予約時間通り、その男が特殊咬傷科の病棟を訪れたのは八時だった。午後である。
一ヶ月前の定期健診の時と変わらず、だぶついたジーンズに、市街でもよく目にする廃棄物処理業社のロゴの入ったジャケットを合わせている。短く刈り上げた髪は少し伸びただろうか。
「――やあ、ジョーンズ。調子はどうだい?」
スクラブ姿のリックは通路で彼を出迎えた。
「上々さ。なんとかやってるよ」
口篭ったような声も、そこではよく響いた。
傍らの病室にジョーンズを迎え入れてドアを閉め、用意してあった簡易椅子に二人は向かい合って腰掛けた。
「問題は起きていないか? 何か困った事や」
リックが訊ねると、ジョーンズは穏やかな表情で答えた。
「今のところは順調だ。仕事にも慣れてきた」
「‘処方薬’は足りてるか?」
「まあな」
「今日も一パック持っていくかい?」
「頼む」
頷いて立ち上がると、リックはベッド脇のキャビネットに用意しておいた掌ほどのパッケージを取って戻った。赤黒い液体の詰まった透明なプラスチックのパックには、大きく‘O’の文字の記されたラベルがされている。
「助かるよ」
冷たいパックを受け取って、ジョーンズは礼を告げた。無論、彼は無償でその輸血製剤を譲り受けている訳ではない。毎月それを自己負担で購入しているのである。
およそ一カップの赤血球とその半量の保存液が含まれたパックを二ユニットも購入すれば、この国の成人一ヶ月分の食費の平均金額を上回る。家賃と光熱費以外の生活費を全てその処方薬に当てたとしても、彼の収入では月に一パックが限界であった。
「すまないな。期限切れのストックを回してもらえるように頼んであるんだけど、担当者がケチでね」
「いいんだ、リック。あなたにごみ箱を漁るような真似はさせられない」
ジョーンズの顔に苦笑が浮かんだ。やけに長い犬歯を見過ごせば、綺麗な歯並びだった。
全血から抽出された濃厚赤血球はパックされてから六週間も経過すれば医療廃棄物として処分される。損失を防ぐため、病院はその仕入れと管理を厳重に行っているものの、廃棄するパックの大半はドナーから無償で提供された血液に他ならない。
「血液銀行に注文すれば、全血のパックだって手に入るんだ。ただ、費用がな……」
「これだって悪くない。アドバイス通り、湯煎にかけて温めてから使ってる。それに‘本物’の味は知らないままの方がいいだろう」
「そうだな……」
手にしたパックを見下ろす男にリックは答えた。同情を示したものか定かではなかった。
輸血製剤の経口摂取が必要な疾患は、恐らく世界に一つしか存在しない――それを病気と見なし、闘病生活を続ける患者の意向を尊重するのならば。
他の診療科と同様に、特殊咬傷科にも時に救えない命がある。あえて病名を与えるのなら、‘吸血病(ヴァンパイア・ディジーズ)’だろうか。それは不治の病であり、不死の病でもあった。
喉に一対の傷を留めたまま受診するならば、まだ救いがある。しかし、当人の知らぬ間に吸血鬼に襲われ、犠牲者となった自覚なく歳月を過ごした後、徐々に、或いは突如それは発症することがある。
彼が――ジョーンズがそうであった。半年前、窓辺の夕日にかざした指に火傷を負って特殊咬傷科を受診した時には、既に手遅れであった。
襲われた時期や相手については、見当もつかないと彼は話した。暗示による記憶操作を受けた可能性もあるし、首以外の咬傷であれば別の原因を疑うだろうから、気づかなかったとしても不思議はない。
特殊咬傷科の設立以来、いつかはそういった受診者が現れる覚悟はしていた。それでも彼を患者として受け入れるか否かで、ロンとリックの意見は対立した。
手遅れの犠牲者は、ロンにとっては潜在的な標的に過ぎなかった。ジョーンズと同じ境遇に陥り、新たな犠牲者を生み出した‘元’犠牲者を手にかけなければならなかった苦悶の過去は、ロンに例外を認めさせなかった。
一方のリックは、病院というシステムがあれば、回復の見込みのない患者でも支援できるはずだと、ジョーンズを頑なに擁護した。ベスもこれに賛同した。診断書と彼女のサインがあれば、それらしい理由をつけて輸血製剤を入手できる。試験的な試みではあるが、特殊咬傷科の課題として前向きに取り組むべき案件であると、彼女はリックの主張を後押しした。
実際、患者に提供する医療に関しての権限はベスにしかないのだし、受診した患者にその場で死亡を宣告して治療を拒否するというのも、医療機関としては望ましくない対応である。©れでぃそるみな。結局、二人の説得にロンも折れて、彼はこの案件には関わらないという条件付きで、ジョーンズを受け入れる運びとなった。
翌日、薬剤室の冷蔵庫から輸血用の赤血球と血漿パックを調達してオフィスに戻ったリックは、計量した二種類の液体をビーカーで混ぜ合わせて‘全血’を調合した。しかしながら、血液製剤が生血の代用と成り得るかについては、予てから不明だった。
「ならん」と、カウチに掛けたロードは、にべもなく断言した。
「血の飢えは癒せぬ――生きた人間に牙を立てぬ限りは。人間も腹が減れば、同胞の死肉であろうと口にするそうではないか。本能の前には、理性の箍などないも同然だ」
ロード曰く、人間に輸血可能な代用血液が存在しないように、生血に代わって彼らの渇望を満たし得る物質は存在しないのだという。募る渇望を抑えていれば、いつか身の破滅をもたらすと、ロードはリックに忠告した。
「生娘でもさらってきて、そいつに宛がってやればよいものを」
憐れむような眼差しと共に、ロードは皮肉っぽく告げた。
「獣になり切れぬのも性とはいえ、愛玩動物(ペット)として飼い慣らすには、吸血鬼は手に余るだろう」
その晩、ジョーンズの最初の診察だけは、ロンもリックに同行した。
患者の体温は室温よりやや低く、心拍数と血圧はモニターに測定不能のエラーが出た。安静時の呼吸は殆ど確認できないが、会話に差し支えない程度の自発呼吸は行っているらしい。昼間にはなかった瞳孔の対光反射も今は確認できた。
彼の現在の状態と、治療法はなく対処療法しか手立てのないこと、そして今後の方針などをよく話し合って同意を得てから、リックはカートに用意してきたプラスチックのカップを差し出した。中身は先程調合した処方薬の半量である。
ジョーンズは少し躊躇ってから一気にそれを飲み干すと、手で口を覆って顔を背けた。咽び泣く男の痛ましい姿を、リックは無言で見守るしかなかった。
二杯目を渡すと、ジョーンズは一人にして欲しいと申し出た。リックは留まろうとしたが、ロンに促されて二人は病室を後にした。ジョーンズの落とした涙が染め抜いた病院着の赤い斑点を、今でもリックは鮮明に記憶していた。
それでも彼には、あまり悲観的にならずその境遇を受け止められるだけの、気強さと大らかさがあった。常に前向きな彼の姿勢に、リック自身も多いに励まされたものだ。
彼の病室を訪れる度にカウンセリングを行い、ジョーンズは退院後も通院を続けながら、社会に留まり生活を継続する方法をリックと共に模索した。手始めに彼は両親の遺した家屋を売却し、小さなアパートに移った。日当りの悪い‘好条件’の物件を手頃な価格で賃貸することができた。
それまで勤めていた運送会社は退職せざるを得なかったものの、新たな資格の取得と就職活動に励み、夜勤シフトのトラックドライバーとして見事に再就職を果たした。廃棄物処理業社に雇われた彼が、深夜の廃品集積所で人と出会わせることはなく、マスク着用の規定も都合が良かった。
伸びた犬歯を処理できる歯医者をリックは紹介していたが、生憎、彼の加入している保険会社はネットワーク外であった。シティ・ホスピタルと彼の医療保険プランとの相性も良好とは言えなかった。貧血症の診断書を提出し、診療科の名を伏せて保険料を申請してからも一部の費用は賄われず、尚も保険会社との交渉が続いている。
定期的な輸血処置が必要となる疾患は少なくないし、一度の手術で五十ユニットの輸血パックを必要とする患者も珍しくない。彼には点滴用具ではなく、ストローかカップがあれば充分なのだから、治療費はともかく血液製剤の費用くらいは補償されるべきであろうに。
そういった事情から、初診後半年が経過した現在まで、彼は月に一度の定期健診の度に処方薬を自腹で購入している。少なくとも現時点では、この投薬療法の効果は継続している。
それでもいつ何時、彼が危険な衝動に駆られるとも限らない。けれど気丈なジョーンズは、抑制不能な欲求への不安や恐怖を決して見せなかった。
「そういえば、鼠を操れるようになったと話していたよな」
問診の最後にリックが訊ねた。
「はい。実は少し練習を積みまして、鼠を使って猫を誘き出せるようになりまして」
「へえ、猫を?」
「連れて帰って、少しだけ血をいただいてから、餌をやってまた放してやるんです。咬まずにやってますし、小さい傷なら誰も気づかないだろうと……よろしくないでしょうか」
「うーん、まあ、咬んでないのなら、いいんじゃないか。献血に行ってクッキーをもらうようなもので」
犬猫が苦手なことを、リックは顔に出さないよう意識した。あの毛深い体に口をつけるなんて、考えただけでも悍ましい。
「君に必要なら、仕方がないさ。牛乳だって生きた牛から採るんだ」
「そう言ってもらえると助かります」
「その能力は、鼠や猫だけに有効なのかい?」
「さて、小動物にしか試したことがないので……」
「僕で試してみるかい? リスクを把握しておくのは、悪くないかもしれない」
手にしていたクリップボードを脇に置いて、リックは姿勢を正した。
「できるかどうか……」
ジョーンズはやや頭を垂れてリックを見つめた。自分を凝視する視線以外、リックは何も感じなかった。
丸一分が経過してから、ジョーンズは苦笑しつつ首を振った。
「猫でもまだ難しいんです、人間の頭は複雑すぎて入り込めないのでしょう。鼠くらいの単純な頭が丁度いい」
「そうか……でも安心したよ。人を誘き出せるようになったら事だからな」
「誘い出すよりも、遠ざけられるようになりたいですね――苦手な人を」
診察を終えて席を外したリックが振り向いた。
「それ、僕のことかい?」
「まさか。さっきは立ち上がって俺と握手するように念じていたんですよ」
「そうなのか? それは悪かった……」
リックが差し出した右手をジョーンズは固く握った。その掌に熱はないのに、闘病患者が見せる健気な笑顔が、看護師を祝福していた。
ジョーンズの勤務時間は、常勤労働者の平均から丸半日ずれていた。
午後八時に基地に出勤して自家用車から収集車に乗り換え、担当区域の集積所を巡り廃品コンテナ(ダンプスター)の中身を回収し、郊外の廃棄物処理場に送り届ける。曜日によって回収ルートと走行距離は異なるものの、大概は四時の終業時間に余裕を持たせて基地に帰還する。日の出前には帰宅していなければならないのだ。
その夜も彼は順調に仕事を終え、事務所に収集車の鍵を返却した。夜明けの気配を帯びた曇天の下、職員用の駐車場に早足で向かう。敷地内に人影はなく、屋外の喫煙所もドライバーの出払った今は無人だ。中央の大型ガレージのシャッターが開放されて煌々と明かりが漏れているが、整備士の姿も見当たらない。
敷地の裏手に差し掛かったジョーンズは、そこである気配を察知した。それは‘変わって’から徐々に獲得した感覚で、彼は特定の生物の気配に非常に敏感になった。人並み外れた怪力といったような派手な能力でこそなかったものの、半マイル四方に存在する小動物を視聴覚に頼らず感知できる第六感は、立派な超能力といえた。
気配の主は猫らしかった。先週辺りから敷地内で見かけるようになった野良猫だろう。周囲に人がいないことを確認してから、ひとつその猫を捕まえてやろうとジョーンズは思い立った。
彼は生来、虫も殺せぬような優しい性分だった。それでもどこかで抗し難い欲求と折り合いをつけていかねばならない。猫程度の哺乳類ならば、少量の血液を失ってもその生命活動に大きな支障はない。たとえ一口であれ、食費もとい医療費の儘ならない彼にとっては、貴重な栄養源である。
ガレージの裏手に回り、鼠の気配を探して呼びかけると、間もなく彼の足元に順応な一匹のラットが現れた。猫を誘き寄せるように心中で命じる――或いは、彼がその意識を操っているのか。
暗がりで待つこと数分、敷地を隔てる金網のフェンスと生垣の間から猫が現れた。茶と黒の混ざった、やや長毛の猫である。こちらの小説ははーとデルそるドットコムから複製されました。首輪をしているから、逃げ出した飼い猫かもしれない。それとも飼い主が野放しにしている半野良だろうか。
目線を合わせたまま精神を集中させ、おいでと呼びかける。猫は術にかかったように覚束ない足取りで前進し、彼が持ち上げて腕に抱いても、暴れることはなかった。
温かい毛の塊を撫でながら駐車場へと引き返す途中、ジョーンズは背中から呼び止められた。
「待って、連れて行かないで――」
立ち止まって振り返ると、ガレージの一角から青年が現れた。高校生と見まごうばかりの若い黒髪の青年は、ジョーンズと同じ作業服をTシャツの上に羽織っていた。新入社員らしく、ジャケットにはまだ折り目がついている。コンテナやトラックの清掃を担う、早朝のパートタイム勤務だろう。
「飼うつもりなの?」
青年は訊ねた。ジョーンズは猫を見下ろして咄嗟に嘘をついた。
「いや、保護施設(シェルター)に連れていってやろうと思ったんだ。トラックに轢かれたら可哀想だからな」
スナックにするつもりだったとは言えるはずもない。
「やっぱり。保護施設は、夏休みのボランティアで働いたことがあるんだ。保護した動物を連れていったからって、幸せになるとは限らないんだよ。知ってるでしょ、飼い主が見つからないまま時間が経つと、殺されてしまうんだ。種類によっては保護団体が引き取ってくれることもあるけど、雑種だったり病気を持ってたりすると、絶望的なんだ」
青年の熱弁に答える代わりに、ジョーンズは猫を地面に下ろした。心中で行けと命じると、解放された猫は一目散に敷地の外へと逃げ去った。
「ありがとう――僕はマイク」
青年は笑いかけて手を差し出した。グローブ越しに握手をしながら、ジョーンズは厄介な奴が来たものだと不安に駆られた。
その予感は的中し、翌日からマイクは何かにつけてジョーンズの前に現れるようになった。早めに出勤して彼の帰還を待ち構えることを覚え、どんなに適当にあしらっても、粘り強く彼に接しようとする。やけに懐いてしまったマイクは、ジョーンズの悩みの種となった。他のドライバーの気性が荒く、社会に出たばかりの若者には近寄り難いこともあっただろう。
休憩室で水もコーヒーも摂らない訳を、ジョーンズは持病があり食事をコントロールしているためだと告げた。常に着用しているマスクやグローブも、ウイルスに対する免疫力が弱いせいだと話した。人を疑うことを知らないのだろう。マイクは全てを信じた上、礼儀を弁え同じ質問を重ねることもなかった。
一ヶ月後、ついにジョーンズは、マイクを収集車の助手席に同乗させて仕事を教えるよう上司から言い渡された。彼は咄嗟に命令を断る上手い口実を思いつけなかった。もしかするとマイクから異動を願い出たのかもしれない。かくしてジョーンズとマイクは、翌週から同じシフトを割り当てられた。
週末の二日間を、ジョーンズは悩みに悩んで過ごした。正直に全てを話す事も考えた。それでも失うリスクを恐れて結局は思い留まった。人並みに暮らすためにも職を失う訳にはいかないし、マイクに拒絶されることは、人間性を否定されるようなものではないか。
収集車の車内にバックミラーがなかったのは幸運だった。トラックの後部はカメラとモニターで確認できる。光の分子はジョーンズの体をほぼ通過して鏡へと向かう。もし鏡越しに見た運転席に、彼の亡霊と衣服しか着席していなければ、マイクは仰天するだろう。しかし、彼を助手席に乗せて間もなく、それは過ぎた心配であったと知れた。
ハンドルを握るジョーンズが無口なのとは対象的に、マイクはとにかくよく喋った。相槌さえ打っておけば、よく話題が尽きないものだとジョーンズが関心するほど、彼は絶え間なく話し続けた。たとえジョーンズの映らないサイドミラーを目にしても、お構いなく話し続けただろう。
マイクは六月に高校を卒業したばかりで、大学に通う費用を貯めるために、昼夜で二つのバイトを掛け持ちしているという。昼から夜にかけてハンバーガー屋のレジに立ち、その足でジョーンズのアシスタントを務め、午前中を睡眠に当てている。趣味は読書で、高校ではブラスバンド部に所属していた。
マイクは真面目な優等生タイプというよりはお人好し、悪く言えば世間知らずのおせっかい焼きであった。彼の行動が全て善意からの行為であることが、かえってジョーンズに罪悪感を抱かせた。マイクがジョーンズを慕うのも、彼が動物を思いやる親切な人であると信じて疑わないからなのだ。
尚困った事に、マイクと仕事をするようになってから、ジョーンズは‘生餌’を摂取する機会を殆ど失ってしまった。月に一パックの処方薬は、余計に飢餓感を募らせるばかりで、そうなると彼の唯一の生き甲斐であった仕事も苦痛となっていった。
若く瑞々しい生血が、僅かな距離を隔てて同じ空間内に存在することを知りながら、彼は一晩中その隣でドライバーを務めなければならない。こちらの文章は、はーと、でる、そる、どっとこむ、からのコピペです。常時意識して自らを抑制していなければ、渇望に駆られて気がおかしくなってしまいそうだった。
眠気覚ましを口実にラジオの音量を上げて気を紛らわせながら、ジョーンズは安全運転と丁寧な仕事を心がけていたものの、そんな努力も虚しく、四週間目に至りついにそれは起こった。
真夏の、やけに月の明るい夜だった。
その晩、日の入りと同時に目覚めた時から、ジョーンズは目眩と耳鳴りの症状に悩まされていた。暑気の中でも悪寒に襲われ、口内が乾くのだ。
収集車に乗り込んで基地を出発してから、マイクはいち早くジョーンズの不調を察知した。
「具合が悪そうだけど、ちゃんと水分摂ってる?」
「投薬の関係で、摂取する水分量が決まっていて、むやみに水分補給できないんだ」
助手席から声をかけるマイクに、ジョーンズは薬の飲み忘れを装って対応した。しかし症状は悪化し続け、深夜を過ぎる頃には、目が霞んでまともに運転もできないような有様だった。マイクは普通車以外の免許を取得していないため、ジョーンズは臨時の運転手を本部に要請することを検討し始めた。
次の回収場所は町工場が軒を連ねる暗い路地であった。
二人は降車して、廃品コンテナを収集車の前まで移動させた。リフトを操作して中身を回収し、コンテナを元の位置に戻す。しかし、ジョーンズの腕に力は入らず、マイクが一人で続きを担った。
運転席に辿り着く前に、ジョーンズはよろめいて地に膝をついた。ヘッドライトの照射が脳を焼くように眩しい。
「大丈夫、汗かいてないよ――少し休んだら?」
不安気なマイクの声にジョーンズは頷いて立ち上がり、暗闇を求めて工場裏の搬入デッキの影に向かった。
「脱水じゃないかな。何か飲んだ方がいいよ……」
気を利かせて助手席からペットボトルの飲料水を持ち出すマイクを見つめながら、ジョーンズは自分の思考力が鈍っていくのを、驚くほど冷静に感じていた――そうだ、何か飲んだ方がいい。
彼は寄りかかった冷たいコンクリートの壁に顔を寄せた。その脳裏には朱色しか浮かばなかった――紅い、温かい液体だ。口に含めば喉を潤せる。
「マイク……」
喉が鳴るような、苦しげな声が呼びかけた。
「何? 何か僕にできる事が――」
傍らで心配そうにジョーンズを見守っていたマイクは、思わず彼に駆け寄り、まともにその顔を覗きこんでしまった。息を呑んで硬直する――獲物に睨まれた鼠、或いは猫のように。
汗ばんだ肌が、Tシャツの襟と袖から露出している。早鐘を打つ心臓の鼓動さえ聞こえるようだ。
ジョーンズはマスクを外した。青年の脈打つ全身の血管が、若い血潮が、彼を呼んでいる。
共に抗うことは叶わなかった。意思を奪われてしまったように、マイクは硬い表情のままジョーンズに近づいた。
その肩に、厚いグローブの手が置かれた。
シティ・ホスピタルの一般駐車場にその収集車が乗り入れた時、夜勤の警備員は怪訝な視線を向けた。ごみの集積所は裏通りに面しているし、次の回収は水曜日のはずだ。
警備員が訝しんだのも束の間、運転席から作業着姿の男が現れ、助手席からぐったりした青年を抱え下ろして救急外来の入口へと急いだ。
緊急治療室(ER)からの連絡を受けたのはロンであった。
上着を手にオフィスを出ると、エレベーター前の壁際にロードが身を持たせかけていた。
「――狩れるか。おまえの‘患者’だぞ」
ロンは擦れ違い様に答えた。
「リックの患者だ。俺には‘元’犠牲者に過ぎん」
ロンから連絡を受けたリックが自宅アパートから治療室に急行すると、カーテンで仕切られたブースのベッドには青年が寝かされており、付添い人用の椅子にはジョーンズが掛けていた。
彼は無言のまま、悲痛な面持ちでリックを見上げた。その瞬間、リックは全てを悟った。
吸血鬼が襲った犠牲者を自ら病院に運び込むとは誰も思わないだろうし、ロンも目の前にその犯人がいると告発することはなかった。それでもジョーンズが彼の犯した罪に苛まれていることは一目瞭然だった。
患者に輸血処置を行ったナースが通りがかり、ロンは病室を用意するため病棟に戻ったと告げた。
「ジョーンズ、まずは下に……話はそこで聞くよ」
患者の容態を確認してから、リックが告げた。首にガーゼを当てられた青年は、顔色こそ優れないものの、穏やかな寝息を立てていた。
間もなく搬送用のストレッチャーが運び込まれ、ジョーンズは席を立った。
マイクを病棟の地上階十六号室に収容したリックは、待たせてあったジョーンズと地下の病室で面会した。ロンも同席した。
「君も具合が悪そうだけど、大丈夫か?」
簡易椅子にはまるでジョーンズの姿をした蝋人形が腰掛けているようで、その晩、図らずもその渇望を人間の生き血で満たした吸血鬼にはとても見えなかった。
肩を落として押し黙っていたジョーンズは、やがてしどろもどろに今夜の出来事と、そこへ至った経緯を話して聞かせた。彼自身も相当ショックを受けている。
全てを聞き遂げてから、リックが訪ねた。
「君の、これからの希望はあるかい?」
「仕事は――続けたかった。マイクさえいなければ……」
擦れたジーンズの生地を握り締めるジョーンズを、リックは励ました。
「おいおい、まだ退職届けを出した訳じゃない。会社には強盗にでも襲われたことにして――」
「殺してくれ」
「えっ……」
ジョーンズの突然の申し出に、リックは言葉を失った。壁際のロンが顔を上げる。
「それしかない。俺が生き延びた事、それが間違いだった。手遅れだと判明した時点で、そうしてもらえばよかった」
「待ってくれ、ジョーンズ。君がこの‘病気’を発症したのは君のせいじゃない――君に非はないんだ。輸血パックでは持たないのか、それとも量が少なかったのかは判らないけど、これからも処方は続ける。だから――」
立ち上がって宥めようとするリックに、ジョーンズは頭を振った。
「それは有難いし、あなたには感謝してる。それでも俺はマイクを襲った――俺は自分が許せない。あなたが俺の処分を妥当だと思うのなら、どうかそうしてくれ。俺が眠っている間に杭でも打ち込んでくれるなら……」
「それは……患者の――マイクの容態を見て判断するしかない。しばらくここに留まってもらうよ」
苦し紛れの返答に、ジョーンズは頷いて従った。
「もちろんです。できることなら、二度とここから俺を出さないで下さい」
「朝になったら、君たちの会社には連絡を入れておくよ。二人とも事件に巻き込まれて、しばらく休養が必要だって……」
「助かります」
オフィスに戻るなり、ロンは立ち止まってリックと向き合った。
「俺は口を出さない約束だ。だが――」
言葉を濁しても、それが方針転換の催促であるのは明白だった。
「解ってる。解ってるけど……ジョーンズはあんなにいい奴なんだ」
「しかし、彼はもう人間ではない。現に犠牲者を出した。彼自身もそれを悔やんでいる」
「それは……」
動揺を顕にするリックの姿は、ハンターとしても医療従事者としても、あまりにも頼り無かった。だが、犠牲者に同情を寄せることは、人間としては当然の心理ではないか。
人が吸血鬼を狩る動機は、他者を救いたいという善意であるべきだ。しかし、護るべき者への慈悲が仇となり、情け心が新たな犠牲者を生み出す。故にハンターは感情を切り捨てて一度は人であった者と対峙しなければならず、それは彼ら自身の人間性を否定することに他ならない。標的もまた犠牲者であるという事実の先に立ちはだかるのは、‘善き吸血鬼と悪しき犠牲者のジレンマ’である。
杭を向ける相手が善人であるほど、良識あるハンターなら、誰もがその正当性を自問し苦悩する。リックもまた例外ではない。この文章はハートデルソルドットコムからのコピペです。殊に彼はこの案件の責任を担ったのだ。最終的な判断も彼が下さねばならない。
押し黙るリックに、ロンは追い討ちをかけるよう問い質した。
「もし今回の犠牲者が、お前に‘依頼’したとしたら、その時はどうする?」
「その時は――」
リックは食い縛った歯の間から声を絞り出した。
「新しい依頼を……優先する……」
マイクは昼前に意識が戻るまで昏々と眠り続けた。リックが回診に訪れると目を覚まし、病院にいると知るなり、身を起こして話しかけてきた。
「あの、彼は――」
マイクは自身よりもジョーンズの身を案じていた。
「ジョーンズは無事だ。だから落ち着いて、まずは僕の質問に答えてくれるかい――?」
リックは自己紹介と簡単な診察を行ってから、傍らの椅子に掛けて訊ねた。喉の傷を除けば、患者の体調に問題はないようだ。
「昨日の夜、何があったか覚えているかい?」
「はい――僕、彼に悪いことを……」
マイクは暗い表情のまま語り始めた。彼の仕事とジョーンズの事。昨夜はジョーンズの様子がいつもと違った事。考えてみれば、思い当たる節がいくつもあった事。彼と顔を合わせた途端、身動きが取れなくなり、そして――
「彼は……ジョーンズは……」
肩を震わせて、マイクはその正体を口にした。なぜ、よりによって彼がという、懐疑的な問い含んだ告発。
「そうだ。あれが彼の持病なんだ。知らなかったとはいえ、彼と親しくするのは、もしかすると、あまり賢明じゃなかったかもしれないな」
「僕、何も知らずに……」
「もちろん、君が襲われたのは、君のせいではないよ。誰にだって起こる可能性はあった。でも、ジョーンズ自身、この事をとても悔やんでいる。彼の希望としては、今の仕事を続けたいそうなんだけど……」
「ジョーンズはどうなりますか?」
不安気な顔を上げてマイクは訊ねた。
「それは君次第なんだ。君も‘変わる’可能性はある。それとも、何事もなく一生を過ごすかもしれない。一つ確かなことは、君を襲った相手が滅べば、君の安全は保証されるということだ」
「でもそれって……ジョーンズが死んだらってこと? そんなことできません!」
マイクは必死に弁解した。
「彼、とっても良い人なんです。僕のせいで彼が死ぬなんて、そんな――」
「それは僕も知ってる。だから辛いんだ。彼は自分の‘病気’が手遅れだと知った時、それでも山奥に篭るよりは、社会の中で人の役に立ちたいと話した。でも、それは同時に、大きなリスクを背負うことでもあったし、彼にはその覚悟があった――君の希望次第で、彼は責任を取るつもりだ」
「お願いです、ジョーンズを殺さないで――」
縋るようにベッドから身を乗り出して、マイクはリックに訴えた。
「全部僕のせいなんです。何も知らずに、彼に付き纏ったりして……今の仕事は辞めます。そうすれば、ジョーンズも復帰できるでしょう。どうか――」
「とりあえず二日間、ここに留まって容態を観察しよう。その間、面会は謝絶させてもらう。もちろん、ジョーンズにも会わせることはできない。家と会社には僕から連絡を入れておくよ。問題がなかったら退院して、次は一週間後、その次は二週間後といった具合に、定期健診を受けに来てもらう――いいだろうか」
マイクは概ね承諾したが、もう一方のバイト先への連絡に加え、母親に心配をかけたくないからと、家への連絡は自分でしたいと申し出た。リックの見守る中、彼は自宅に電話をかけ、仕事のシフトが変更になり明後日まで会社の休憩室で寝泊りすることになったと伝えた。
日が暮れる頃、リックはジョーンズの病室に赴いて、目覚めたばかりの彼にマイクの希望を伝えた。彼にはジョーンズを滅ぼす気など更々なく、仕事に復帰して欲しいと願っている。
やはりな、といった反応でジョーンズは受け止め、どういった条件が犠牲者の症状を悪化させるのかを訊ねた。自覚症状のなかった彼の場合はともかく、マイクには可能な限りの予防処置が必要だ。しかし、それは一様には答えられないとリックは話した。
吸血鬼の関与、つまり‘主’の執着の度合いが強いほど犠牲者の状態が悪化するとは、ロンの推測である。主が犠牲者の血を求める度に、それは深夜の密会として双方の距離を縮め、口づけを重ねれば肉体は衰弱し、死ならざる死は自ずと近づいてくる。また、吸血鬼が自らの呪われた血を持って人間を同胞へと引き入れることもあるが、それこそ主が犠牲者に特別な情を抱いていることの証だ。
では一度目の遭遇以降、主の干渉が全くなかった場合はどうだろう。いかなる要素が犠牲者の吸血鬼化の有無や、そこへ至るまでの時間を左右するのだろうか。環境、行動、体質、精神状態、信仰心、或いは――運か。
二日後、症状の悪化が確認されなかったマイクは退院し、その晩、ジョーンズも病室から開放された。
輸血パックは複数回に分けて服用すること、そして緊急時に備えて少量を携帯することを、リックはジョーンズに提案した。前日の‘処方薬’の集中投与によって、彼の状態も安定していた。
強盗に襲われかけたと会社に報告する口裏を合わせ、リックは保険金の申請に必要な書類も作成した。勤務中の負傷だから、今回の二人分の治療費は会社の保険で賄われるはずだ。
週末を挟んで、ジョーンズは月曜日には仕事に復帰することができた。出勤したオフィスで、彼は上司からマイクが退職したと知らされた。理由は親の急な引越し――嘘をつくのが下手なのだ。
そうして彼は気楽な単独勤務に戻り、その後、マイクの消息を聞くことはなかった。ジョーンズが意識しなければ、マイクにも影響は及ぶまい。
一方のマイクも、一週間後の健診で異常は認められず、平穏な日々を過ごしているとリックに話した。廃棄物回収の仕事は辞めてしまった今も、ショッピングモールのフードコートでは引き続きバイトをしており、多忙な昼のシフトを引き受けているのだという。
「二つの仕事を掛け持ちするのは、少し欲張りだったかもしれません。でも、お陰でまた、夜はベッドで休めるようになりました。この方が健康的ですよね」
仕事上がりのマイクは、疲れた素振りも見せずにこやかに話した。首の傷は、服の襟で上手く隠している。
「昼の仕事では、ジョーンズみたいな良い人には、まだ出会えていませんけど……」
更に二週間が経った。
リックは病棟でマイクの来院を待っていたが、彼は予約時間を過ぎても現れなかった。あの青年ならば、都合が悪ければ電話くらい遣すだろうに。
待つこと数時間、夜が更けてもマイクの訪れる気配は一向になく、リックは彼の携帯電話をコールした。繋がらなかった。母親には心配をかけたくないという彼の手前、自宅に連絡することも憚られた。
仕事熱心な彼のことだから、日程を取り違えたとか、うっかりしている可能性はある。急なバイトのシフトが入って連絡できないとか、疲れて寝過ごしてしまったとか――様々な理由を思い巡らせながらも、リックは胸騒ぎを覚えた。
結局、いつまでもマイクは現れず、リックはその身を案じながら次の半月を過ごした。患者に来院を強制することはできないし、携帯電話は解約してしまったらしかった。
それとも、全てリックの取り越し苦労で、便りのないのは良い便りというように、音沙汰のないことを喜ぶべきなのだろうか。マイクがつつがない毎日を過ごしているのならば、それに越したことはないのだが。
深夜、一人でオフィスに詰めていたリックのデバイスが鳴った。
相手の電話番号は非通知だった。一瞬、マイクが思い浮かんだが、患者なら彼の個人的な連絡先は知らないはずだ。
通話ボタンを押すなり、聞き慣れた男の声が一方的に話し出した。
「リック、急患だ。搬送車で来い。場所は――」
「待てよ、ロードなのか? どうやってかけてるんだ?」
彼は携帯電話は持たない主義ではなかったか。
「公衆電話という設備を聞いたことがあるかね。早く来なければ、おまえの患者は警察か日光の厄介になるぞ」
すぐにジョーンズが思い当たった。リックは横目で時計を見た。既に三時を回っている。
「分った、すぐに行くよ」
搬送車の借り出しに多少手間取り、教えられた近隣の商業地区に辿り着くまでに四十分以上を要した。ウェアハウスの連なるブロックに差しかかり、暗い駐車場を抜けて裏通りに進入すると、間もなく大型の収集車が停まっているのが見えた。エンジンは稼働している。
搬送車を寄せると、廃品コンテナの陰に倒れた人影がヘッドライトに照らしだされた。うつ伏せのジャケットの背中に、棒状のものが突き立っている。
「ジョーンズ!」
慌てて車を降り、駆け寄って声を掛けても、反応はなかった。何者かに背後から刃物で襲われたのだ。そして――彼は死んだのか?
困惑するリックの背後に、ロードが立っていた。
「不死者(アンデッド)とは、彼の置かれた状況を表す言葉ではなかったかな」
ジョーンズを覗き込んでいたリックが顔を上げた。少なくとも死後半年が経過した死体には見えない。
「‘生きて’るんだな――?」
搬送車の救命キットから拝借したラテックス・グローブを装着したリックは、慎重にナイフを抜き取り、ジョーンズを横向きに寝かせた。マスクを外すと、半開きの口から牙の先が露出していた。
ナイフには乾いた血がこびり付いていたものの、出血は殆どなかった。傷を検めると、刺傷は二箇所あることが判った。一つは肋骨に阻まれたために浅く、一つは胴を貫通していた。コピーライト、はーとデルそるドットコム。まだ滅んでいないということは、心臓は外したのだろう。
ジョーンズをストレッチャーに乗せて搬送車に収容してから、リックは収集車のエンジンを切って鍵を車内に隠した。会社に連絡を入れれば、後で誰かが引き取りに来るはずだ。
「夜明け前に収容できて良かった」
命なき者の救命活動を見物していたロードに告げて、リックは東の空を見上げた。これから病院に引き返しても充分に間に合う。
「礼ならこいつに言ってやれ」
ロードが掲げた掌には、どぶ色のハツカネズミが蹲っていた。
「病棟の外で途方に暮れていた。強力な暗示がかけられている。解いたら死ぬだろう」
運転席に乗り込む前に、リックは小さな案内人の耳の間を指先で撫でてやった。
「立派な仕事をしたな。主人も誇らしいだろう」
小さく鳴いて、鼠は息を引き取った。無理もない。その小さな足で一晩に二十マイルの道程を往復したのである。
「埋めてやれよ――僕は急ぐから」
搬送車を見送ってから、ロードは静寂に包まれた周囲を見渡した。コンクリートとアスファルトに覆われた大地が、朝の訪れを告げる仄かな黎明に輪郭を現し始めた。
空が朝焼けに染まる前に病院に到着したリックは、毛布で覆ったストレッチャーを特殊咬傷科に搬入した。地下の病室では終業間際のベスが治療の用意をして待っていた。
鋏を入れてシャツを取り去り、背と胸の傷口を洗浄した後、縫合はせずにガーゼを当てる。リックは死体を扱っているような錯覚に囚われた。呼吸も脈拍もない患者に医療行為を施しているのだから当然だ。遺体の修繕は葬儀屋の仕事ではないか。
大した処置もなく手当てを終え、ジョーンズに病院着を着せた後は、病室の照明を落として見守るくらいしか手立てがなかった。。吸血鬼の驚異的な回復力を信じるならば、放っておいても治癒するはずだ。
「杭でなくてよかったわね――」
オフィスで帰り支度をするベスが、デスクの上に置かれた刃渡りの長いカービングナイフを見て言った。それは凶器でありながら、同時にこれで命拾いしたともいえる。もし杭をハンマーで叩き込まれていたら、心臓など外すほうが難しかっただろう。
「吸血鬼の串刺し(ステーキ)には向いてなかったな」
洗浄したばかりのナイフを手に取ってリックは眺めた。料理人ならともかく、単なる強盗ならば、もっと短くて扱い易い凶器を選ぶだろう。もしもリックが救助に向かわなければ、ジョーンズは今頃、日光でローストされていたに違いない。
「正体を知った上で狙われたのだとしたら厄介ね。ここで彼を匿うことは、ロンは賛成しないわよ、絶対」
「ああ……そうだな」
ベスを見送ってから、リックは自分のデスクについて考えを巡らせた。
ジョーンズを襲った犯人は、初めから彼を‘狩る’つもりで、このナイフを用意した。ジョーンズは慎重に暮らしてきた。その正体に気づく者はなかったはずだ――その犠牲者を除けば。
ナイフを逆手に持って、ジョーンズを襲った犯人の心境を推察してみても、彼の人柄の良さが先に立って上手くいかなかった。彼を襲う者があるとすれば、それはどんな吸血鬼の存在をも許さぬ硬派のハンターか、非情な快楽犯など、ジョーンズという人物を何一つ知らない赤の他人だろう。
或いは、何らかの不可抗力によって、そうせざるを得ない事情があったのか。
ナイフを置いた手でリックは額を抱えた。犯人はもう判明しているのだ――ただ、認めたくないだけで。
ロンとのシフトの引継ぎの後、リックは帰宅して休息を取り、夕方頃に出勤した。ジョーンズが襲われた一件について、ロンは何も言わなかった。その沈黙が全てを物語っていた。
日の入りの時刻を迎えてもジョーンズは目覚めず、リックは気付け薬として人肌に温めた血液製剤を彼の口に注いでやった。意識はないのに、喉が動いて液体を嚥下した。
薄暗い病室のベッドでジョーンズが目を開けたのは、丸々二ユニットを平らげた後だった。
「リック……?」
視界の覚束ないまま、彼は掠れた声で呟いた。
「ジョーンズ聞こえるか、リックだ。ここは病院だ。昨日の夜、君は誰かに襲われて、僕がここに搬送した。痛みはあるか?」
はっきりした口調でリックが訊ねると、ジョーンズは少し身体を動かし、すぐに力を抜いた。
「強くはないが……胸に違和感がある」
「背中から刃物で刺されたんだ。でも幸い急所は外れた。もしかしたら脊髄を損傷したかもしれないけど、君の回復力を信じてるよ。会社に連絡を入れてトラックは引き取ってもらったから、心配せずによく休んでくれ」
「……ありがとう」
リックがジョーンズの傷をチェックすると、傷口は既に塞がり痣が残るのみとなっていた。内部の治癒も着々と進んでいるのだろう。
「犯人に――心当たりはあるかい?」
診察を終えてから、リックは椅子に掛けて訊ねた。
しばらく考えてから、ジョーンズは口を開いた。
「あれはマイク……だったように思う。いや、あれはマイクだ。後ろから突き倒されて、声が聞こえた――ごめんなさい、と……それから背中に衝撃があって、痺れたようになって……それきり憶えていない」
「マイクが?」
驚いた声を出せたか、リックは心配になった。抵抗しなかったということは、ジョーンズも驚かなかったのかもしれない。
「あれから一度も会ってない。でも俺を狙ったのなら、何か理由があるはずだ。それとも彼の良心が、俺のような存在を許せないのかもしれない――人間の生き血を啜る怪物をな」
「ジョーンズ……」
「彼を責めないでくれ。俺が原因なのは分り切ってる。たとえ狙われたとしても仕方のないことだ。やっぱり潔く諦めるべきだった。無理に生き延びてみたところで、何も変わらなかったどころか、事態は悪化するばかりだ。――くそっ、どうして心臓を外したんだ」
うろたえて感情的になるジョーンズを、リックは初めて見た。大らかさで彼の右に出る者はいないと思っていたのに。
「リック、俺を――殺してくれ」
男の言葉にリックは一瞬凍り付き、すぐに首を振った。
「それはできないよ。僕は医療従事者で、君は患者だ」
すかさずジョーンズは訊いた。
「ロンならできるんだな」
「それは……」
リックは口篭った。――畜生、ロンならできるに違いない。
彼がいい噤んだのを、ジョーンズは肯定と取った。
「手遅れにならないうちに俺を殺して、マイクを助けてやってくれ。あいつは俺よりも若いし、将来もある。大学に行きたいと話してた。科学と数学を勉強するために、働いて学費を貯めているんだ。彼から未来を奪うことは、俺にはできない。頼む、マイクのためだ、俺の胸に杭を打ってくれ――」
思わず椅子から立ち上がってリックは言った。
「ジョーンズ、それが最善の方法だとすれば、僕はそうするべきだろう。でも、患者を死なせるようなことがあれば、僕は自分が許せない。どうか生きてくれ……」
それは励ましではなく、切実な願いだった。
もしここにロードがいたら、耳を疑うだろうか。それとも腹を抱えて笑い出すかもしれない。何しろハンターが吸血鬼を庇い、犠牲者がその主を襲い、吸血鬼は自らの胸に杭を打てと催促しているのだから。
「未練はないよ。俺は生きた――生きていた。いい人生だった……マイクをよろしくな」
「明日、日の出の時刻がタイムリミットだ」
オフィスで顔を合わせたロンが告げた。通信機越しに病室での会話を聞いていたのだろう。負傷した吸血鬼が処方薬で事足りるとは、ロンは端から信じていないのだ。
「待ってくれ、まだ誰が犯人か確証はないんだ。マイクがやったというのも、ジョーンズの記憶違いかもしれないし、それに――」
弁解しながら、リックはその愚かさを痛切に感じていた。吸血鬼に肩入れするなど、ハンターとしては言語道断である。ましてや犠牲者すら出している相手だ。
仮にジョーンズが極悪非道の最低な男だったとすれば、その決断に苦悩することもないだろうに。人を傷つけて血液を奪うことは犯罪でも、死んで吸血鬼となることに罪はないのだから。
「……情に絆されたか」
ロンが案じているのは、リックの正気ではない。人と人であった者の間で憂き目を見るのは、常にハンターなのだ。その覚悟がなければ、仕事を務めるどころか心身を壊してしまう。
どんなに遣る瀬無い思いを持て余そうとも、生死を巡る不条理をどこかで断つのがハンターの義務であり、使命である。たとえその先には悲劇しかないと知りながらも、胸に当てた杭に槌を振り下ろす屈強な信念と忍耐力が求められることを、リックも承知の上で選んだ道のはずだ。
「ああ、僕は失格だよ、ハンターとして――でも、助けたいんだ、ジョーンズもマイクも」
「ならば尚更だ。患者の意向を尊重してやれ。治療を優先させたがるのは医者のエゴだ。お前にできないなら俺がやる」
「ロン、これは僕の案件だ。せめて……せめて明日の昼まで処置は待ってくれ。まずはマイクの事情を知るべきだ。ジョーンズを襲った本当の理由を知ってからでないと」
主に抗えるだけの自由が犠牲者に残されている原因は、その意志が著しく強いか、主の呪縛力が弱いか、もしくはその両方だ。そして犠牲者が主に手向かう理由は、その呪いから逃れるために他ならない。
二度目の健診に訪れなかったマイクの容態は、リックの予想よりも遥かに悪いのかもしれない。ジョーンズの担当ナースが患者を手にかけねばならない心情を思い量って、彼が自らその役を買って出たのだとしたら。
その良心のままに、他者に委ねることさえ憚られる過酷な役目を果たさんとする、善意の塊――それは、吸血鬼ハンターの鑑ではないか。
翌朝、連絡先としてマイクが書類に記入していた住所をリックは訪ねた。彼の自宅は、よく手入れされた庭に囲まれた二階建ての一軒家だった。
訪問の口実は考えてあった。会社の健康診断の結果に気になる点があったものの、マイクが退社したため知らせることができなかった。そこで多忙なドクターに代わってアシスタントが様子を伺いに来たのだ。
リックを迎えたのは、予想通りマイクの母親だった。やや高齢の人の良い夫人で、スクラブを着たナースの突然の訪問に疑問も抱かず、彼を屋内へと招き入れた。観葉植物と手編みレースのカバーに覆われた家具に囲まれた部屋で、リックはテーブルと振舞われた紅茶を挟んで彼女と向き合った。
話を切り出したのは夫人の方だった。語り始めたのは息子の自慢話と、女手一つで彼を育てた母親の苦労話で、長期戦になりそうだとリックは内心焦った。何とか会話の流れを誘導して、マイクの近状について探りを入れた。
夫人によれば、マイクはつい先週、油の臭いに当たって体調を崩した折にバーガー屋のバイトを辞め、前に勤めていた会社に再就職したのだという。それが本当だとすれば、リックがここを訪ねる口実についた嘘が無駄になってしまうのだが、夫人は気づくこともなく、自ら学費を工面すべく仕事に精を出す優秀な息子を褒め称え続けた。
マイクは夫人に、その身に起こった不幸を何も伝えてはいないだろう。この深い愛情に満ちた母親が悲しみに暮れることを、彼が許すはずがない。
息子の居場所を訊ねると、彼は夜勤上がりで今は自室で眠っていると夫人は告げた。診断結果はプライベートなものなので、彼に直接伝えたいとリックが申し出ると、夫人はやや難色を示したものの、健康に関することならば仕方がないと、リックをマイクの自室前まで案内した。
夫人が何度ドアをノックしても返事はなかった。鍵はかかっておらず、夫人はドアを開けて中を覗いた。
「いやですわ、ぐっすり眠ってるみたいで――」
室内は異常に暗かった。窓にガムテープとダンボールの板で目張りがされている。嫌な予感がした。
リックは一言断ってから入室し、ベッドに横たわるマイクの頸部に指を当てた。
「マイク……」
呼びかける前から、彼が寝息を立てていないことにリックは気づいていた。脈拍はなく、唇を開くと、あってはならないものがそこにあった。
悲しみよりも虚無感が押し寄せた。彼は自分自身を救うために、尊敬するジョーンズを手にかけたのだ。
心優しいこの青年には、ハンターに元同僚を滅ぼす依頼などできるはずもなく、自ら杭に見立てたナイフを振り下ろす他なかった。リックがジョーンズを庇わなければ、マイクは救われていたのだろうか。
戸口で二人を見守る母親を振り向いて、リックは静かに告げた。
「落ち着いて聞いて下さい。彼はすぐに病院への搬送が必要です。どうやら――ええと――重大な呼吸障害が起こっているようです」
夫人は血相を変えて声を失った。マイクが既に息をしていないとは、彼女の前ではとても言えなかった。
「どうして――逝かせてくれなかったのですか」
その晩、地下の病室で目を覚ましたジョーンズは、傍らに立つリックを恨めし気に見上げた。
「君に聞かせたくなかったけど、正直に話すよ。君が死を選んだ理由は、マイクを救うためだ。でも今日、彼が手遅れだと判った。君を襲った時の返り血を口にしたのかもしれない。君が犠牲になっても、もうマイクを救うことはできないんだ」
ジョーンズは天井を見上げた。
「次に目が覚めるのは地獄だと思ったんだが――ここが、そうなのか」
「何だって? 君みたいないい奴が、地獄なんかに行けるものか」
否定するリックに、彼は不気味な薄笑いを浮かべてみせた。
「人間を襲う邪悪な存在だ。地獄に落ちて当然さ」
「だとしたら――これまでこの手で杭を打った人たちが地獄に行ったとするなら、僕もそうなるはずだ。君に杭を打てるようなら、ハンターだって地獄行きさ」
肩を落とすリックを見て、ジョーンズが起き上がった。
「リック、あなたは正しい事をしているだけだ。それに俺が何者に成り下がっても、人間として扱ってくれるし、信用すらしてくれる。感謝するよ――」
「僕がこんなことを言うのは無責任だし、軽蔑するだろう。でも――」
顔を寄せて、リックは呟いた。
「逃げちまえよ。お願いだ、そうしてくれ……」
ジョーンズは破顔して答えた。
「気持ちは有難いが、できないよ、リック。あなたを裏切りたくないから――」
熱い血の通うリックの手を握り締めて、ジョーンズは頷いた。
「――何もかも、上手くいくように祈ってるよ」
退院後、ジョーンズはその行方を眩ませた。
それは彼の会社からシティ・ホスピタルに連絡があって判明した。勤勉な彼が仕事を無断欠勤するはずがないと、伝を辿って彼を探していたのだ。
会社の連絡から二日後、今度は警察からリックに連絡があった。ビルの屋上で変死体が発見され、シャツの胸ポケットからリックの名刺が見つかったというのである。
早朝、リックは遺体の確認のため現場に赴いた。誰かが死後半年以上が経過した死体をそこへ運んで、新しい衣服を着せた上で頭を撃ち抜いたとするには、あまりにも不自然だった。リックの一言で、警察は無駄な捜査を省けるかもしれない。つまり吸血鬼が関わっていたとの確証が欲しい訳だ。
見覚えのあるシャツを着た死体の肌には、全身に渡って火傷のような痕が残されているのが辛うじて判別できた。彼は夜明け前、手にした銃で自らの頭を撃ち抜いて朝を迎えた。
自殺――いや、彼は額をリボルバーでぶち抜いただけだ。致命傷になどなるものか。彼を真の死へと導いたのは日光なのだ。
一年前に決別したはずの太陽が、杭に代わって彼の最後の望みを聞き届けた。
リックは頭を垂れて祈りを捧げた。
死を経ても尚、彼は最期まで誠実に生き切った。神の情けを請うには、それで充分ではないか。
予約時間通り、マイクが特殊咬傷科の病棟を訪れたのは八時だった。午後である。
業務用トラックの免許を取得したマイクは、ジョーンズの死から半年が経った今、その後を継いで同じ廃棄物処理業者のドライバーを務めていた。大学受講の夢は諦めた訳ではない。そのうち折り合いをつけて、夜学で学位を取るつもりだ。
こなれたジーンズとジャケットの青年を、リックは病室へと迎え入れた。よく喋りよく笑う彼にマスクは不要だ。厄介な牙は歯科医院で削ってもらった。それでも今日は尖った犬歯がやや目立っていた。著あおいうしお。定期的な処置が必要なのだろう。
一ヶ月ぶりの健診にも、彼は相変わらずの愛嬌のある笑顔を見せた。
「今日も一パック持っていくかい?」
問診を終えたリックが訊ねた。
「はい、助かります――」
輸血パックを受け取り立ち上がったマイクに、リックが声をかけた。
「ああ、待ってくれ。もう一つ、訊きたいことがあるんだ」
「何ですか?」
リックは椅子の傍に立ったまま切り出した。
「先週の金曜日、仕事を休みはしなかったか?」
「それは――ええ、寝過ごしたんで、そのまま体調が悪いことにして、休んじゃったんです」
「一晩中、家にいたのかい?」
「ずる休みしちゃいました」
マイクははにかんだ笑みで答えた。
「それじゃあ、ショッピングモールの向かいにあるドラッグストアには、行っていないんだね」
「どこへ、ですか……?」
ふと笑顔が消えた。
「残念な知らせがあるんだ。そこで喉に傷のある犠牲者が発見された。傷と君の歯型が一致したんだ」
「それは……」
言葉は出てこなかった。既に全てを把握されていると悟ったのだ。
マイクは崩れるように椅子に腰を下ろした。
「何も考えられなくて、気づいた時にはもう……女の人が倒れているのを見て、怖くなって家に引き返したんです」
すぐに彼は自供した。罪悪感はあったのだろう。
「店に立ち寄ったのは、買物のためかい?」
「はい。事務所の職員の一人が誕生日だって聞いたので、カードを買いに……彼女は無事ですか?」
「命に別状はないよ。経過も今のところは良好だ」
安堵と不安の入り混じった表情を浮かべて、マイクが訊いた。
「僕はどうなりますか?」
リックは穏やかに告げた。
「今夜は、このままこの部屋に留まってもらうよ。でも、君が明日の夜を迎えられる保証はできない。何かあれば、ナースコールをしてくれ。できる限り君の力になるよ」
打ちのめされたように硬直したマイクを残して、リックは速やかに病室から立ち去った。
「待って――」
閉じられたドアの向こうからマイクが呼び掛けた。
「助けて……殺さないで……」
力なくドアを叩く音が次第に小さくなっていくのを聞きながら、リックは通路の壁に腕を持たせかけてうな垂れた。
マイクを患者として受け入れる際、彼の歯型は採ってあった。彼が犠牲者を出したのは紛れもない事実だ。
それに彼は治療方針の記された書類にサインをしている。即ち、一度でも人間を襲った患者は、犠牲者ではなく吸血鬼として扱われ、人間としての一切の権利を放棄したものと見なされる。双方の同意の上での処置ではないか。
たとえリックができなくても、ロンが成し遂げるだろう。昼間、眠る死体の胸に杭を打つだけだ。それだけで、この不死の病は完治するのだから。
いつの間にか、傍らにロードが立っていた。
「――無駄だと言ったろう。与えられた血の紛い物を啜って存える位なら、日光に飛び込む方がよほどましだ」
ああ、そうだ――リックは思い出した。
干乾びた脳漿の大半を失ったジョーンズは、それでも朝日の中で微笑んでいたっけ。
Feb. 2021
シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉: 猫と鼠の鬼ごっこ
https://heartdelsol.com/works/novel/swd04.htm
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