇に閉ざされても、温度計だけが辛うじて病室内の様子を伝えていた。その室温センサーも息絶える瞬間、ディスプレイの表示はマイナス三十度を切っていた。
 「デイビッドが危険だ――」
 駆け出しかけたリックをロンが掴み止めた。
 「待て、鉢合わせたら事だ」
 水分を蓄えた人間を、彼女なら指一本触れず氷像に作り変えてしまうかもしれない。
 それから一分もしない内に、ロアナが病室から現れる様子が廊下のカメラに映った。ドアノブの水流も無効としてのけたのだろう。彼女はそこへ訪れた時と同じように、軽やかな足取りで通路を歩み去っていった。
 ロアナが病棟から退出したのを確認するなり、ロンとリックは懐中電灯と毛布を携えて二号室へ急行した。半ば凍りついた重いドアを開けると、中から冷気が吹き出してきた。暗闇に閉ざされたそこは、まさに冷凍庫のようだった。
 ベッドの上に仰け反ったデイビッドは、自分を抱いて震えていた。喉には新しい傷が上書きされている。二人はデイビッドを車椅子に乗せて地上階の病室へと運んだ。ベスが手当ての用意をしていた。
 氷点下の小部屋で温かい生命(いのち)を貪っていったロアナは、獲物を殺さないよう温度をコントロールしていたのだろう。それが唐突に失われ、急激な血液の喪失と体温の低下に見舞われたデイビッドは放心状態で、朦朧とした意識の中、寒いとか冷たいとうわ言で呟いていた。
 凍える体をベッドに移して毛布で包み、点滴を投与しながら手足を揉んで温め、氷結した髪と涙を拭った。体が温まるにつれて意識は明瞭になっていったが、デイビッドは青ざめたまま無言で震え続けた。
 「――デイビッド、大丈夫か?」
 リックが何度も呼びかけると、やがてデイビッドは答える前に啜り泣き始めた。熱い透明な涙がこぼれる――どんな人格を纏おうとも、やはり彼は人間なのだ。
 励ましの声をかけながら処置を続けると、彼は次第に落ち着きを取り戻していった。回復を見届けたロンが去ってから、ベスが温かいミルクでもどうかと提案した。オフィスに常備しているコーヒー用の牛乳をマグカップに注いで温め、リックがスプーンごと手渡すと、デイビッドは身を起こして湯気の立ち上るカップを受け取った。
 ホットミルクを半ば飲み干す頃、ようやく震えが収まり、デイビッドは話ができるようになった。
 「嬉しかったんです……危険を冒して、僕に会いに来てくれたと分って。目が会った時、何でもしてあげたいと思った。血も命も惜しくないと……」
 残ったミルクをかき混ぜながら、彼は呟くように語った。
 「でも、彼女が僕に触れたとき、間違ってたって気づいたんです。冷たくて……氷みたいだった。氷が僕を抱きしめて、凍らせて動けなくして、それで……」
 デイビッドの奥歯が再び鳴り始めた。それ以上は何も話せなかった。
 冷める前にミルクを飲み干し、空のカップを受け取ったベスが去ると、リックは点滴機材や車椅子を片付け、デイビッドの就寝の用意をした。病室には空調設備の穏やかな息遣いだけが響く、静かな夜が戻った。
 「待ってくれ……」
 後でまた来ると告げて去りかけるリックを、デイビッドは呼び止めた。
 「怖いんだ、あの悪魔がまた来て、今度こそ僕の魂を持っていってしまうような気がして……」
 リックは照明のスイッチに触れかけた指を戻した。振り返ると、デイビッドはブランケットを肌蹴て身を起こしていた。
 「あんなに冷たいのは御免だ。もう凍えたくない……温かい――人間でいたいんだ……」
 縋るような眼差しと共に投げかけられた言葉、それは魂の叫びだった。犠牲者が吸血鬼の干渉を退けるのに最も有効とされる力、それは犠牲者自身の強い意志に他ならない。
 リックはデイビッドが眠りに就くまで病室に留まっていた。
 オフィスに戻ると、ロンが不機嫌そうに報告した。
 「二号室は当面、使いものにならなんだろう。電気系統もやられた。バスルームの水道管まで破裂してる。修理が済むまで地下は断水だ」
 「庭に撒いておいたビーコンは?」
 ロンは首を振った。
 「駄目だ、一つも反応がない。電子機器は低温には歯が立たん。計画を立て直さないと――ここの設備では、‘あれ’は対処できん」
 「そうか……でもいいニュースがある。デイビッドが人間になりたいと話したんだ」
 「信じてやれるか?」
 問いかけるロンに、リックは力強く頷いた。

 デイビッドが地上階の病室で目を覚ましたのは、清らかな黎明が世界に満ちる頃だった。
 ベッドから下り立ち窓際のカーテンを寄せると、上空を覆う雲がその輪郭を現し始めていた。夢のように光る街灯やぼやけた窓明かりが消えてゆくのを病棟の隙間から眺め、微睡(まどろみ)から目覚めようとしている街の景色に見惚れる。
 信号機は瞬き、車道に連なるヘッドライトの帯も絶え間なく流れているのに、時が止まってしまったような静けさが、ガラス越しに押し寄せてくる。夜を圧倒する朝の洗礼に、しかし、彼は恐れを抱かない自分をどこかに感じていた。
 「夜明けは……久しぶりかい?」
 病室を訪れたリックを、デイビッドは無言で振り返った。いつにも増して冴えた表情――凪いだ水面のように。
 「屋上からなら、もっとよく見えるだろう。――行ってみるか?」
 リックの言葉に、デイビッドは驚いた顔を上げた。
 「いいんですか?」
 「君を信用するよ――ロンには黙っていてくれよ」
 ガウンを羽織るよう促してからデイビッドを連れ立って病室を出ると、リックは病院棟の屋上へと彼を案内した。夜勤明けの医師が隅で煙草をふかしている。早朝の冷気が全身の感覚を研ぎ澄ますようだった。
 金網のフェンス越しに見渡す空は、紫からオレンジの優しいグラデーションに彩られて、どこまでも広がっていた。デイビッドはただ黙って、朝の浸透する街や遠くの景色を眺めていた。
 「僕は朝が好きだ……昼や夜よりも」
 傍らで、ふとリックが呟いた。
 「夜明けの短い、ほんのひとときの間、夜と昼が溶けて、どちらでもある時間が」
 デイビッドは前方を見つめながら言った。
 「僕は――夕方(イブニング)が好きです。夜が来るのが嬉しくて……」
 「僕も以前は夕方が好きだった。でも変わったんだ、いつの間にか。朝の新鮮な風は、夜を隔てなければ吹かないと、教えてくれた人がいて……」
 リックはデイビッドを振り向いた。
 「良くも悪くも、変わるよ、僕たちは。タイミングは人それぞれ違うだろうけど……信じていれば、必ず良い方向にさ」
 東の空が赤い輝きを増す頃、デイビッドは目を瞬いた。
 「――明るいな」
 「日が出る前に戻ろう。早朝の日差しは弱いだろうけど」
 「そんなことはないですよ」
 振り向いたデイビッドの口角が上がっている気がして、思わずリックは訊ねた。
 「昨日の言葉、信じていいんだな?」
 「言葉……」
 「人間に――いや、吸血鬼をやめたい、かな」
 抱き寄せていたガウンの腕を振り解いて、デイビッドは真摯に訴えた。
 「あの冷たい指から逃れられるのなら何でもします――助けて下さい……」
 デイビッドが何かを認めたのか、受け入れたのか、或いは許したのか、それは分からない。けれど彼は変わろうとしている――その切実な思いが、ひしと伝わってきた。
 「僕も協力する。どうか負けないでくれ」
 二人は肩を並べて暖かい屋内へと戻った。

 朝焼けが空を彩ったのも束の間、天気は下り坂となり、市街は灰色の曇天と雨風に見舞われた。
 病室に戻ったデイビッドは、朝食を摂る間もなく昏睡するように眠りに落ち、夕方まで目覚めなかった。夜間の体調は良好で、精神状態も安定しており、彼は吸血鬼でも、自殺願望者でも、内気な犠牲者でもなく、素の――そう言って良いのなら――彼自身として過ごした。それでも寒気がするのは相変わらずで、電気毛布は手放せなかった。
 低温に侵食された地下の病室は病院の整備士の手に負えず、施設の管理人との交渉の結果、近く配電と水道の修理業者が入ることになった。故障した設備の撤去や修繕は経費の都合で科の負担となり、ロンとリックは交互に二号室に出向いては、懐中電灯の明かりで片付けを行なった。幸い、地上には雨が降り注ぎ、主の次なる襲来を阻んでいた。このテキストはウェブサイト、ハートデルソルからコピーされたものです。今夜は何も起こるまい。
 リックは帰宅前のロンと今後の対策について話し合ったものの、良案は浮かばなかった。デイビッドはロアナに気に入られたと見ていいだろう。厄介なことに、彼女は敢えてリスクを取り、スリルを愉しむタイプである。その能力をもって病棟の罠を無効にせしめた彼女が、更なる挑戦を求めて再度デイビッドのもとを訪れるであろうことは容易に想像がつく。
 どう対処すべきか――特殊咬傷科は、ロアナの襲来を阻止し、デイビッドの安全を確保できるのだろうか。

 翌日の夕方、リックは雨に打たれながらバイクで出勤した。市バスを利用するという手もあるのだが、あまり気が進まなかった。
 病院棟裏手の駐車場を小走りで抜けると、職員用の出入り口から院内に入り息をついた。ヘルメットを子脇に抱え、グローブを外して凍える指先を揉んで温める。
 階段を降りて特殊咬傷科の通路の角を曲がると、見慣れぬ人影が立ち塞がっていた。テンガロンハットにウエスタンシャツ、ガンベルトを巻いたジーンズに革のブーツ――病棟の禁忌を破ったのはロード、そしてリックだった。
 「ハロウィンか……黒ケープじゃなくてよかったよ」
 湿った髪をかき上げて、リックはカウボーイに言った。三十一日まで後何日あっただろう。
 「時代相応の装いというのはある。いつまでも懐古主義には拘っていられぬ」
 「なら、その衣装はなんだ?」
 「これか? じゃじゃ馬娘を驚かせてやろうと思ってな」
 じゃじゃ馬――ああ、首に焼印のある彼女か。
 「荒野に出てみろ。現役のカウボーイが、今でも馬に跨って牛を追っている」
 ロードはホルスターから重そうなリボルバーを抜いた。まさか本物ではあるまい。
 「予報じゃ今夜は一晩中雨のはずだ。出歩かない方がいい。ブーツの革が台無しだ」
 そう伝えてから、リックは再び歩き出した。
 「忠告、感謝しよう。ところで病室を一つ潰したそうだな。修理費用は出るのかね」
 ロードはドアの開け放された二号室を顎でしゃくった。電力の遮断された今は闇だけが詰まっている。
 「ああ、その事で困ってるんだ――」
 オフィスに入ったリックは、ロッカーの上にヘルメットを乗せて振り返った。
 「今度の相手は低温を操る雪だるま(スノーマン)なんだ――いや、雪女(スノーウーマン)か」
 「雪だるま? ならば冷凍庫にでも招待するがいい」
 「冷凍庫? そんな所に入れなくても、あいつならどこだって冷凍しちまうさ」
 カウチに掛けたロードは、ロッカー前に佇むリックに指摘した。
 「冷凍庫が冷凍されて、何か不都合があるかね?」
 「それは――いや、ないな……」
 冷凍庫か。ふとリックは病院の遺体安置室を思い浮かべた。病院棟の手術室の傍にその小部屋はあり、ロッカー式の冷凍庫が片隅に設置されている。しかし、シティ・ホスピタルには実はもう一箇所、死体置き場が存在するのだ。
 敷地内の今は使われていない旧病棟にも安置室があると、リックは耳にしたことがあった。それは裸電球に照らされたウォークインの小部屋で、金属のラックが壁に渡されているだけの素っ気無い倉庫だという。昔はそこに遺体や切断した手足を冷凍チキンみたいに放り込んだというが、新病院の建設に伴い、当時いたであろう幽霊の噂共々忘れられようとしている。尚もそこが一部の職員の記憶に残っているのは、旧病棟は特殊咬傷科の名と共に、気味の悪さでよく引き合いに出されるからだ。
 書類と機材の物置と化した旧病棟ではあるが、施設として管理されている以上、水道も電気も通じているはずだ。そこにロアナを誘導して、閉じ込めることができれば――
 「遺体安置場室か……吸血鬼ってのは、冷凍できるのか?」
 リックが訊ねると、ロードは振り返って怪訝な眼差しを向けた。
 「怖ろしいことを訊くものだな。アイスキャンディーを作るつもりなら、スティックは冷凍前に挿しておきたまえ。一度凍ってしまえば、解凍には時間がかかるだろう――陽にでも当てぬ限りは」

 冬を間近に控えた清澄な夜空に月明かりの冴える、美しい夜だった。
 遠足に向かう子供みたいな足取りで、ロアナはシティ・ホスピタルに現れた。地上に並んだ窓に目的の姿はなく、病棟の地下を訪れると、全てのドアが開放されていた。通路の中央に男が一人立っている。
 「――誰? 彼はどこ?」
 青春の香り立つような、愛らしい声が訊いた。
 「デイビッドは死んだ」
 ロンが告げた。
 「元より精神を患っていたらしい。数度に亘る未遂の末、ついに自死するに至った――俺の部下を巻き添えにしてな。俺が二人の胸に杭を打ち込んだ。もはやおまえの手には渡るまい」
 そう聞いても、ロアナの感はデイビッドはまだ生きていると伝えていた。
 不満気な表情を浮かべる少女にロンは言った。
 「疑うのなら、確かめてみるがいい。旧病棟への立ち入りを許可する――奥に古い遺体安置室がある。通常の安置室は使用許可が下りなかった。理由は判るな――?」
 罠である可能性をロアナは察知していた。しかし、警戒心を募らせるどころか、もたげる征服欲が彼女を奮い立たせた。
 ひらりと踵を返すと、少女はマフラーをなびかせて旧病棟を目指した。
 築半世紀以上が経過した煉瓦と鉄筋コンクリートの建物は、幾度にも亘る改修工事によって老朽化を免れていたものの、医療という生死を巡る営みによって染み付いた生々しい気配が払拭されることはなく、病院としての役目を終えた今でもそこは陰気な雰囲気に支配されていた。
 現在は敷地の裏手に当たる正面入り口から、ロアナは難なく内部へと侵入した。低い天井から落ちる僅かな電灯の薄明かりだけで、彼女の目はロビーの先に続く廊下の先までを鮮明に見渡すことができた。足の向くまま、積み上げられたダンボール箱や、中古の医療機材が点在する通路を歩いていくと、機械の稼動音が聞こえてきた。
 音のする方向を目指して進むと、やがて奥まった通路の突き当たりに辿り着いた。そこには四角いランプを頂いた手術室が、その傍らには室名札のないドアが、開いたまま彼女を待っていた。暗がりの先に金属製の壁と扉が立ち塞がっている。ここが目的の遺体安置室のようだ。
 故障寸前らしい旧式の冷却装置が狂ったような唸りを立てている。壁に埋め込まれたアナログ式の温度計の針は、ほぼ零度を指していた。重い扉を引き開けて、ロアナは隙間から身を滑りこませた。
 格子を纏ったオレンジ色の裸電球が、寒々しい死の小部屋を鈍く照らし出していた。天井脇のダクトから轟音と共に冷気が送り込まれている中、身震い一つせずにロアナは室内を見回した。
 部屋を前後に仕切る錆びた金属のラック越しに、膨らんだ死体袋が奥にひとつ見えた。手前の低い棚にも一体――その中身が身を起こして、棚板に腰掛けた。蒼ざめた顔は、歓喜に彩られていた。
 「死んだ振りをして逃げ出したんだ……よく来てくれた」
 デイビットは熱のない少女を懐に迎え入れた。
 「そんなことしなくたって、私が迎えに行ってあげたのに……」
 マフラーをずらして少女は微笑んだ。牙を見せたのは、巧妙な仕種だった。
 「いいんだ。それよりもキスしてくれよ……再会のお祝いに……」
 「喜んで――」
 両腕を伸ばしてデイビッドの首元に唇を寄せるロアナの背後で静かに小部屋の扉が閉まり、壁際のスプリンクラーがその敷居へと水を注ぎ始めた。床の排水溝は塞がれている。
 冷却装置が威力を増したのにも気づかないまま、二つのシルエットは長らく重なり続けた。ロアナが徒に顔を離す度に、デイビッドはその身体を抱き寄せ、或いは額や頬にキスを落として、続きをせがんだ。彼の情けない喘ぎ声が、少女の征服欲を刺激し、新たな口づけを授けさせるのだ。
 ついにロアナが身を引くと、デイビッドはよろめきつつ立ち上がって少女を追った。
 「待ってくれよ、もっと……」
 「続きは外でしましょう。月も出て素敵な晩よ、今夜は――初めて会った夜みたいに。憶えてるでしょう、私を襲おうとしたのよ、あなた……」
 くすくすと笑い声を上げながら、ロアナは振り返って扉に手をかけたが開かなかった。その原因を探る前に、デイビッドが背中から彼女を抱き締めた。彼の体は小刻みに震えていた。氷点を下回る室温と血糖の低下によるものだ。
 「行かないでくれ……決めたんだ、二度と君を離さないって……」
 ロアナの耳元で、今にも消え入りそうな声が囁いた。奥歯が音を立てている。
 「気持ちは嬉しいけど……」
 「僕と一緒に死んでくれ」
 思い詰めた言葉に、少女は耳を疑った。
 「何ですって――」
 ロアナが腕を伸ばしてハンドルバーに力を加えても、扉はびくともしなかった。隅に追い詰められ、逃れようと踏み出した足が水飛沫を立てる。固く巻き付いた腕を振り解けなかったのは、床を滑る流れ水に阻まれたためか、或いはデイビッドの愛着の強さ故か。
 「愛しているよ、ロアナ。初めて会った時から……憶えてるさ。ここで二人で氷漬けになって、永遠に寄り添っていよう……」
 「離して、あんたと心中なんて真っ平よ! 死にたいなら、一人で凍え死ぬがいいわ――」
 ロアナの足元の水溜りが凍結し、床は厚い氷の板に覆われていった。その氷が扉の開閉を阻んでいると知るや否や少女は取り乱し、執拗に纏わるデイビッドから逃れようともがいた。ロアナは周囲の温度を下げることはできても、上げることはできなかったのだ。
 何とか腕を振り切って身を翻した瞬間、目前に現れたリックの手にしたロッドが、ほぼ正確にロアナの心臓を貫いた。彼女は驚いた目を見開いたまま硬直し、背中からデイビッドの胸へと倒れ込んだ。その姿は崩れることなく、干乾びながら凍りついた。
 極度の緊張とショックで、デイビッドは少女を抱き止めたまましばらく固まっていた。骸を投げ出して床にへたり込んだ男に、リックは顔を寄せて声をかけた。彼が奥の死体袋に隠れて騒音で気配を消していたのは、言うまでもない。
 「よくやった、デイビッド。そう簡単にできる事じゃない。後は扉が開くまで生き延びることだ――」
 扉を叩いて外に合図を送ると、二人は用意してあった毛布に包まり、身を寄せ合って互いを励まし続けた。
 間もなく冷却装置が停止し、水流が床の氷を溶かし始めた。外で待機していた救命隊員たちの助けを借りながらも、扉が完全に開くまでには二十分を要した。
 救出された二人が病院棟へ搬送されるまで、デイビッドが少女の冷たい亡骸を振り返ることはなかった。

 凍傷になりかけながらも大事には至らず、短い手当てを受けたデイビッドは、一般病棟の北側の病室に収容された。冬の到来に先立って霜焼けを発症したリックも、デイビッドの喉の傷が消滅していることを確認すると、残りの仕事はロンに任せて、特殊咬傷科の病室で午後まで眠った。
 温かい食事、温かいシャワー、温かいベッド――他に何がいるだろう。凍えてみなければ、人はその価値に気づけないのかもしれない。
 夕方、オフィスにいたリックをドクター・ロバーツが訪ね、デイビッドに面会して言葉を交わすことができたと報告した。精神状態の安定した彼は人間としての自覚を取り戻しつつあり、近く日中の外出訓練を始めるという。今のデイビッドならば、日光恐怖症を克服するのはそう難しくないだろう。
 当の吸血鬼が彼の妄想癖を治したと、ドクターはジョークを交えて話した。ならば初めからロード宛てに紹介状を書いてやるべきだったのだろうかと、リックは皮肉めいた思いに駆られたものの、デイビッドの問題に快方の兆しがみられたのは、医療従事者としてもリック個人としても喜ばしいことだった。

 雨がちだった日々が嘘のような秋晴れの二日間を経て、再び夜が訪れた。長い勤務時間を終えたリックは、帰宅すべく病棟を出て愛車のもとへと向かった。
 上空を仰げば、乾いた大気越しに秋の星座が瞬き、昨日よりも小さくなった駐車場の水溜りには、オリオンの三つ星が揺れている。ヘルメットを被る前に、宵闇の満ちる街角に相応しからぬ賑やかな声を耳にして、リックは敷地の外に目を向けた。
 通りの歩道を行くのは、懐中電灯と思い思いのバッグを手にした小さな海賊やドラゴン、妖精に魔女、フランケンシュタインの怪物にドラキュラ伯爵もいる――今夜はハロウィンなのだ。ふとリックは肩の力を抜いて微笑んだ。
 無邪気なものではないか。どんな衣装を着込んでいても、彼らは首や心臓や生血が欲しい訳じゃない。明日の朝には人間の子供に戻るだろう、たんまり集めたお菓子のために。
 悪戯(トリック)か、ご馳走(トリート)か――いつか本当に求めるものは、キャンディを配る人の手の温かさなのだと気づくだろう。


Dec. 2022

シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉: トリック・オア・トリート 
https://heartdelsol.com/works/novel/swd05.htm

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