シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉

あおい うしお

狩人の笑み Hunting Smile

目次
  1. ***
  2. ***
  3. ***
  4. ***
  5. ***
  6. ***

 特殊咬傷科では月曜日を外来受診の定休日としている。それでもシフト交代でロンかリックのどちらかは常にオフィスに待機できるようスケジュールを調整し、必要とあらば徹夜や休日出勤も辞さない。
 日暮れ頃から容態が悪化し、救急外来に駆け込んだ患者が、この病棟に移送されることもある。夜のシフトを受け持つリックは、今夜も閉店間際の売店で夕食を購入し、病院棟のロビーからの長く入り組んだ通路を歩いてオフィスに戻った。夏の金曜夜の市街の活気も、外界から孤立したこの病棟には無縁のものだ。
 コーヒーを淹れていると、オフィスのドアがノックされた。二日ぶりの、深刻な被害妄想を抱えていなければ四日ぶりの来訪者である。
 ドアを開けてリックは面食らった。それは少年であった。絵本を卒業したくらいの年頃だろうか。
 多くの独身男性がそうであるように、リックは子供嫌いではないが、取り分けて好きという訳でもなかった。関わらないに越したことはないとはいえ、このまま追い返す訳にもいかない。
 「どうしたのかな、僕? 迷子になったのなら、ロビーまで送っていくよ。誰かと一緒だったんだろう」
 見たところ、小児病棟の患者ではなさそうだ。少年を待たせて警備員を呼ぶよりも、自分で送り届けた方が手間と時間を省けると判断して、リックはオフィスを出た。
 「――ここ、何?」
 カラフルなスニーカーに歩幅を合わせて歩き始めるや否や、さっそく少年が口を開いた。そらおいでなすったと、リックは心中でごちた。
 「ここって、この病棟のことかな?」
 適当にあしらいながら先を急ぐ。
 「ここは変わった傷を診たり治したりするための場所なんだ」
 「変わったって、どんな風に?」
 「そうだな……こう、咬まれたり……」
 「咬まれたり? 犬とかライオンとかに?」
 「まあ、そんなところだ」
 「縫ったりするの? 手術したり?」
 「いや、僕は医者じゃないからな。でも人間に咬み付くような、危険な奴らを放ってはおけないだろう」
 「じゃあ銃でそいつらを狩るんだね」
 少年は目に見えないショットガンを構えて、廊下の先に数発を放った。
 「ねえ、今までに何を狩ったの? 頭を切って壁に飾ってる?」
 リックは吹き出しかけた。記念品(トロフィー)か。なんて斬新なアイディアだろう。
 「僕たちは銃は使わないんだ」
 「じゃあどうやって殺すの? ナイフ? 弓矢?」
 階段を上って一般病棟の通路を更に進み、ようやくロビーに差しかかった。普段は絶え間なく人が行き交うそこも、閉院後の今は靴音さえ耳につくほど静かだ。
 「君のお母さんは――」
 少年が指差すよりも先に、子供のバックパックを手にしたナースが駆け寄ってきた。頭上で髪を纏めた女性だった。
 「クリス! ここで待ってなさいって言ったじゃない。この病院は広いから、すぐに迷子になるのよ」
 母親はリックと彼が首から提げた職員カードを見た。彼女のカードには正看護師(RN)とあった。
 「どうもありがとう。えっと……」
 「リックです。特殊咬傷科の」
 「特殊――何?」
 「特殊咬傷――いいんです、小さな部署ですから」
 「ごめんなさい、まだこの病院には勤め始めたばかりで。あなたも仕事上がり?」
 リックはワイシャツに濃いグレーのスラックス姿だった。
 「いえ、これから夜勤です――では、よい夜を」
 「あら、勤務中だったのね? 持ち場を離れさせてしまって……」
 「気にしないで下さい――じゃあな、僕。もう迷子になるんじゃないぞ」
 無言の少年を肩越しに振り返り、リックは強い後悔の念に駆られた。
 これを最後にはさせない――少年の目が、そこに満ちる好奇心がそう語っていた。

 オフィスに戻り、コーヒーと共にデスクに着いたリックは、短い祈りを捧げてから夕食に取りかかった。
 チキンラップをあらかた食べ終えた頃、再びドアがノックされた。まさか、という疑念がもたげたのも束の間、ドアを開けるなり男が緊迫した様子で飛び込んできた。
 「助けてくれ――咬まれた」
 リックよりも若いであろうその男は、左手で右の首筋を押さえていた。ライダー・ジャケットの下の衣服が襟元を中心に大きく裂けている以外に、目立った外傷は見られない。
 「しくじった……罠にはめられたんだ……」
 リックは男のスリング・バックパックから、あるものが覗いているのに気づいた。‘ロッド’――彼はハンターなのだ。
 ベスをステーションから呼び出し、リックは男を近場の病室に案内した。彼はマイルズと名乗り、この病棟に駆け込んだ経緯を手短に説明した。
 ある女性から妹を救って欲しいと依頼を受け、彼は待ち伏せた標的の後を密かにつけてその寝所を暴いた。翌朝、その‘死体’を処理すべく向かった先で彼を待ち受けていたのは、空の塒と電子的に細工された扉の罠だった。©れでぃそるみな。文明の利器やITの恩恵を受けているのは、何も人間だけではない。通信機器の電波も遮断されていた。
 逃げ道を断たれたと知った彼は無念の一日を過ごし、夜の訪れと共に牙を持つ青年の来訪を受けた。それは彼の標的ではなかったが、その犠牲者となり、吸血鬼となった今もその主を慕う従者であった。夜に吸血鬼を迎え討つなど、人間には到底不可能だ。
 主を狙った罰として、男は拷問よりも口づけを選んだ。それがハンターを自覚する者に最も屈辱を与える方法だと知っていたのだ。血こそ吸われなかったものの、解放されたマイルズはその足で特殊咬傷科のあるこの病院に向かった。
 同業者に救いを求めることは、この職種に限っては決して恥ずべき行為ではない。ただ一度の口づけが招く深刻な事態を知り得るからこそ可能な選択であり、それ故に、彼が生半可な決意でその道を志した訳ではないと知れる。ハンターを自称する輩は意外にも多いものだが、くだらない名誉やプライドを貫いて標的に襲われた挙句、手遅れとなり狩り立てられて殉職するハンターも珍しくないという。
 マイルズは暗闇の中で彼を襲った青年について、身の丈は六フィート弱、巻き毛、そして袖の隙間から一瞬、数字のようなタトゥーが見えたが、数は覚えていないと話した。そして脇に下ろしたバックパックからメモ帳を取り出し、中の数ページを破いてリックに手渡した。
 「日暮れまでに俺が書いたものだ。依頼者の連絡先と標的についてメモしておいた。これからの俺の話よりは信用できるだろう。これ以上、俺から話を聞かない方がいい。それから――」
 マイルズはバックパックから抜いたロッドを差し出して告げた。
 「必要とあらば、いつでも使ってくれ」
 それは彼自身に、という覚悟の意思表示であった。 
 「その必要がないように、力を尽くすよ」
 ロッドを受け取ったリックは彼の咬傷を検め、カートを押して現れたベスに場所を譲った。
 簡単な傷の手当てを行い、破れたシャツを脱がせて病院着を手渡すベスを見上げて、不意にマイルズが呼びかけた。
 「あんた――」
 臙脂色のスクラブと白いハイネックのインナーを着たナースを、マイルズは怪訝な眼差しで見つめた。胸にクリップで留めた職員カードにはエリザベスと名が記され、役職は上級看護師(NP)となっていた。
 「……いや、なんでもない」
 マイルズは首を振った。
 「悪いな、疲れているらしい」
 看護助手のリックが医師と同等の権限を持つベスに処置を命じたことが、彼を困惑させたのかもしれない。
 「もしかして、昨日から何も食べていないんじゃないのか?」
 「そういえば、そうだな……」
 リックの言葉に、マイルズは力なく頷いた。
 「ベス、彼に何か食事を用意できるか」
 「グラノーラバーとアップルソース程度なら」
 「マイルズ、後の事は任せて、まずは何か食べて朝まで休め」
 ベスを残し、預かったロッドを手に、リックは病室を後にした。

 翌朝、珍しくスクラブを着込んだリックは、病院の搬送車を借り出してマイルズの仕事の依頼者である女性を訪ねた。
 洒落たコンドミニアムの自宅で彼を迎えた会計士の女性は、リックが事情を話すと、二階の客室のベッドに寝かされた妹の元に彼を案内した。
 「セシリアは義理の妹で、実家で一緒に暮らしていた事もありましたけど、私が大学寮に入ってからは殆ど付き合いもなかったんです。母が亡くなってから私を頼ってきて、今は仕方なく家に置いているのですけど、私には夫もいますし、正直なところ迷惑で。高校を中退してから、仕事もせずに遊んで暮らしていたらしいの」
 厚いベッドマットと上掛けに包まれて眠る若い女性は、明るいオレンジ色に染めた髪を思い切ったショートヘアーにしていた。片側の眉と唇にはピアスをしている。周囲に点在する私物の中には煙草の箱やエナジードリンクの缶も見受けられる。やつれた顔は、貧血だけが原因ではないのだろう。
 「この頃、あまり出歩かずに寝込むようになって、変な店で新しいタトゥーでも入れて感染症に罹ったんじゃないかと思っていたら、同じ頃に教会関係の方からマイルズさんのお話を伺って、相談することにしたんです」
 キャミソールを着た首元、右の喉には、同じ間隔で刻まれた三対の咬傷があった。
 リックが二日前のセシリアの様子を訊ねると、姉は肩を竦めた。
 「私、昼間は仕事でいなかったし、夜は夫とディナーに出ていたから、家で何があったのか知らないのよ。何もしなくていいって言われていたし――マイルズさんはお気の毒に。外で待ち伏せしていたみたいですけど、私が帰宅した頃にはもういなかったわ。セシリアもここで眠っていたし」
 木製のブラインド越しの二階の窓からは、ブロック塀に囲まれた敷地と裏通りが見下ろせた。大型のごみ収集箱や低木の茂みもあり、身を隠すには申し分のない立地である。
 「セシリアを襲った相手については、心当たりはないのですね?」
 「ええ、いつもどこで何をしていたのか見当もつかないわ。どんな人たちと付き合っていたのかも。家の鍵は渡しているけど、何日も戻らないこともあったし」
 「それと――腕に数字のタトゥーを入れた若い男に心当たりはありませんか?」
 「さあ、それも分らないわね。男も何人もいたみたい。彼女に直接訊いた方が早いんじゃないかしら」
 セシリアの入院をリックが提案すると、彼女は即座に承諾して患者の移送に同意した。数枚の書類による短い手続きの後、豹柄のボストンバッグに全て収まった身の回りの品と共に、眠るセシリアは搬送車のストレッチャーに乗せられた。
 「――病気なら仕方がないわね。治ってあんな生活に戻るよりも、神様に召されてしまった方が幸せかもしれないけど」
 最後にそう告げて、彼女は二人を送り出した。妹に預けていた家の合鍵は、彼女の手の中にあった。
 帰りの運転の席で、リックは姉の言葉を思案した。神がセシリアを召し上げるのではない。吸血鬼に魅入られることは、まさしくその正反対の意味を持つ。
 不老不死であろうとも、吸血鬼は神ではない。ましてや神を狩る権利など人間にはないのだから。

 「――やあ、マイルズ。昨日はよく眠れたか?」
 セシリアを地上階の十六号室に収容したリックは、クリップボードを手に地下一号室のマイルズを訪ねた。遅い朝食を終えたばかりの彼は、早くも昨夜の憔悴ぶりから回復していた。
 体温や血圧等を計測しながら、形式的な問診を行う。バイタルに大きな変化は見られなかった。
 「今はな」と、マイルズが忠告した。「いつ始まるかは分らない――今夜かもしれない」
 「心配するな、今日はロンも来る。名前くらいは聞いたことがあるだろう」
 「ああ、だからここを頼って来たんだ。尊敬してるぜ――会ったことはないが」
 標的やセシリアについては互いに一言も触れないまま、リックは診察を終えた。
 「何か他に、僕にできる事はあるか?」
 去り際のリックに、マイルズは一つ頼まれて欲しいと告げて、バックパックのポケットから鍵束を取り出した。毛の擦り切れた兎足(ラビットフット)がぶら下がっている。
 「俺のバイク、病院の入口の前に停めたままなんだ。まだあれば、差し支えのない場所に移動してほしい」
 「ああ、もちろんだ」
 鍵束を受け取り、リックは退室した。
 彼のバイクは既に警備員によって撤去されていたものの、リックが担当者に事情を話すと、バックヤードから駐車場に移動するよう取り計らってくれた。
 午後になるとロンが出勤し、二人は今回の二重の案件について話し合った。
 セシリアをここに移動した以上、その主は遅かれ早かれ必ず現れるだろう。ロンの見立てによれば、相手はセシリアに強い執着を持ち、それ故に数日の合間を置いて少量の吸血を繰り返している。また、マイルズを襲った青年が彼を操り、その来訪を手助けする可能性が高いということだった。
 セシリアの主については、その姿を目撃したマイルズのメモに記されていた。それはブロンドに小麦色の肌をした女性で、腕力や脚力など身体能力が並外れて高い。都心のダウンタウン界隈で青少年を誘惑する姿を何度か目撃されているというが、マイルズの追跡の試みも失敗に終わり、その寝所の所在は尚も不明のままだ。
 発信機を忍ばせて塒を暴く方法は、標的が複数存在する場合、その成功率は著しく低下する。もし追跡を感知されれば、彼らは速やかにレーダーの捕捉範囲外に移動し、用心して毎晩その寝所を変えようになる。マイルズのケースのように逆にハンターを出し抜く手段にさえなり得るのだ。
 ロンと共に様々な対応を検討し、今後の方針と大まかな作戦を立ててから、リックは遅い昼の休憩を取るためにオフィスを出た。
 ドアを開けると、そこには予期せぬ客人が待ち構えていた。
 「クリス、また迷子か」
 「まあね」
 バックパックを背負った少年は、得意気にリックを見上げた。子供は学校にいる時間のはずだと訝しんだのも束の間、リックは今日が土曜日であることを思い出した。
 「悪いけど、仕事中なんだ。今日は警備員を呼ぶよ」
 「ねえ、お兄さんヴァンパイア・ハンターなんだろ? 話を聞きたいんだ」
 リックはまたも面食らった。仕事内容については一言も触れていないはずだ。
 「どうやってヴァンパイアを探すの? どこで訓練したの? どうやったらハンターになれるか教えてよ。僕もハンターになりたいんだ!」
 「――何のハンターになりたいって?」
 背後から無愛想な声が聞こえた。振り向くと、ロンが戸口に立っていた。
 「ヴァンパイア・ハンターだよ。おじさんもそうなの? これまで何人と戦ったの? すごく強かった?」
 「おまえには向いてない」
 ロンに否定されても、クリスは童心を盾に食い下がった。
 「なんで? 大人にならないと銃を使えないから? 大丈夫だよ、杭とハンマーは使えるもん」
 「なら聞くが、なぜハンターになりたいと思った。格好いいからか?」
 「うん」
 「それなら尚更だ。格好いい仕事がしたいのなら、ハリウッドスターにでもなることだ」
 「でも人を守ったり助けたりするんだろ」
 「それなら警察になれ。その男のように医者やナースでもいい」
 「でも……悪い奴らをやっつけるんだろ。なんで僕じゃ駄目なの?」
 「悪いことは言わん――やめておけ」
 口を尖らせるクリスに、ロンは冷たく言い放った。その言葉を、かつてリックは耳にしたことがあった。
 涙を堪えているのか、押し黙るクリスの手を引いて、リックは通路を歩き始めた。ロビーの手前で彼を探していた母親を見つけるなり、クリスは駆け寄って彼女に抱きついた。
 「クリス――?」
 「すみません、うちの科長に叱られたんです。子供が気軽に遊びに来れるような場所ではない、と」
 「ああ、昨日はごめんなさい。特殊咬傷科の事、同僚に聞いたの。耳慣れなくって……」
 「案内板にもウェブサイトにも載っていませんから。あまり公にはできない仕事ですし」
 「あの、まだ仕事中かしら? 私はもう上がりなの。よかったら外で一緒に食事でもいかが。クリスがいるから、バーガーでもよければ、お礼におごらせて」
 「いいですね。僕もちょうど休憩を取ろうと思っていたところで」
 「昨日名乗ったかしら――私、ジェシカ。リック、だったわよね」
 「ええ、そうです」
 二人は握手を交わした。

 病院の表通りを挟んだファースフードのチェーン店は、昼のラッシュアワーを過ぎる頃だった。
 窓際のテーブルを挟んで母子と向き合ったリックは、手を組んで無言の祈りを捧げてからバーガーの包みを開いた。
 「もしかして健康志向だった? カフェテリアでも良かったんだけど、もう飽きてるかと思って」
 ベーコン入りの分厚いバーガーを食べるジェシカの隣で、クリスがピクルスを取り除いたソース塗れの手でチーズバーガーを頬張っている。
 「いえ、こういうのも偶にはいいですね。僕は毎日、売店のサンドイッチかチキンサラダで」
 「カフェテリアは利用しないの?」
 「夜のシフトで仕事をしてると、大概は営業時間外で」
 「そうだった――私も前の職場では緊急治療室(ER)勤務だったからよく分るわ。遅くまで帰れないし、明け方まで残業することもあって、クリスのベビーシッターを探すのが大変だったの。離婚を期にこっちに引越して――探してた外来の職が見つかって。朝は八時からで閉院したら帰れるでしょう。日曜日は休めるし。それにこの病院、ボランティアがやってる託児所があって、子供の学校が終わった後、宿題を手伝ってもらえるのよ」
 「ここへ来る前は、どちらに住んでいたんですか?」
 「前は海の近くに住んでいたの。港があって――」
 「ここは海がなくて寂しいでしょう」
 「それが、ぜんぜん。別れた夫を思い出さなくていいわ。彼、釣りの事しか頭になくって。結婚した頃は、クルーザーで海に出たりして楽しかったんだけど、でも、だんだん気づいたの。彼は私とデートがしたかったんじゃなくて、釣りがしたかっただけなのよ。さして大きくもない魚を得意気に抱えて、私に写真を撮れっていうのよ――馬鹿みたいな笑顔で。それに私、魚って生臭くって嫌い」
 ドリンクのストローを咥えたジェシカは、フィッシュバーガーを口に運ぶリックの手が一瞬止まったのを見て、慌てて付け加えた。
 「ああ、フライになってたらいいの。生の魚が嫌なだけ」
 クリスの口元をナプキンで拭い、ジェシカはリックに向き直った。
 「ねえ、よければあなたの話も聞かせて。実は同僚に特殊咬傷科の話を聞いたとき、初めは冗談かと思ったの。でも……」
 「僕の仕事の話は、聞いても気持ちのいいものではありませんよ。交通事故の急患の話を、彼の前ではしないでしょう」
 リックの視線の先で、クリスがむっとした表情で呟いた。
 「僕そういうの平気だよ。血とか怖くないもん」
 「クリスにあなたの病棟の事を訊かれたから、吸血鬼に襲われた患者を助けるのよって話したの。そうしたら、あなたがヴァンパイア・ハンターだと思ったみたいで。映画とかゲームの影響かしら。でもあなたはナースなのよね――危険な仕事なの?」
 食べ終えた包みをトレイに乗せて、ジェシカが訊いた。
 「普段はそうでもありませんよ。患者の世話をするだけですから。でも精神科の患者が医者を襲うことはあるでしょう」
 「でも、その――それだけじゃ、治らないんでしょ?」
 「そういう仕事はロンが――うちの科長が引き受けますから」
 「僕あの人嫌い」
 キッズミールの玩具を手で弄びながらクリスが言った。
 「ちょっと、クリス――」
 息子を窘めるジェシカに、リックは笑いかけた。
 「いいんです、僕も好きで一緒に仕事をしている訳ではありませんから。腕は確かで、信頼はできる人ですが」

 日が暮れる頃、リックはロンと共に十六号室を訪れた。
 二人が見守る中、目を覚ましたセシリアは、身を起こして周囲を見回した。
 「やあ、驚かなくても大丈夫だ。僕はリック、そっちは相棒のロン。ここは病院で、君は今朝、ここに運ばれたんだ」
 「姉貴、厄介払いできたって喜んでたろ?」
 「そんなことは――」
 「いいんだ、嘘なら聞き飽きてる。姉貴は正直だけが取り得なのさ」
 せせら笑うセシリアに、リックは訊ねた。
 「どうしてここに運ばれたかは、分るかい?」
 「ああ、こいつのせいだろ」
 セシリアは首元に手を当てた。
 「助けてだなんて一言も頼んだ覚えはないけど」
 「そういう訳にもいかないんだ。君を助けようとした男も巻き込まれてしまってな」
 「馬鹿な奴」
 彼女は視線を背けて呟いた。
 「まあ、そう言うなよ。それで、君はそのキスの相手を知ってるのかい? 彼女はただの恋人じゃないようだね」
 「さてな。女と付き合うのは始めてだったから、刺激的ではあったかな」
 「聞いたところによれば、君だけをパートナーにする気はないらしいけど……」
 「あたしだって、彼女が最初じゃない。四人で寝たこともある――妊娠のテストもしておく?」
 「彼女とまた会う予定はあるのかな?」
 「どうかな。あの人はあたしよりも気まぐれなんだ」
 「じゃあ、最後に訊くよ。君はこの先、どうなることを望んでる?」
 「別に。なるようになればいいさ」
 セシリアは肩を竦めた。無頓着ではなく自暴自棄だ。
 「そうか――ありがとう」
 そこへベスが夕食のトレイを運んできた。
 「悪いけど、しばらくここに留まってもらうよ。何か必要な物があれば、できる限り用意する。まずはディナーを食べて、考えておいてもらえるかな」
 「へえ、餌はもらえるってわけ」
 「食べることを強制はしないよ。でも君の彼女も、君にはよく食べてもらいたいと思ってるんじゃないかな」
 セシリアは用意されたパンとシチューのトレイを見下ろした。

 次いで二人は階下の一号室に向かった。
 「これは――ギルバートさん、ですね。光栄です」
 マイルズはベッドの上でロンと握手を交わした。
 「日が暮れたぞ。調子はどうだ?」
 リックは診察をしながら訊ねた。地下の病室には窓も時計もない。彼の携帯電話だけが時間を知る手掛かりだ。
 「何も変わらないな。しいて言うなら、少し冷えるか」
 「それは僕も感じるよ。どの病棟もそうなんだ……体温も血圧も正常値だな。ディナーの前に少し話をしよう。君を襲った相手について、率直な意見を訊きたいんだ」
 傍らの簡易椅子に掛けて、リックはマイルズと向き合った。壁際でロンも耳を傾けている。
 「それは犠牲者としてか、それともハンターとしてか?」
 「どちらでも構わないよ。君の言葉で聞かせてくれ」
 「犠牲者としてなら――正直なところ怖い。自分の行動を制御できなくなるかもしれないと思うと」
 「何か感じるのか?」
 「いや、今のところは何も。ただ――もやっとしてるんだ。フラストレーションってやつか。俺のミスのせいだ。昨日もあの野郎に杭を叩きこんでやりたかったんだが、うっかり眼を見ちまってな――体が動かなかった」
 マイルズは予期せぬ敵の出現に怯んだのではない。多くの吸血鬼が、その眼差しによって相手の自由を奪う催眠術のような能力を有し、これは邪視や邪眼などと呼ばれている。吸血鬼と遭遇した犠牲者が、悲鳴ひとつ上げずにその命令に従ってしまうのはこのためであり、彼らと視線を合わせながらその暗示に逆らうには、並ならぬ精神力を要する。ロンのような熟練のハンターならば、相手を直視せずに対面する術を心得ているものだ。
 「奴らと顔を合わせるのは初めてだったのか?」
 「塒を暴くのが専門でな。渡り合うことは考えてなかった……以前はそうでもなかったんだが」
 「君の感では、その青年はここに現れると思うか?」
 「いや、俺の血はあいつにとって大した価値はないだろう。だが‘元’主への思い入れ具合からすると、復讐を目論むことはあるかもしれない」
 「それだよ」と、リックが指摘した。「吸血鬼が吸血鬼を主として慕っているのか?」
 「吸血鬼化してまだ間もないのだろう」
 腕を組んだロンが口を挟んだ。
 「感情的に行動するのは餓鬼の証だ。そのうちに乳離れして知恵をつけてくる。早めに対処した方がいいな」
 「このままだと俺はあいつの下僕か、下手すりゃミイラ取りだ……畜生」
 マイルズは罵りながらベッドに倒れこんだ。
 「ここにいる限り、君は安全さ。家族はいるのか? 副業もしてるんだろう」
 ハンターの収益だけで生計は立てられないことを、リックは知っていた。
 「家族はいない。田舎に親父がいるが、昔から反りが合わなくてな。仕事は――本業はバイクの修理屋なんだ。そうだ、俺のバイクはあったのか?」
 「ああ、バックヤードから駐車場に移動してもらったよ。違法駐車の罰金はなしだそうだ――おっと、鍵をオフィスに忘れたらしい」
 「いいんだ、ここを出るまで預かってくれ」
 病室を訪れたベスに夕食の用意を任せて、ロンとリックはオフィスに戻った。
 リックは深夜前と明け方近くにも回診を行い、ロンと共に万全の体勢で病棟の内外をモニターしていたものの、その夜は何も起こらないまま夜明けを迎えた。
 シフト上がりのロンとベスを見送り、朝の回診でマイルズもセシリアも眠っているのを確認してから、リックもオフィスのカウチで仮眠を取った。
 朝はハンターだけでなく、犠牲者にとっても心休まる時間だ。それは、自然を超越した彼らの主にも従うべき定めがあることを、少なからず感じ取っているからかもしれない。

 「心細いものだな、犠牲者ってのは。周囲から疎外されたみたいで」
 日曜日の午後、回診に訪れたリックにマイルズは告げた。
 「そんなことはないさ。コールボタンを押せばすぐに来るよ。僕でよければ話し相手にもなるし」
 クリップボードを脇に置いて、リックは簡易椅子に掛けた。
 「そりゃありがたい。この仕事を始めてもう六年になるが、今回の事ですっかり自信をなくしちまってな」
 「危険は承知で仕事を請け負ってたんだろう。殺されなくてよかったじゃないか」
 「まあな。しかし、その結果がこれだ――実感はないが」
 「相手の干渉が薄い証拠さ。もっと悪い例はいくつも見た――君もそうだろう」
 「ああ。背中にある傷はな、フォークで刺されたんだ」
 それがジョークでないことは、彼の表情を見れば明らかだ。主との関係の維持を望む犠牲者にとって、ハンターほど疎ましい存在はない。彼らは主のためとなればその手段を選ばず、油断したハンターに襲いかかることも多々ある。フォークではなくナイフや銃であったらという自問は尽きないだろう。
 「ディナーにされるところだったのか」
 「進んでディナーになりたがる連中だ。幸い、俺はそんな気にはなれんが……」
 「それはよかった」
 「なあ、あんたはどうしてこの仕事をするようになった? ナースとはいえ、あんたも杭を扱うことはあるんだろう」
 「僕はロンに弟子入りしたんだ。彼に恩があってね。仕事はみんな彼に学んだ」
 「そうか――俺は独学でやってきたからな。ガキの頃からハンティングが趣味でな。大会で賞を取ったこともあるんだぜ」
 リックはオフィスのデスクに置いた鍵束を思い浮かべた。あの兎足は本物か。
 「鹿や熊を撃つために、シーズンごとに各地を巡っていたんだ。海外にも行ったよ。アフリカやアジアさ。遠征は金がかかるから、すぐに止めたんだが……そのうちに、動物じゃ物足りなくなってな」
 「それで、吸血鬼を?」
 「動物は自然保護だの絶滅だのと風当たりが強いんだが、吸血鬼なら誰が狩ろうと文句は言われねえからな。むしろ喜ばれる、人助けだってな。ルールのないスポーツみたいなものさ。俺は標的との駆け引きが好きなんだ。この小説はハートデルソルドットコムからコピーされたものです。道具を揃えて、向こうの出方を読んで、作戦を練って――猟場が限定されてない分、あいつらは最高の標的だった」
 そして、ついに彼は敗北したのだ。
 「一つ訊いていいか」
 身を乗り出してリックは訊ねた。
 「何だ?」
 「吸血鬼の記念品(トロフィー)も集めているのか?」
 「ああ」
 マイルズはさも当然のように告げた。
 「首は落とすが、もらうのは耳だけだ……残れば、な」

 夕方、リックはセシリアの回診に向かった。
 既に目を覚ましていた彼女は、窓辺の椅子に掛けて暮れゆく街を眺めていた。リハビリ病棟の向こうに、交通量の多い通りの交差点が見える。
 「やあ、窓の景色は気に入ってもらえたかな」
 一瞬、来訪者を振り向いただけで、セシリアは何も答えなかった。
 「一人きりにして悪いな。調子はどうだい? 体温と血圧を測定しても構わないかな?」
 無表情で窓の外を眺めたまま、セシリアは腕を差し出した。リックは素早く診察を済ませた。
 「いいよ、ありがとう。もう少しでディナーの時間だ。食欲はあるかい? 何か食べたいものがあれば言ってくれ」
 「……別に」
 夕映えの名残を見送ってから、セシリアは口を開いた。
 「何を食べても同じさ。噛んだ後で呑み込む以外は、ガムと一緒」
 「そんなことはないさ。君には君が食べるものを選ぶ権利がある」
 少し考えてから、セシリアは窓の外を指差した。
 「じゃ、あれ――」
 視線の先には、ストリップモールの並びに入るピザ屋の看板があった。
 「ピザか。いいな――味は?」
 「ぺパロニ抜き」
 「分った、待ってろよ」
 そう言い残して病室を後にしたリックは、三十分後、三段に重ねたLサイズのピザ箱とドリンクのカップを抱えて戻った。
 「ひどい混み様だった――九つの種類のピザを詰めてもらったんだ。ひとつ位は、気に入る味があるさ」
 「これ、全部あたしに食べろっていうの?」
 サイドテーブルに積み上がった箱を見下ろして、セシリアが呆れたように言った。
 「好きなだけ食べればいい――もちろん、シェアしてくれるなら、喜んでいただくけど」
 リックがベッドの上に並べて蓋を開けた箱から、セシリアは手を伸ばしてハワイアン・ピザを千切り取り、一口かぶりついてから告げた。
 「……食べれば」
 「ありがとう」
 ベッドの端に腰を下ろし、手前の箱から取った一切れに向かって僅かに頭を垂れてから、リックはピザの相伴に与った。その姿を見て、セシリアが咀嚼しながら訊いた。
 「何それ、お祈り?」
 「まあな」
 「キリスト教徒なの」
 「神に祈った訳じゃないんだ」
 「じゃ、何に祈ったの?」
 「ピザにさ」
 セシリアの口が止まった。再び動き出したとき、そこには苦笑があった。
 「馬鹿みたい」
 「僕もそう思ってた」
 食べ残した耳(クラスト)を箱の隅に放り投げ、二枚目のスライスを取りながら、セシリアは訊ねた。
 「じゃ、なんで?」
 「うん、それはだな――食べる事は、馬鹿な事じゃないからさ。噛んだ後で呑み込まないと、僕らは生きていけないだろ」
 「ピザを信仰してるってわけ」
 「こいつを食べてる間は――そういうことにしておこう」
 最後の一口を食べ終えたリックは、ドリンクにストローを挿してセシリアに手渡した。
 「コークでよかったか」
 「――ん」
 空いた手でカップを受け取ったセシリアを残して、リックは立ち上がった。
 「じゃ、僕はこれで失礼するよ」
 「待てよ――」
 セシリアは慌てて口の中のピザを呑み込んで呼び止めた。
 「あたし、こんなに食えないよ。もう少しで終わるから、残りは全部持ってって」
 「分った、少し待つよ」
 壁際の椅子に腰を下ろして、リックはセシリアが四枚目のピザを食べ終えるまで、その様子を眺めていた。
 「――姉貴がさ、いつもピザの味を選んでた。親はあたしの好みなんてどうでもよかったんだ。――継母だったの」
 食後、セシリアはコークを啜りながら、広げたピザ箱を片付けるリックに呟いた。
 「だからピザなんて嫌いだった」
 箱を抱えたリックは、ドアの前で振り返った。
 「次に君がピザを頼む時は、先にメニューをもらってくるよ」
 セシリアはストローを咥えたまま頷いた。

 持ち帰ったピザは、他所の診療科の職員パーティーのお下がりという名目で、ロンとマイルズに振舞われた。患者用の夕食のカートを遥々押して現れたベスだけは、機嫌を損ねてステーションに引き返し、残りは夜食としてオフィスの冷蔵庫に押し込まれた。
 その夜もロンとリックはオフィスに詰めて病棟を監視していた。
 十一時頃、一号室からナースコールがあった。リックが病室を訪れるなり、マイルズはベッドから身を起こして訴えた。
 「悪い予感がする……セシリアが危ない」
 「危ない? どう危ないんだ?」 
 ベッドからやや距離を置いてリックは訊ねた。
 「分らないが……何か危険が迫ってる。誰か上の階を見張った方がいい」
 「待てよマイルズ、セシリアは姉の所にいるはずだろう。何で上の階なんだ?」
 「あんたが――運んで来るのを見たんだ。あれはセシリアだったんじゃないか?」
 マイルズは病室のドアの小窓を示した。
 「ああ、そうだったのか。それで君のハンターの感が、彼女が危ないと告げてるんだな」
 リックは頷いて、職員カードと共に首から提げている通信機を口元に寄せた。
 「ロン、聞こえるか――十六号室の様子を確認に行ってもらいたい」
 「……了解」
 通信機が答えると、マイルズはリクライニングベッドに倒れこんだ。
 「感謝する。――どうも不安でな、居た堪れないんだ」
 「安心しろ、マイルズ。君もセシリアも必ず守るさ」
 微笑んで語りかけながらも、リックはセシリアを搬送したエレベーターが一号室よりも手前に設置されていることを知っていた。この病棟では電話やインターネット通信にも制限を設けている。セシリアが収容された事実をマイルズが知り得たはずがないのだ。
 その頃、病院棟の緊急外来のエントランスに、野球帽とジャケットのフードを深く被った若い男が現れた。ポケットに手を突っ込み、駐車場と病院のポーチをしきりに往復する青年を見兼ねて警備員が問いかけると、自分が送ってきた恋人とその両親を待っているのだという。恋人は心配だが、身内ではない彼は気が咎めて院内に入る決心がつかないのだ。
 待合室にいる分には問題ないだろうと入口を示す警備員の親切を辞退して、彼は駐車場に戻った。そのまま病院の裏手に回り、適当な窓から院内へと侵入する。防犯センサーや警報機の類は作動しなかった。
 外来患者の受付も病棟の面会時間もとうに終了している。見舞い客やボランティアもいない閑散とした通路を、青年は夜勤のナースの目を盗んで目的の病棟へと向かった。男が特殊咬傷科に差し掛かっても、リックは一号室でマイルズの相手をしており、尚悪いことにロンをセシリアの確認に向かわせたばかりだった。
 通路の突き当たりの階段を上り、難なく十六号室に辿り着く。施錠などものともせずに、屋内用にしてはかなり厚みのある扉を抜けて、彼は壁際のランプに照らされたベッドに近づいた。
 ブランケットを跳ね除けるまでもなく、それが空であることはすぐに判明した。振り向くと同時に室内に青紫色の照明が点灯し、彼の鼻は異臭を感じ取った。喉を押さえて床に崩れ落ち、喘ぎながら胸を掻きむしる。
 人工の紫外線は吸血鬼に致命傷を与えはしないが、目の視神経を刺激してパニックを引き起こすという。エアダクトから大蒜の粉が散布されているのは言うまでもない。
 この時、一号室ではマイルズの容態が急変した。高熱を出し、呼吸が苦しいとベッドの上でもがくマイルズに、いつの間にか待機していたベスが酸素吸入器を装着し、解熱剤と鎮静剤を投与した。リックは深刻な面持ちでその様子を見守っていた。
 十六号室では、青年が出口を求めて床を這い進み、よろめきながら窓辺で立ち上がった。しかし、厚い強化ガラスが透明な壁と化してその前に立ち塞がると、彼は窓の粉砕を諦めて廊下側のドアに向かった。
 肺と気管を焼く灼熱の空気からの救いを求めて彼が伸ばした腕の先で、ループ状のハンドルに触れた指は、すぐに引き戻された。何度同じ動作を繰り返しても、まるでドアが赤熱した鉄の表面と化したかのように、彼には触れることができないのである。
 吸血鬼が川や海を嫌悪するのは、流れ水が死を超越した彼らの魔力を奪ってしまうからとされる。病室のドアとハンドルに埋め込まれた送水管には水が満たされ、噴射ポンプによって高圧の水流となって内部を循環している。彼がドアに接触している間、その指先は制御の及ばぬ死肉の断片と化すのである。バスルームのドアにも同様の仕掛けが施されていた。
 突如密室と化した病室で、逃げ道を断たれた青年は再び床に倒れ伏した。このまま悶え苦しみながら朝を、そして滅亡を待つしかないのだ。充血した眼に尚も燃え滾る憎悪を湛えながら、彼は紫外線の降り注ぐ冷たい床をのたうった。
 オフィスのコントロールデスクのモニターで一部始終を見届けたロンは、耳に装着した通信機に話しかけた。
 「――気をつけろ」
 声を聞いたリックの目の前で、鎮静剤の作用で動けないはずのマイルズが不意に起き上がった。酸素吸入マスクを外してリックの顔を見据える。
 「……セシリアはどうした?」
 先刻の容態など嘘のように、落ち着き払ったマイルズが静かに訊いた。
 「さて、上の階じゃないのか。どうしてだい?」
 リックは壁際に寄せた椅子に掛けており、ベスもその隣に控えていた。
 「分らねえ……急に、会って話をしたくなった」
 表情を失ったようなマイルズに、リックは穏やかに語りかける。
 「悪いけど、君をこの病室から出す訳にはいかないんだ。もちろん、セシリアもな」
 「だろうな……」
 項垂れたマイルズの体は、小刻みに震え始めた。
 「どうした、マイルズ?」
 椅子に掛けたまま、リックが訊ねた。
 「き……聞くな……」
 食いしばった歯の間から、マイルズは声を絞り出した。
 「苦しいのか?」
 「分る……だろ……」
 彼は内側から湧き上がる不可解な衝動に抗おうとしているのだ。リックもマイルズも、それが犠牲者が主の精神に同調することで起こる現象であることは知っていた。主が犠牲者を求める時、犠牲者もまた主を求める。それならば今、十六号室に捕らわれた男の胸にあるものは何だろう。
 徐にマイルズが顔を上げた。その表情は憎悪に歪んでいた。
 「落ち着け、マイルズ。それは君の感情じゃない」
 リックが語りかけても、彼の目に浮かんだ残忍な敵意は消えなかった。
 「分ってる……だが体が言うことを聞かねえ……」
 怒りに全身を戦慄かせながら、マイルズは次第に息を荒げていった。
 「話せば少しは楽になるかもしれない。遠慮なくぶちまけろ」
 マイルズは乾いた唇を舐めた。
 「おまえを……狩りてえんだ……ここに俺のライフルがあれば、迷わずぶち込んでやるんだがな……」
 「僕を?」
 脅迫紛いの告白に、リックは驚くこともなく耳を傾けていた。
 「この距離なら絶対外さない……その女ごと並べて飾ってやるぜ……いい剥製屋を知ってるんだ……」
 眉を寄せたベスの隣で、リックは尚も穏やかに語った。
 「マイルズ、自分が今、何を話しているか、冷静に考えてみろ」
 「俺はいつだって冷静さ」彼は嘲るようにリックを見た。「狩りは頭脳戦なんだ。標的を定めたら戦略を立てて追跡する。最後に追い詰められた獲物をこの手で殺(や)るんだ……堪らねえぜ……」
 男は声を上げて笑った。
 「本能なんだよ。何万年も狩猟で命を繋いできた人間の遺伝子にそう刻まれてるのさ。狩って生きる。狩らなければ狩られる。狩られなくてもいずれは死ぬ。死が早まるか遅れるか、それだけの事さ。全ての生物がその摂理の中で生きてるんだ。人間だけが特別だとは俺は思わないぜ」
 声も高らかに、マイルズは語り続けた。
 「野生動物が絶滅を気にかけていると思うか? 動物に順位をつけて保護する権利が人間に与えられているとでも? 奴らは獲物に情けなんてかけねえ。狩りたい時に狩りたいものを狩る。その欲求を満たすために――何が悪い?」
 「君らしくないぞ、マイルズ」
 「狩りはいい……知ってるだろ、おまえもハンターなんだ。生まれながら、人は求めてるんだ……獲物を追い詰める喜びを……息の根を止める瞬間の興奮を……その命が、俺のものになるんだ」
 恍惚の表情を浮かべる男に、リックは告げた。
 「確かに僕はハンターだ。でも、この仕事を楽しいと思った事は、一度もないんだ」
 「嘘をつくな!」
 憤怒の形相でマイルズは叫んだ。
 「今も上の階で追い詰めた獲物を甚振っているはずだ。愉しいだろう。夜が明ければ、杭を打ち込める――お前の勝ちだ」
 「何の話をしているんだい、マイルズ?」
 あくまでも穏やかな応答を通すリックに、マイルズは苛立ちを募らせていった。
 「しらばくれるな、医者の振りをした卑劣なハンターめ――すぐに俺をここから解放しろ!」
 その声と口調は次第に別人のものへと転じていった。それは警察官に食って掛かる非行青年のようだった。
 マイルズはベッドから降り立ち、リックに詰め寄った。間に入りかけたベスを止めて、リックは話し続けた。
 「さっきも言っただろう、君をここから出すことはできないって」
 「なら俺がおまえを殺して出ていく」
 「セシリアを連れていくのか?」
 「そのつもりで来たが、‘彼女’を危険に晒すような奴は死んだ方がましだ。セシリアを使って誘き出す算段なんだろうが、おまえらを殺った後でセシリアも殺してやるよ」
 「いいのかい、その‘彼女’は喜ばないと思うけどな」
 今にもリックに掴みかかろうとしていたマイルズの気迫が、不意に揺らいだ。
 「おまえに彼女の何が――」
 「知ってるかい、今、上に彼女が来ている事を。君とセシリア、どちらの出迎えだろうな?」
 今しがた耳の受信機に聞こえたロンの言葉を、リックはそのままマイルズに伝えた。
 「窓の外を見てみろ。向かいの病棟の上だ」
 マイルズの眼が動いて病室の奥の壁を見た。地上の十六号室では、仰向けに倒れて痙攣する青年の視線が、同じ軌道を辿って窓の外に向けられた。
 星のない夜空を背景に佇んでいるのは、長いブロンドを湛えた女の姿だった。肩を出したジャンプスーツを纏うその女は、二階建てのリハビリ病棟の屋根の淵から十六号室を見下ろしていた。
 人間の夜目では判別できぬ距離を隔てていても、青年には彼女が笑みを浮かべているのが見えた。コピーライト、はーとでるそるどっとこむ。そして、首を振って背後の暗闇へと身を転じたのも。
 その瞬間、絶望に打ちひしがれたように、青年の眼から感情の炎が消えた。最後の気力も尽き果てたのか、その姿は二度と動くことはなかった。
 「‘ルルー’……」
 呟きながら崩れ落ちるマイルズを支えて、リックは気を失った男をベッドに横たえた。
 「――危険でした」
 カートを引き寄せながらベスが言った。
 「ああ、僕もそう思った。でも、少しは彼を信じてやりたかったんだ……狩りは人間の本能だとさ」
 残りの処置をベスに任せて一息ついたリックは、通信機を口元に寄せた。
 「ロン、終わったらしい」
 「了解」
 一号室の様子も同時にモニターしていたロンは、知らせを受けるなりオフィスを出て、病棟の入口付近に設置されたエレベーターに向かった。
 ボタンを押して扉が開くと、そこにはセシリアの眠るストレッチャーがあった。青年の侵入を察知して、予め眠らせてここに隠されていたのだ。
 セシリアは十四号室に移され、深夜過ぎに目を覚ましてプティングとクラッカーの夜食を摂った。リックの診察にも応じた。一方のマイルズは、そのまま朝まで目覚めることなく眠り続けた。
 日の出を待ってからロンが十六号室に出向き、青年の死体を処理した。胸に杭を打つために脱がせたジャケットの下の腕には、無限記号を象ったタトゥーが刻まれていた。数字の八に見えないこともない。
 朝、連絡を受けて訪れた警察が侵入者の死体を回収した後で、リックはマイルズの病室を訪れた。
 「ひでえ夢を見た気がするぜ……」
 頭を抱えながら起き上がるマイルズに、リックは話しかけた。
 「やあ、マイルズ。調子はどうだ?」
 目が覚めると、マイルズは首元に指を這わせた。そこには滑らかな肌があるだけだった。
 「――終わった、のか」
 「君の案件についてなら、そうだ」
 リックは彼の鍵束とロッドを差し出した。
 「退院だ。おめでとう」
 マイルズは頷いて受け取り、足のある鍵束を見下ろした。
 「ここ二日間、ベッドで考えていたんだがな……ハンターを辞めようと思う」
 「この仕事を?」
 「ハンティング全般をさ――だが、セシリアの件が片付いたらな」
 「それなら、僕とロンで何とかするよ。彼女の姉の依頼も正式に受けてる」
 「俺にも手伝わせてくれ。最後の仕事だ」
 病院着の上を脱ぎ捨て、マイルズは立ち上がった。
 「申し出は有難いが、ロンが許さないだろうな……」
 「それなら俺が直接交渉する。今、オフィスにいるのか?」
 「夕方まで戻らないだろう」
 「待たせてもらってもいいか」
 「それは構わないが……病室の鍵は開いてるから、自由に出入りしてくれ。退院の手続きのスタッフを遣すよ」
 マイルズは礼を告げてリックを見送った。

 その日の昼過ぎ、クリスは病院前でスクールバスから降りた。学年末のテスト週間で、今日から短縮授業が実施されるのだ。
 託児所のある棟に向かう生徒たちと別れて、クリスは病院棟のメイン・エントランスに向かった。大きなバックパックを背負ってロビーに駆け込んで来た少年を、受付係の女性はカウンター越しに笑顔で迎えた。
 「まあクリス、病院で走るなんて!」
 「ごめんなさい――ママいる?」
 「ジェシカなら今日はステーションにいるはずよ。呼び出しましょうか?」
 「ううん、大事な紙にサインがいるだけなんだ。邪魔にならないようにすぐ戻るよ――夏の遠足の事なんだ」
 言い終える前に、クリスは病棟に繋がる通路へと歩き出していた。受付係や警備員の扱いは、幼い頃からよく心得ていた。子供じみた言動を前面に押し出していけば、大概は成功する。
 母がERで勤務していた頃、たとえ息子といえどその職場に近づくことは許されず、クリスは寂しい思いをしたものだった。けれど彼女が心臓血管外科のナースとなって診察室と病棟を行き来する今では、見舞い客に紛れて母を訪ねたり、短い会話を交わす程度ならば大目に見てもらえる。
 とはいえ、クリスの今回の目的は母ではなかった。吸血鬼やハンターの仕事については、ネットやゲームで予習済みだ。後は実戦での手順や実際の経験談を知る必要がある。科長のおじさんは手強いが、あのリックというナースならばまだ見込みがあると踏んで、クリスは母との約束を冒して特殊咬傷科への潜入を試みたのである。
 二度の往来ですっかり憶えた道筋を辿り、彼は迷うことなく地下のオフィス前に辿り着いた。
 高鳴る胸を落ち着かせて、腕を伸ばしてドアをノックをする。反応はなかった。
 不在であるとは信じたくなかった。クリスが何度もドアを打ち鳴らしていると、隣室のドアが開いて見知らぬ男が顔を覗かせた。ライダー・ジャケットの下には引き締まった裸の胸があった。
 「どうした坊主、オフィスには誰もいないぞ」
 「お兄さん誰? ここの患者?」
 「いや、俺は仕事を手伝うためにここで待ってるんだ」
 「仕事って、ヴァンパイア・ハンティング?」
 クリスの顔が目に見えて輝いた。
 「よく知ってるな」
 「ねえ、仕事のこと教えてよ。僕、ヴァンパイア・ハンターになりたいんだ!」
 マイルズには、話をせがむ少年の願いを断る理由はなかった。殊に時間を持て余している今は。
 「ああ、いいぜ――何が聞きたいんだ?」

 朝の回診の後、一度帰宅して休息を取ったリックは、食事と身支度を済ませてから午後に出勤した。
 病棟のオフィスに向かう途中、マイルズの病室から話し声が聞こえた。リックは開け放されたドアから中を覗き、マイルズと楽しげに話し込む少年を目に留め、思わず声をかけた。
 「――クリス!」
 「あ、リック……」
 マイルズと並んでベッドに腰掛けていたクリスは、ばつが悪そうにリックを見上げた。
 「ロンに見つかったら、また叱られるぞ」 
 「いいんだ、もう話はいっぱい聞いたから」
 ベッドから飛び降りたクリスは、バックパックを背負った。
 「もう行くよ。ありがとう、マイルズ」
 「おう、頑張れよ、クリス」
 廊下を駆けていく背中を見送ってから、リックはマイルズに詰め寄った。
 「おい、クリスに何を話したんだ」
 「色々とな」
 「あの年頃の子供と話す時は気をつけた方がいい。何を吹き込まれても信じて疑わないし、実際、何でもできると思い込んでる――たとえ駄目だと分っていても、自分で痛い目に合わない限り、それがいけない事だと気づけないんだ」
 「無邪気でいいじゃないか。悪知恵なんてまだ働かないだろうし」
 「それが悪いんだ。考えるよりも先に行動が立つ。そうやって誰も想像さえしてみなかった事をやらかすんだ」
 「ハンターになりたいそうだ」
 「すぐに飽きて、別の目標を見つけるさ」
 オフィスに着くと、警察からの連絡が入っていた。タトゥーの青年の検死結果とその身元が判明したという報告だった。
 彼は地元の高校を卒業後、就職のためにこの地方を訪れ、下宿先から蒸発して半年前に捜索願が出されていた。知人の話によれば彼には悪い友人ができて、ダウンタウンのクラブに入り浸っていたという。死体は死後二ヶ月前後と断定された。
 数時間後、出勤したロンにマイルズの希望を伝えると、彼はにべもなくその申し出を却下した。リックが予想通りの回答を告げに向かうと、マイルズの病室は既に空だった。この文章は、ハートでるソルどっとコムから複製されました。手荷物も持ち去られている。
 「あいつ――あんたに断られると分って、一人で対処するつもりなんじゃないのか」
 オフィスに戻ったリックは、ロンにマイルズの退院を報告した。
 「何が起きても、あいつの責任だ」
 ロンは告げた。

 間もなく日が暮れ、二人はセシリアの病室に向かった。
 「やあ、セシリア……暗いな」
 点灯せず、窓のカーテンも閉じられたまま、セシリアはベッドに横たわっていた。
 リックは壁際のランプをつけて、ベッドの傍らに椅子を寄せて掛けた。ロンは定位置であるドアの横に立った。
 「どうした、なんだか元気がないみたいだ」
 「別に……」
 セシリアはぼんやりと呟いた。
 「今夜のディナーはどうする?」
 「いらない。食欲がないんだ……無理に食べると吐くし」
 リックは素早く体温と血圧を測定した。平均値を下回っていた。
 「寒くはないか。温かい飲み物くらいなら、どうかな?」
 セシリアは無言で首を振った。目の横に光るものがあった。
 「……寂しいんだろう」
 涙を流すセシリアに、リックが語りかけた。彼女が最後に主と会ったのは四日前のはずだ。
 「でも間違いない――今夜、必ず来るよ」
 答えず、セシリアは虚空を見つめ続けた。

 ロンと今夜の計画を確認しながらオフィス前に着くと、ジェシカが慌てた様子で駆けて来た。
 「リック! ここにクリスが来なかった?」
 「三時頃に見かけたよ。ここで今日退院する患者と話し込んでたんだ。その後、一人で戻っていったけど……」
 リックはドアの開け放された一号室を示した。マイルズが去った後、清掃はまだ済んでいない。
 「困ったわ。託児所に迎えに行ったら、今日は来てないっていうの。でも受付の人が会ったっていうし――」
 病室に入ってベッドの下を覗くジェシカに続いて、奥を確認に向かったリックの足が何かを蹴飛ばした。
 拾い上げると、それは兎足のミイラのぶら下がった鍵束だった。マイルズのものだ――彼はまだ院内にいるのだろうか。
 「病院の中で迷子になっただけならいいけど、もし外に出ていたら……」
 「警備員には知らせたのか」
 「まだだけど――」
 戸惑うジェシカと共に、リックは病室を出た。
 「僕もこの病棟の中を探してみるよ。もし見つけたら、すぐに――」
 そこへ小刻みの足音が聞こえ、探していた少年が通路の角から現れた。
 「クリス!」
 一目散に走ってくる我が子の姿を目に留めるなり、ジェシカは飛び出した。
 「クリス――心配していたのよ!」
 しかし、少年は母親の抱擁を振り解き、リックの前に進み出た。
 「マイルズが――マイルズが吸血鬼の女に捕まっちゃったんだ! ねえ、マイルズを助けてよ――」
 息を弾ませながら、クリスが震える両手で差し出したのは、マイルズのロッドだった。
 リックが肩越しに振り向いた先で、ロンが舌打ちした。
 「――あいつの責任だ」
 「違うよ!」
 涙ぐみながら、少年は必死に弁解した。
 「僕が最初に捕まったんだ。マイルズは僕を助ける代わりに……」
 彼は進んで人質となったのだろう。元を辿れば、クリスの行動の切欠を作ったのもマイルズなのだが、相手が子供ではなくハンターを選んだのは、下僕を滅ぼされた私怨を晴らすためかもしれない。
 吸血鬼が犠牲者以外の人間に手を出すことは稀である。それが自衛を意図したものか矜持によるものかは定かではないものの、其々が何かしらの節度を持って行動しているらしいのである。建造物の破壊は避けるとか、銃器は扱わないとか、そういった規律や自制心を保ち続けることで、彼らはその野生的な衝動との折合いをつけているのかもしれない。
 人質を取って脅迫するというのは、言ってみれば卑劣な手で、己のプライドや危険すら顧みない主の、犠牲者への強い執着を示している。彼女は昨夜の青年の末路も目撃していたはずだから、病棟に近づくことを警戒しているのだろう。
 「クリス、君はこの病棟を離れた後、どこにいたんだい?」
 腰を屈めて、リックが訊ねた。
 「屋上だよ。そこなら見えるかもしれないって、マイルズが言ってたから……」
 「何? 何を見ようとしたの――?」
 クリスの告白に、ジェシカが口を挟んだ。
 「今夜ここに、吸血鬼が現れるとマイルズが漏らしたんだろう。あいつはその女を狩るためにここで待機してた。クリスはその対決を見物するつもりだったんだ。――二人はまだ上にいるのか?」
 「うん」
 クリスの頭に手を置いて、リックは言った。
 「ありがとう、クリス。今夜はジェシカと一緒に家に帰るんだ。それから、二度とこの病棟に来ちゃいけないよ」
 無言で頷き、彼は母の抱擁に身を預けた。
 リックは立ち上がってロンを振り返った。
 「僕が行こう――セシリアと交換するための人質なら、殺しはしないだろうが……」
 「下まで誘い出せるか」
 受信機を耳に装着しながらロンが聞いた。
 「やってみる。交渉次第だろう」

 病院棟の屋上へは、最上階の階段から誰でも自由に出入りできる。
 高いフェンスが四方に張り巡らされた空間は、職員や入院患者の息抜きの場として解放されているものの、併設された空調設備の室外機の騒音のせいで、喫煙者を除き利用する者は殆どいない。
 それでも五階分の高さからの眺めは結構なもので、緩やかに傾斜した敷地内のほぼ全ての施設が見下ろせる。周囲の棟はどれも平屋か二階建てで、平らな屋根の随所に換気口やダクトが突き出している。地上では独立したように見える特殊咬傷科の病棟は、一見したところでは小規模の倉庫(ストレージ)のようだ。
 常夜灯が点灯する頃、リックは屋上の扉を抜けた。既に空は蒼く暮れていた。
 コンクリートで覆われた床の片隅に、その女はこちらに背を向けて蹲っていた。
 リックの到着に気づいて顔を上げ、立ち上がって振り返ると、振り乱したブロンドが生暖かい風になびいた。血の気のない小麦色の肌に映える、赤く濡れた唇を舐める。
 その足元に、ジャケットを肌蹴たマイルズが両足を投げ出して座りこんでいた。首元から鮮血が筋になって落ちた。
 「マイルズ!」
 呼びかけると、彼は頭をもたげてリックを見た。
 「俺は無事だ……咬まれちゃいねえって意味なら……」
 女は切り裂いた喉から血を舐め取っていたのだ。咬む、という行為がなされない限り、たとえ吸血されても真の犠牲者とはならない。それでも失血のショックで死に至る可能性は充分にある。
 「私の望みは分るな。セシリアが欲しい。できなければ、この男は骸の壁として横たわることになる――その土台としてな」
 並の男どころか女さえはっとするような、美しいハスキーボイスだった。
 「……分った」
 リックは冷静に応じた。
 「でもセシリアをここまで連れて来ることはできない。かなり弱ってるんだ。今夜もディナーを口にできなかった……あんたに会えなくて寂しいって、すすり泣いてたよ」
 「おお、可哀想なセシリア――」
 大袈裟に嘆いて空を仰ぐ女に、マイルズが吐き捨てるように呟いた。
 「よく言うぜ、昨日の坊やは見捨てたくせに――ぐっ」
 立ち上がりかけたマイルズを、女の回し蹴りが薙ぎ倒した。
 「下の病棟の外まで迎えに来てもらえるな。そこでセシリアと彼を交換しよう」
 「いいだろう」
 リックの提示した条件を、女はあっさりと聞き入れた。リスクを承知の上で、尚もセシリアを奪う自信があるのだろう。
 「だが、あまり遅いと、この男が干乾びてしまうぞ」
 女は地に伏せたマイルズの首根っこを片手で掴んで持ち上げ、掲げた喉元に舌を這わせた。
 「おい、あんまり痛めつけるなよ」
 「息があれば文句はあるまい」
 リックの視線も構わず、女は滴る血を舐め上げた。
 「用意をしてくる。後でな、マイルズ……死ぬなよ」
 踵を返したリックの背中に、苦しげな声が届いた。
 「努力するよ」

 十五分後、二つの病棟と渡り廊下に囲まれた特殊咬傷科の中庭に、リックと彼に伴われた病院着のセシリアが立った。
 暗がりから現れた女は、照明に照らされた芝の緑を踏みしめながら近づいた。二人の二十フィートほど先で立ち止まる。
 「ルルー、あんた、ここに来ちゃいけなかったんだ。絶対に罠だよ……」
 セシリアが声を上げた。
 「おい、マイルズはどうした」
 リックが訊ねると、ルルーと呼ばれた女は、腕を掲げて斜め上を指差した。リハビリ病棟の上でマイルズが腕を振っているのが、地上から届く光で辛うじて見えた。屋上にはメンテ用の足場しかないはずだから、彼女が連れていったのだろう。何ということはない。五階分の外壁を梯子も使わずに登った女だ。
 「あの通り、男はまだ生きている。おかしな真似をすれば、すぐにでも叩き落としてやる。セシリア、おいで……」
 リックの合図も待たずに、セシリアは覚束ない足取りで中庭を横切った。
 「会いたかった……」
 駆け寄る姿を両腕で抱き止めて抱擁を交わすと、ルルーはセシリアの頬にキスを落とし、細い喉元に顔を埋めた。セシリアが小さく呻いた。
 すぐに顔をあげて、ルルーはセシリアを見下ろした。
 「今夜は顔を見に来ただけだ。ここは私たちには危険すぎる」
 「待って……」
 縋り付く腕をそっと両手で押し退けて、ルルーはリックを睨んだ。
 「あの男は借りていくぞ。セシリアはしばらく預かってもらう」
 「何だって――?」
 驚くリックとセシリアを残し、女は僅かな助走をつけて一跳びで病棟の屋上へと舞い上がった。マイルズを抱え上げるなり、闇夜の暗がりへと走り去る。
 「どうした、何が起きたんだ?」
 耳の受信機がロンの声で問い質した。中庭の様子はオフィスからモニターしているはずだ。
 「分らない……セシリアは無事だ。代わりにマイルズを連れていったぞ」
 ルルーの飛び上がった地点には、芝生にヒールが食い込んだ状態で彼女の靴が残されていた。周囲にガムよりも粘着性の高い微小な発信機が撒かれていたのを読まれていたのだろうか。或いは、誰かがその可能性を彼女に示唆したのか――。
 リックは呆然と立ち尽くすセシリアを十四号室のベッドまで送り届け、傷と体調のチェックをした。血液の喪失はごく僅かで、セシリアはベッドに横になるなり、すぐに眠りに落ちた。穏やかな寝顔だった。
 地下へと引き返す途中、リックはロンと合流した。ジェシカとクリスは既に帰した後だ。
 なぜ主が犠牲者ではなく人質を連れ去ったのか、二人は意見を取り交わした。
 「マイルズが上手いこと言い包めたのか? 一人で狩る自信があるとか……あの分じゃ無理だろうけど」
 リックは最悪の事態を思い浮かべた。いくら現役のハンターとはいえ、彼が裏切る可能性がないとは言い切れない。
 長年吸血鬼と対峙していれば、彼らの身体能力や強靭な肉体、老いや病の苦しみから解放された姿は、否応なく目の当たりにすることになる。ふと人間として生きることを放棄したくなる心情に駆られたとしても、なんら不思議はないのだ。
 「マイルズが寝返るなんて――今朝、ハンターを辞めると宣言したばかりなのに」
 それとも、人間を辞めるの聞き違いだったか。
 オフィスに入ると、ロードが中央のカウチに陣取っていた。
 「ミイラ取りがミイラか……そんなミイラにお目にかかったことはないがな」
 「ロード……」
 リックが呟いた。今日は月曜日である。本来なら特殊咬傷科は定休日で、ベスは休暇を取り、そしてロードが現れる。
 「ミイラ取りになりかけた、哀れなハンターがいたそうではないか」
 「今朝、退院したよ――するはずだった。子供をかばって、別の主にさらわれたんだ。元はあいつの案件だった」
 「それで、おまえたちを裏切ったと?」
 「それは分らないし……信じたくはない」
 デスクの椅子に掛けて、リックは頭を抱えた。マイルズの胸に杭を打ち込むなんて――冗談じゃない。
 「おれなら迷わずキスの相手を連れてゆくがな。飽きて恋人を乗り換えたのかもしれんぞ。はたまた命も顧みず狩りの囮となったか――とすれば、大した男ではないか」
 「今回の件を最後に引退するらしいぜ――」
 リックはデスクの上のフォルダを脇に寄せた。マイルズのカルテを棚に収めるには、まだ早いだろうか。
 「――リック、あいつの病室は確かめたのか?」
 空のコーヒーカップを手にしたロンが振り返って訊いた。
 「ああ、荷物も引き払って――いや、そういえば……」
 ポケットに手を入れると、パサついた短毛が指に触れた。マイルズのキーホルダーである。
 兎足は幸運のお守り(ラッキー・チャーム)だ。しかし、狩られた獲物が狩人に幸運をもたらす事などあるのだろうか。
 「なんだそれは?」
 「マイルズのバイクの鍵だ。ベッドの脇に落ちていて――待てよ」
 落としたのではなく、わざとそこに置いたのだとしたら。
 リックは慌ててオフィスを出て病院棟の駐車場に向かった。バイクは一台しか見当たらなかった。
 彼の愛車よりも一回り大きな車体には、見慣れないメーターが搭載されていた。エンジンをかけると、すぐにそれが探知機であることが分かった。
 さらに発信機の反応があった。二つのポイントが重なり、移動している。もちろんそれらは――
 リックはエンジンを切った。すぐにも追うことはできる。けれど今はまだ、その時ではない。朝を――獲物が眠る時間を待つのだ。確実に狙える時を、虎視眈々と待ち続ける。
 マイルズなら、賢いハンターなら、そうするはずだ。

 夜明けと同時にマイルズのバイクに跨ったリックは、探知機の追跡システムを手掛かりに隣街のダウンタウンを目指した。
 レーダーに捕捉された発信機の反応は二つ。十マイルほどの距離を置いてどちらも静止している。リックは地図に照らし合わせた近場のポイントに向かった。
 整然とビルの建ち並ぶビジネス街が薄明の中で朝の訪れを待つ傍ら、荒廃の影に沈む旧市街には、既に人の生活の息づく活気があった。早朝から営業する個人商店や屋内モールには、一目で貧民層と知れる雑多な客が集っている。
 そんな下町の景色を横目に、リックはメインストリートを折れて奥まったブロックに進入した。人気のない、空き店舗と閉じたシャッターの目立つ一角でバイクを降りる。
 古びれたビルの一階にナイトクラブが入っていた。看板はなく、廃業したと見まごうばかりのエントランスを掲げながらも、防犯柵に閉ざされたドアの向こうの店内には、僅かな明かりが灯っている。
 侵入を試みれば、当然リックは何かしらの罪に問われることになる。人間を保護すべき法律が吸血鬼を守る最後の砦になるとは、皮肉なものだ。
 リックは街の警察署に勤める、ロンの知人の刑事に連絡を取った。五分も経たず、派遣された警察官が到着した。
 誘拐された患者が監禁されている可能性があると事情を説明すると、間もなくビルの管理人と連絡が取られ、すぐに当人が現れて格子とドアを解錠した。テナントとは契約があるだけで個人的には何の繋がりもないと捲くし立てる男を残して、リックは懐中電灯を手にした警官と共に陰気な店内に足を踏み入れた。
 古き良き時代を思わせる上品な内装のそこは、しかし、当時の盛況を何一つ留めてはいなかった。バーカウンターの奥に僅かに並んだ酒やグラスを割れたランプが照らす様は如何にも退廃的で、怠惰に流されて来た客を持て成すのに誂え向きの居場所を提供していた。
 煙草と麻薬の煙が焚き込まれた壁は剥がれ、くすんだ絨毯の続く店内には、チップの代わりに空の酒瓶が点在するゲームテーブルが並んでいる。(C)レディそるミナ。革張りのカウチの脇の灰皿には、まだ新しい吸殻が積み上がっていた。
 どれもこれも骨董品であるが、埃が積もることはなく、やけに生々しい使用感が染み付いている。ここはセシリアのような若者たちが夜ごと集い、慰め合う溜まり場となっていたのだろう。タトゥーの男もこの店の常連だったに違いない。そして、ルルーはその中心たる存在であった。
 警官の後に続いて奥の階段を降りると、地下はこぢんまりとしたホールになっていた。夜ごとの煌びやかなショーが催されず久しいそこは闇に閉ざされ、崩れ落ちた壁の装飾や廃材に半ば埋もれていた。
 暗い虚無に満ちた空間を懐中電灯が照らすと、ステージの一角に人影があった。ダンスポールの根元に、マイルズが全裸で蹲っている。
 「マイルズ……生きてるか?」
 慌てて駆け寄って声をかけると、消え入りそうな声で返事が返ってきた。
 「あ、ああ……畜生、散々楽しんでいきやがった」
 マイルズは光に目を瞬かせながら、蒼白となった顔を上げた。無数の切り傷が、その全身に血を滲ませている。彼は後ろ手にかけられた手錠でポールに繋がれていた。
 「セシリアは発信機を飲まされてると吹き込んでやったのさ」
 瞼を閉じて、マイルズは微笑を浮かべた。
 「それで君を……」
 「あいつは奥にいるはずだ。ストリップショーを拝ませてもらったぜ――勿体ねえが、所詮はミイラさ」
 警官にマイルズの解放と救急車の手配を任せて、リックはホールの脇の通路を奥へと進んだ。整然と並んだドアは、楽屋かVIPルームであったのだろう。
 白い柱と布張りの壁に囲まれた小さな一室で、ルルーは壁際の寝椅子に倒れこむようにして眠っていた。こちらも全裸である。
 脱衣は発信機対策であろうが、同じく全裸のマイルズが発信源でないとすれば、恐らくそれは彼女の髪に紛れ込ませてあるに違いない。流れ水を厭う者がシャワーを浴びることはない。探知機が示したもう一方のポイントは、持ち去られた衣服の在り処だろう。
 しなやかな身体を仰向けにして脈を取り、リックは彼女の生命反応を確認した。厚い唇を押し分けて、牙の先端が覗いている。全ての反応が彼女の死を明確に示していた。
 豊満な胸の間にロッドを立てて杭を打ち込むと、彼女の瑞々しい肌は見る間に水分を失って落ち窪み、張り付いた骨諸共脆く崩れ落ちた。数十年ものの死体である。
 リックは頭を垂れて祈りを捧げた。
 立ち上がって周囲を見回すと、額縁に入った大判のモノクロ写真が傍らの壁に飾られていた。バニーガールのコスチュームを身に着けた女性のポートレートだった。束ねたブルネットから兎の耳を生やした女性は、白い歯を僅かに見せて微笑んでいた。片隅に‘ルルー’と優雅なサインがある。
 彼女の生前の姿か、或いは名を借りていただけか。干乾びた骸を振り返っても、そんな面影はどこにも見当たらなかった。
 ここにいれば、幾らでも獲物が集まっただろう。社会からあぶれ、行き場を見失った若者たちに、彼女は新たな価値を提供した。彼女は彼らを必要とし、そして、彼らもまた彼女を求めた。そんな人間に、犠牲者に守られて、彼女は生き永らえてきたのだ。
 獲物がその狩人に幸運をもたらす例が、ここに一つあった。

 リックがセシリアの病室を訪れると、彼女はバスルームの鏡に映る自分の姿を見つめていた。
 「セシリア……」
 開いたドアをノックして脇から呼びかけると、セシリアは振り向かずに答えた。
 「ひどく――いい夢を見てた気がするんだ」
 「もっと見ていたかったかい?」
 「いや……どうかな」
 セシリアはバスルームを出て、壁際に身をもたせかけた。
 「皆なくなっちまった……そうなんだろ」
 「だとしても、君は何も変わっていないよ。それとも、何か変わったと感じるところがあるのかい?」
 「全部憶えてるんだ、あの人のこと……でも、どうしてあんなに夢中になれたんだろ」
 「夢中になってたのは君じゃなくて、相手の方だったのかもしれない。でも、いつまでもそうしていられる訳じゃない。誰だって心変わりはする。君だって……彼女だって」
 セシリアはカーテンの隙間から見える窓に目をやった。外には朝の日差しが降り注いでいる。
 「これまで吐き捨てられたガムみたいな生活をしてきて……だから彼女にだけは、本当に求められてる気がして……」
 手を伸ばして、喉元を撫でる。傷一つない華奢な首筋だ。
 「でも、さっき目が覚めてから気づいたの。彼女が本当に求めていたのは、あたしじゃなくて……」
 「それは分らないよ、今となってはね」
 リックは静かに言った。
 「だけどそれが何であろうと、君にしかないものなら、もう少し自信を持ってもいいんじゃないかな」
 「血なんて誰にでも流れてるさ」
 セシリアはリックを振り向いた。
 「別にあたしじゃなくてもよかったんだ」
 「君の血は、君だけのものさ――彼女も、ぺパロニが嫌いだったのかもしれない」
 それがジョークと判るまでに数秒を要した。
 ふとセシリアの唇の端が持ち上がった。嫌味のない表情だった。
 最後の形だけの診察を終えてから、リックが伝えた。
 「おめでとう、退院だ。治療費は君のお姉さんが負担してくれたから、心配はいらないよ」
 「そうなの? 困ったな、他に行き場がなくなっちまった」
 「それから、マイルズが君の案件の依頼料を全額返金したいそうだ。君のお姉さんが最初に依頼したハンターだ。後で会いに行くといい。明日まで一般病棟に入院してるよ」
 「入院?」
 「仕事で無茶をしたんだ。行く当てがないなら、福祉のカウンセラーを寄こすけど」
 「いいよ、なんとかするさ」
 退室する前に、リックはドアの前で立ち止まり振り返った。
 「お祝いに、ピザでも差し入れようか」
 「ううん、いらない」
 ベッドに腰掛けたセシリアは、あっさりと辞退した。
 「そうか……でもあそこのピザ、旨かっただろ。人手不足でいつも混んでいるのが惜しいところだ」

 救急車で病院に逆戻りしたマイルズは、ERで輸血と傷の手当てを受けた後、午後には一般病棟に収容された。
 ジェシカがその病室を訪れ、クリスの救助への感謝を長々と告げていたところに、リックも現れた。
 差し出された鍵束を、マイルズはベッドから起き上がって受け取った。
 「ロンが――礼を伝えておけと。僕からも礼を言いたい」
 「光栄だ。でも言ったとおり、ハンターは辞める。修理業に戻るよ。そっちの方が向いてる気がするんだ」
 そこへバックパックを背負ったクリスが駆け込んできた。
 「マイルズ――無事だったんだね!」
 二人は友情の証に拳をぶつけ合わせた。
 「これ、返すの忘れちゃって……」
 そう言いつつ、バックパックを下ろしてクリスが取り出したのは、マイルズのロッドだった。
 セーフティ・ロックが外れているのを、リックもマイルズも確かに見た。さらにクリスの指が触れているのは発射ボタンの辺りで、不運にもその先端はマイルズに向けられていた。
 まさに一瞬の出来事だった。
 息を呑むより早く放たれた杭は、マイルズの胸の手前で、回診に訪れたベスの手によって掴み取られていた。
 それが人間技ではなかった証に、クリスもジェシカも未然に防がれた事故に最後まで気づかなかった。しかし、マイルズとリックだけは、たった今目の当たりにした驚異を即座に理解した。
 「……ハンターを引退するそうではないか。いい心がけだ」
 ベスが二人だけに聞こえる声で言った――ロードの声で。
 狩られなくてもいずれは死ぬ。死が早まるか遅れるか、それだけの事――混迷する意識の中で、マイルズはそう告げはしなかったか。
 生物の死が神の思し召しなら、遠退けられた死もまた、その御心のなせる業なのだろうか。
 何事もなかったようにベスは速やかにその場を立ち去り、マイルズは放心したまま空のロッドを受け取った。
 何も知らない、無邪気な少年が彼を称えた。
 「マイルズは僕のヒーローだよ。僕、大人になったら絶対にハンターになる。吸血鬼を狩るんだ!」
 最高の笑顔を湛えて、クリスは誇らしげに語った。


Winter 2020

シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉: 狩人の笑み 
https://heartdelsol.com/works/novel/swd03.htm

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