シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉

あおい うしお

十六の窓辺 Sweet Sixteen

 特殊咬傷科を利用する患者の数は、シティ・ホスピタルに置かれた他の診療科の比ではない。
 ハンターが必要とされる条件を満たす案件の発生率の低さは、以前は個人業として吸血鬼退治に従事していたロンが病院専属となった所以でもある。たとえば私立探偵が警察に転職するようなもので、組織的な支援が受けられる半面、様々な制約も発生する。
 リックの地道な営業活動と明瞭でリーズナブルな費用設定の甲斐もあり、特殊咬傷科の開設以来その相談件数は僅かながら増加しているものの、受診する患者の大半を精神科に案内しなければならないのが実際のところで、週に一人でもハンターを必要とする‘本物’の犠牲者が訪れれば、その月の外来患者数は普段の平均を上回ることになる。
 どういう風の吹き回しか、その日、二組の相談者がほぼ同時刻に来院した。
 一組目は服装や所持品からかなり裕福と知れる祖母と孫娘の組み合わせで、内科を受診した際に十六歳になる少女の喉に一対の咬傷が認められ、特殊咬傷科に回されてきた。
 二組目は二人の息子を連れた夫婦で、こちらは一組目とは対照的に貧相な身なりをしており、患者たる娘も既に荼毘に付されていた。医療機関の一端である特殊咬傷科では、亡くなった犠牲者の案件は原則として扱えないのだが、ロビーで泣き叫ぶ母親を見兼ねた受付係が一家を通してしまったのだ。
 他の病棟から独立したこの特別棟に待合室や診察室といった場所はなく、診療やカウンセリングは病室か別棟の個室で行っている。リックは両者を隣り合った病室に案内して、まずは早期の対応を要するであろう生きた患者に面会した。
 ベッドにかけた娘は、付添いの祖母が選んだと思しいクラシックな外出着に似合わぬ、厚底の赤いピンヒールを履いていた。リックが入室してもぼんやりと天井の隅を見つめ続け、話しかけても返事は上の空だった。
 ファシネーターを見事に整えた白髪に乗せた老婦人によれば、ジュリー・アーミルソンは一ヶ月ほど前からこのような按配で、同じ頃に海外出張に出てしまった両親に代わり彼女が世話をしていたものの、一向に回復の兆しが現れないため、二人の帰国を待たず病院を受診したという。製薬会社に務める多忙の両親には、まだ娘の容態を伝えていない。
 夜に彼女の寝室を訪れるとベッドは空で、夢遊病患者のように庭先を歩いていたことも一度ならずあり、ひどく落ち込み塞ぎ込んでいるかと思えば、些細な事でも騒ぎ立てて怒鳴り散らし、その度に祖母の寿命を縮ませた。
 金に糸目は付けないので、とにかく娘を元に戻してほしいと訴える老婦人を宥め、リックは少女に目線を合わせて訊ねた。
 「よし、ジュリー、聞こえるかな? 君が今、何を考えているか、話してみる気はないかな?」
 「あたし……あの……今、何か……?」
 「最近、何か悲しい事や嬉しい事を経験しなかったかい? ここ一ヶ月以内にあった怖かった事や、幸せだった事を思い出せるかい?」
 「ええ……ええっと……ああ、ほら……彼が会いに来てくれて、それで……」
 「それで、どんな事が起こったのかな?」
 「分らない……怖かったような……」
 「その時の事、よくは憶えていないんだね……」
 「ええ……」
 記憶が曖昧なような、言いはぐらかしているような、そんな印象を受けた。
 リックはジュリーの顎を横に向かせてその首を確認した。左の喉の傍に一対の咬傷。薄い瘡蓋に覆われた小さな開口部は、引き裂いたように若干崩れている。
 「夜になってから、もう一度話を聞いてみよう」
 ジュリーの喉に定規を当てて写真を撮ってから、リックは入院の手続きをさせるために病院棟から事務のアシスタントを呼び出して診察を切り上げた。
 そのまま隣の病室に移動し、デニス・ガルシアの遺族と挨拶を交わす。
 窓際の椅子にかけてハンカチ代わりのタオルに顔を埋める母親の背中を、その夫と小中学生の息子たちが交互に撫でさすっていた。
 母親は使い古したハンドバッグから取り出した一枚の写真を差し出し、啜り上げながら語り始めた。それは誕生日ケーキを前に満面の笑みを浮かべる生前のデニスを写したものだった。
 デニスは十六になったばかりの、心優しい娘だった。三日前の朝、母親が朝食の席に現れない娘を心配してその寝室を訪れ、変わり果てた姿となった彼女を発見した。悲鳴で駆けつけた父親が警察に通報し、遺体は検死を行うために引き取られ、感染症による死亡の可能性を否定できないという理不尽な理由で火葬された後、昨日、骨壷に収められて家族の元に帰された。
 しかし両親共に、亡くなったデニスの痛ましい外傷と、喉に残されていた奇妙な創傷に気づいていた。
 母親はお見苦しいものをお見せしますがと断ってから、二枚の写真を手渡した。それは遺体の発見当時の寝室の様子と、亡くなったデニスをアップで撮影したものだった。警察が事実を歪曲することは多々あるので、証拠として手元に残しておくため写真を撮ったと父親が手短に説明した。事実、その遺体は遺族の同意を待たずに処理されてしまった。
 リックは受け取った写真を検めた。そこは少女の慎ましい暮らし振りの窺える質素な部屋だった。開け放されたブラインドと窓に、倒れたフロアランプ。乱れたベッドの上には、切り裂かれたパジャマを纏う半裸の娘が肢体を投げ出した状態で横たわり、右の腕は肘の脱臼によるものかあらぬ方向を向いていた。年季の入ったチェストの周囲には縫いぐるみと割れた陶器の破片が散乱し、絨毯の上に白い花が散らばっている。
 二枚目の写真ではデニスの胸元から顔までを確認することができた。確かにその左の首筋には、赤く濡れたように見える一対の咬傷が刻まれていた。カメラを手にした父親の動揺と悲嘆を伝えるように、ややピントの合っていないその写真からでも、彼女がその凄惨な死とは裏腹に安らかな表情を浮かべているのが見て取れた。
 娘を甚振りその命を奪った犯人を捕まえてくれと両親は切に頼み込んだものの、すでに警察はデニスの死を突然死と結論づけており、それ以上の捜査は不要であると二人の訴えを退けた。彼らが吸血鬼事件を扱えぬと知ってからも、両親は真相の究明を諦めなかった。著あおいうしお。そうして娘の無念を晴らすべく、この特殊咬傷科を訪れたのだ。
 これほど危険で残忍な吸血鬼を野放しにしておけば、いつ新しい犠牲者を出してもおかしくないし、何よりも死んだ娘が浮かばれない。他の家族が同じ悲しみに暮れる前に、どうか犯人を探し出して滅ぼして欲しいと、父親さえもが涙を浮かべてリックに縋り寄った――それが娘の最後の願いであると。
 お悔やみと哀悼の言葉を伝えた後、リックは穏やかに告げた。
 「お聞きになっているとは思いますが、基本的にこちらでは、すでに亡くなられた方の案件は扱っていません。依頼を引き受けるかどうかの判断は科長に委ねることになりますが、少しでもお力になれるよう、もう少し詳しくお話を伺っておきたいと思います。喉の傷の他に、彼女を襲った犯人が吸血鬼であることを示すような言動や証拠はありましたか?」
 母親は、デニスは二ヶ月ほど前から気分が優れないからと、度々学校を休むようになったと話した。顔色が悪くなり、食も細くなったため、病気を疑った母親が問い詰めると、思いを寄せていた男子生徒が同級生の女子生徒と付き合い始めたのだと明かした。失恋ならば時間の経過と共に立ち直れるだろうと、陰ながら見守り始めた矢先の事件であった。
 しかし思い返してみれば、ポニーテールを結っていた髪を下ろすようになり、毎晩必ず視聴していたテレビドラマもシーズン半ばで興味を失ったのか、夜間は部屋に閉じこもって昼前まで姿を現さなかったという。
 三枚の写真を預かり、連絡先を控えてから、リックは母親に訊ねた。
 「もしこちらの者が自宅を訪ねた場合、屋内を調査する許可は頂けますか」
 「もちろん、いつでもいらしてください。ただ――部屋は片付けてしまって。家具も処分してしまいました。娘の面影が忍びなくて……」
 別れの挨拶を交わし、一家を病院棟まで見送ってから、リックは病室の用意をするため通路を引き返した。

 一旦帰宅して入院の支度をした後、再度病棟を訪れたジュリーは、場違いな大型のスーツケースを押して現れリックを仰天させた。
 今の彼女にそんな意思があるとは考え難く、世話焼きの祖母が持たせたのだろうが、その重量ときたらストレッチャー用のエレベーターで地上階に運ばなくてはならないほどだった。念のためにケースを開けて中身を確認したところ、優に一ヶ月は滞在できそうな大量の衣服に加え、高価な靴、アクセサリー、そして化粧道具がひしめき合っていた。
 午後遅くにロンが出勤し、二つの案件についてリックと意見を取り交わした。デニスの加害者の捜索については、結論からすると不可能であるとロンははっきりと告げた。
 最も有効な手掛かりとなる犠牲者は既に死亡しており、その遺体も失われ、預かった写真からでは咬傷の検証も困難である。リックはデニスの遺体を回収した警察署に問い合わせてみたものの、検死の記録には頸部の左側に二つの刺傷としか記載されておらず、鮮明な写真もないということだった。
 標的の痕跡が残されていた可能性のある寝室は、皮肉にもその滅亡を求める家族の手によって失われてしまったし、仮にそれがジュリーの案件と同じ吸血鬼の仕業であったとしても、それを証明する手立てはないのだ。
 ただ――そうロンが言いかけた時、リックのデバイスが短いアラーム音を伝えた。日の入りの五分前にセットされているのだ。
 二人は連れ立って十七号室に向かった。
 ジュリーはヒールを脱ぎ捨てた裸足のまま、部屋の隅で頭を抱えて蹲っていた。
 「どうした、ジュリー。気分が悪いのかい?」
 「怖い……怖いの……」
 恐怖の相を浮かべたジュリーは掠れた声を絞り出した。
 「何が怖いんだい?」
 震える指が窓を指差した。
 「暗い……夜が来る……嫌だ……」
 まだ朱の残る空と街の景色をロンがカーテンで遮断しても、ジュリーは怯え続けた。
 「どうして夜が怖いのかな? 夜に、何か恐ろしい出来事があったのかな?」
 ジュリーは両手で顔を覆った。
 「分らない……分らないけど……」
 指の隙間から涙が零れ落ちた。
 「血が……助けて……怖い……」
 次第に息遣いが荒くなり、呼吸困難に陥りかけた娘を、リックとロンは二人がかりで抱え上げてベッドに寝かせた。
 ブランケットを掛けても、両手で首元を庇いながら、ジュリーは蒼い顔をして震えていた。
 リックが傍らの簡易椅子に腰を下ろして語りかけた。
 「いいかいジュリー、この病室にいる限り、君は安全だ。ロンもいるだろう、僕の相棒なんだ。ここにいれば、誰も君に手は出せない」
 「でも……でも……」
 「でも……?」
 「来るかもしれない、また……」
 「何が来るのかな……」
 「彼が……キスを……」
 「誰が、どんなキスを?」
 「痛い……いや、咬まないで……いやあぁ――!」
 見えない何かから逃れようと、もがくように両手を動かして、ジュリーは抵抗を続けた。
 そこへベスがカートを押して現れ、ロンの指示でジュリーに鎮静剤を投与した。
 「君は、君を咬んだ相手を知っているんだね」
 リックが問診を続けた。
 「知らない……知らないけど……痛い……やめて……」
 「それから何が起こったか、憶えているかな?」
 「知らない……あたし……」
 次第に容態が落ち着き、ジュリーは眠りに落ちた。
 すかさずロンがジュリーのブラウスをはだけ、首から肩、そして上半身を持ち上げて背中側までを調べた。傷の数やサイズだけでなく、その深さや牙の刺入角度、治癒具合、同じ箇所を咬まれた回数や、下顎の歯や爪などによる付随的な損傷までをも隈なく探す。それだけで標的の特定に繋がることもあるのだ。
 「‘彼’と呼んだな。歯牙にかかったのは確かだ。少なくとも一度は。抵抗した痕もある。二度目は恐らく数日から一週間前だが――傷の具合が不自然だ。自ら傷つけたのかもしれん」
 傷を負わせた加害者が吸血鬼か否かの見極めは重要だ。判断を誤れば存在しない吸血鬼を追う羽目になるし、反対に本物の咬傷を偽物と誤診すれば犠牲者の命に関わる。
 「昼間はドラマクイーンに徹していたかもしれないが、今の怯え方は尋常じゃないぜ」
 患者に病院着を着せるようベスに指示を出したリックは、退室してオフィスへ戻りかけるロンを追いつつ話しかけた。
 「逆だ――気づいただろう。軽症なら昼に夜を怖れる。主の干渉があるなら、夜こそ夢心地になって然るべきだ」
 「だが傷は本物なんだろう。精神科に回しても、あの様子じゃ送り返されるだけだろうけど」
 「あの娘は咬まれたが、‘彼’とやらの再来を待ち望んではいない。ならば一ヶ月前の遭遇時に何があったと推測できる?」
 階段を降りながら問い掛けるロンに、リックは答えた。
 「咬まれたが、何も起こらなかった……ヤられたが、何も感じなかった……」
 「――結構な比喩ではないか」
 背後から声がして、リックだけが振り返った。
 気取った襟の礼装用シャツと夜深青(ミッドナイトブルー)のベストを着た男が、二人が降りてきた階段の頂に立っていた。
 「……‘ロード’」
 リックが呟くと、男は不敵な笑みを浮かべた。
 唇の間から白い牙がこぼれる。

 「――茶番だ。精神科医に紹介状でも書くことだ」
 地下のオフィスでロードは吐き捨てるように告げてから、リックのデスクに置かれていた三枚の写真を見つけて取り上げた。
 「ひどいな」
 「ああ……残念だがそれは手掛かりがない。断ろうと思ってる」
 コーヒーのマグカップを手に、リックはデスクについた。
 「すると今週も患者数はゼロか。いっそのこと廃業してはどうかね」
 「転職か。悪くないな」
 リックはカップを置いてロンを見た。彼は二人に背を向けたカウチに掛けていた。
 「歳はいくつだ?」
 三枚の写真を順に見ながらロードが訊いた。
 「十六だ――上にいる娘もな」
 傍らのモニターに映る病室の中で、ジュリーは安らかな寝息をたてている。
 「死の冒涜もいいところだ」
 「そう思うのなら、犯人を見つけてやってくれ。両親が、娘の無念を晴らしたいんだとさ」
 「あれにはもう見当がついていると見えるが」
 ロードは顎でロンを示した。
 「まさか――そうなのか?」
 リックは立ち上がった。ロンは答えなかった。
 「――まあいい、まだ断りの電話は入れてない。引き受けるのなら、訪問の許可は取ってある。いつでも‘上がれる’はずだ。でもその寝室は片付けてしまったんだそうだ。あんたが訪ねても、見つかるのは幽霊くらいだろう」
 「では、その幽霊とやらを拝みに行くとしよう」
 ロードは写真をデスクの上に戻し、歩いてオフィスを去った。
 閉じたドアをしばらく眺めてから、リックが口を開いた。
 「なあロン、幽霊を見たことはあるか」
 返事はすぐに返ってきた。
 「――いや」

 ロードがその狭い通りに足を踏み入れると、目に触れたもの全てを敵と認識する犬たちが、水を打ったように静まり返った。
 タイヤやボンネットを欠いた旧型の乗用車や、格子で塞がれた窓。空家と見紛うばかりの暗い家屋の並びに、デニスの生前の住処はあった。こちらのテキストは、はーとデルそるドットこむ、から複製されました。それ自体が廃棄されたようなごみ箱の並ぶ庭先に面した傾いた塀を、ロードは支柱に軽く手を置いただけで難なく飛び越え、その敷地に侵入した。
 裏庭に続く通路を歩くと、音だけで家の間取りと内部の様子が知れた。両親は寝室でテレビを視聴している。子供の一人はリビングルームでテレビゲームに没頭し、もう一人は小部屋のベッドで寝息を立てていた。
 干乾びた鉢植えが並び、子供の玩具が散乱する小さな庭を回り込んで、ロードは目的の窓を見つけた。拉げたブラインドの隙間からでも、家具のない空き部屋が見渡せる。隣家の防犯灯が明る過ぎるのだ。
 窓枠に手をかけると、それは施錠を無視して造作なく開いた。ロードはリックの言うところの‘こちらの者’に該当し、その訪問許可を得ていた。即ち、家の住人が彼を招待したと見なされ、家屋に施された全ての錠は無効となって屋内に彼を迎え入れる。
 写真にあったベッドやチェストは撤去され、擦り切れた絨毯がその跡を留めるのみだったものの、ドアの脇に簡素なデスクが取り残されていた。その理由と思しき卓上に並んだ日記やノートの類には触れず、ロードは傍らの壁に無造作にピンで留められた写真群に目を止めた。
 家族、親戚、友人――数え切れない笑顔に囲まれて過ごした人生の一場面が集められている。「祖母の思い出に」と印刷された写真には、葬儀を執り行なった教会の名が記されていた。
 その系列の墓地は、近辺には一箇所しかなかった。

 そこが彼らの在るべき場所であることを戒めるように、墓地には誰の許可をも得ずに立入れることを、ロードは知っていた。
 よく手入れされた芝と石碑に覆われた暗い敷地の隅に、ロッカー式の共同墓地がひっそりと佇んでいる。ロードはそこで小さな石のタイルに刻まれたばかりのデニスの名を見つけた。両親は彼女に埋葬地と墓標を用意できなかったのだ。棺を必要としなかったことは、彼女の最後の親孝行だったかもしれない。
 納骨壇の手前に設けられた献花台には、誰に手向けたものかも知れぬ花束や蝋燭の燃えさしが捧げられている。その中に一本だけ、火のついた瓶入りの蝋燭があった。墓地の閉園時間は日暮れ頃のはずだが、芯の燃え具合からしても、それが灯されて間もないことは明らかだった。
 ロードは振り向いた。音もなく現れた気配に問う。
 「――デニスの弔いか」
 「なぜ、その名を?」
 芝生の一角に立つコートの男は、若くはないが老いてもいなかった。
 「確認したい事があってな……もう、解ったが」
 「確認?」
 「娘の亡骸は荒らされた状態で見つかった。それを口実に、家族がハンターに退治を依頼した」
 男の顔に困惑の表情が浮かんだ。
 「荒らされて? 誰が――」
 「両親だろう。ああでもしなければ、警察もハンターも相手にしなかっただろうからな」
 ロードは気づいていたのだ。死んだ娘に花を手向けるような者が、その死体を切り刻み、腕を捥ぐような真似はしないと。
 眠るように息を引き取った娘が抱えていた花束を床に投げ出して踏み躙るほどに、両親は怒りを覚えた。それは娘を死に至らしめた存在に対する憤慨であったか、或いはそれが彼らには到底手の届かぬ高価な花であったためか。
 いずれにせよ、故意に割られた貧弱な花瓶に、あの大輪の花の重みは支えきれなかったはずだ。
 「家族の怒りはわかる。しかし、そのために彼女の死を蹂躙したというのか」
 「愛されていた証拠だ――おまえもその一人だったのだろう」
 男は答えなかった。
 「それよりも、少し付き合う気はないか。面白いものが見られるかもしれない――」

 翌朝、出勤前のリックの元に警察から電話が入った。早朝、郊外の山林で吸血鬼と思しい死体が回収され、体内から犠牲者の血液が検出されたというのである。該当する患者が特殊咬傷科に収容されているのではないかとの確認の連絡だった。
 個人で活動していた頃のロンと面識のあった警察官たちは、今では刑事となって各地の部署に配属されている。警察局の方針に従い、吸血鬼の関わる事件からは手を引かねばならない一方で、加害者や殺人犯を野放しにはできない彼らの正義感は、その捜査情報をロンが科長を務める特殊咬傷科に内密に告げ知らせるのだ。
 自分が到着するまで火葬には回すなと念を押してから電話を切り、ロンに連絡を入れた後、リックはバイクで市の死体安置所に向かった。
 消毒液の臭いがなければレストランの厨房と見まごう明るく開けた一室にリックが通されたのは、それから二十分後だった。調理台に似たステンレスの解剖台の一つに目的の死体が横たわっている。
 警察から連絡を受けていた施設の職員が白い覆いを外すと、リックはあるものを目にして思わず一歩仰け反った。
 それは死体の首が胴から離れていたからではなく、裸の左胸に拳大の穴が穿たれていたからでもなく、半開きの唇の間から一目でそれとわかる牙が露出していたためであった。
 吸血鬼と化した者が‘真の死’を迎えると同時に、その肉体は死後相応の期間を経た人間の骸と化す。たとえば三日前に吸血鬼化した者を‘処理’すれば、それは死後三日が経過した死体となり、幾世紀もの齢を重ねた悪鬼ともなれば瞬時にミイラと化し、塵となって四散するだろう。
 正しく処理されたにも関わらず、吸血鬼化の基準となる牙を尚も留めているのなら、その死体はまだ‘死んでいない’と判断せざるを得ないし、従来の処理方法も見直さねばなるまい。
 驚きを隠せず拳を口に押し当てたリックに、アシスタントが手にした検死の報告書を捲りながら告げた。
 「驚くのも無理はありませんが、その牙はインプラントだそうで――美容整形ですよ」
 「整形?」
 「度を越したピアスとかタトゥーがあるでしょう、あれの延長です。一種の精神病といいますか。耳も尖っているでしょう」
 「首と胸はここで?」
 「まさか。こんな雑な仕事をする奴はここにはいませんよ。この状態で発見されたそうです――死後およそ一ヶ月、死因は失血によるショック死。首の切断と胸の一突きは昨夜から今日未明にかけてですね」
 アシスタントは該当するページを開き、死体の胸から引き抜かれた杭の写真を見せた。コピーライト、はーとでるそるどっとこむ。幅数インチ、長さ一フィート半のそれは、吸血鬼退治を思い浮かべれば誰もが連想する、いわゆる‘白木の杭’であった。
 「誰が処理したんだ?」
 「ハンターは名乗り出ていません。まあ、賞金が出る訳でもありませんしね。捜してそちらで雇ってやったらいかがでしょう」
 「人手なら間に合ってる。身元は判明しているのか?」
 「ええ、エドウィンなんとかっていう十八歳の青年で、ご覧の通り、生前からおかしな趣味があったようですね。いい所の坊ちゃんだったようで、家の金で遊び呆けていたそうですよ」
 「親に連絡は行ったのか」
 「不肖の息子というやつです。遺灰は芝の肥やしにしろとのご希望で」
 「墓地に埋葬しても、いずれはそうなるさ」
 リックは自前の定規を死体の口元に寄せて牙のサイズを計測し、それがジュリーの傷と一致することを確認した後、報告書のコピーをもらって施設を後にした。

 病棟のオフィスに着くと、リックはデスクのモニターを覗いた。十七号室にジュリーの姿はなかったが、室内のバスルームのドアに使用中を示すライトが灯っていた。
 診察の用意をしてオフィスを出ると、そこには如何にもビジネスマンとキャリアウーマンといった感じの男女が、リックを待ち構えていた。
 「始めまして、ジュリーの父親のロバート・アーミルソンです」
 「妻のジャネットです」
 ブランドもののスーツを着こなした二人は、完璧なタイミングと角度で握手の手を差し出してきた。
 「義母(はは)からお話は伺っております。警察にも通報しましたけど、娘が心配で、昨夜帰国したばかりですの。そうしたら今朝、宿泊先のホテルに警察の方から連絡があって、なんですの、その――死んだ吸血鬼から犠牲者の血が検出されて、娘のものではないかと……」
 怪訝な妻に相槌を打って、父親が言葉を継いだ。
 「入院した事は母から聞いていましたし、それなら直接会って確認した方が早いと、こちらに伺った次第です。ジュリーには信頼できる掛かり付けの主治医もおりますので、これ以降の診察は彼女に任せたい。すぐにも退院の手続きをお願いします」
 そして彼は声を落としてリックに耳打ちした。
 「娘が入院していた事を、あまり公にはしたくないのです――理解していただけますね」
 相手に否と言わせない、ビジネス調のトーンの染み込んだ言葉だった。
 「それは――もちろんです。僕もたった今、その死体を確認してきたところです。牙の痕が一致しましたから、ジュリーも回復しているはずです」
 二人を上階の病室に案内しながら、リックは話した。
 「最後に簡単な診察をして、問題がなければ、すぐにも退院許可を出しましょう」
 「あの子を置いて行ったのが間違いでした。初めから一緒に連れて行っていれば、こんな目に会わずに済んだのに……可哀想なジュリー」
 悲嘆する妻を夫が慰めた。
 「起こってしまった事は仕方がない。残りたいと言ったのはあいつなんだ。でもこれでようやく決心がついたはずだ。帰りの飛行機は三席予約してある。向こうの生活にもすぐに慣れるだろう」
 リックが病室のドアを開けると同時に、彼を押し退けて飛び出した十六歳の娘は、クリスマスの朝の六歳児のように父親の腕の中に飛び込んだ。
 「パパ! あたし、すっかりよくなっちゃった!」
 「おお、そうか――!」
 母親も娘を抱き締めて涙ぐんだ。
 「ジュリー、ああ、無事でよかった……先生、ありがとうございました」
 「いえ、回復されて何よりです。念のために、診察を――」
 「平気よ、きれいに治っちゃったもの」
 ジュリーが巻いたばかりの髪をかき上げて首を逸らしても、滑らかな喉には傷一つなかった。
 「早く帰ろう、あたし、おばあちゃまにもお礼を言わなきゃ」
 笑い声を上げながら、ヒールの靴音も高らかに廊下を駆け抜け、階段の前で立ち止まって三人を振り返る。
 「大変、スーツケースを忘れちゃった。先生、それ運んでおいて!」
 「まあ、ジュリー! ここに戻って彼に挨拶なさい――ごめんなさい、回復したのがよほど嬉しいようで」
 母親は整え過ぎた白い歯並びを見せつけるよう、リックに笑いかけた。その隣で、父親が懐から大判の小切手帳を取り出す。
 「ほんの気持ちですが――どんなに金を積んでも、娘の命には代えられませんからね」
 万年筆が幾重にもゼロを書き綴っていくのを眺めるリックの脳裏に、ロードの言葉が浮かんだ。
 ――茶番だ。

 「――それで、喉も確認せずに娘を帰したと」
 ロンの口調はいつもと変わらずぶっきらぼうだった。
 入院費用とは別途に切られた高額な謝礼金の小切手が置かれたデスクを挟んで、リックとロンは向かい合って椅子に掛けていた。昼前のオフィスである。
 「ああ、僕が悪かったよ。彼女が化粧品のポーチを持っていたのは知ってた。今朝はそのことを全く失念していたんだ」
 咬傷の隠蔽は主との再会を望む犠牲者が周囲の目を欺くのによく使う手だ。傷をコンシーラーで塗りつぶし、ファンデーションでカバーする。さらにパウダーで周囲の肌に馴染ませれば、一目でそれと見抜くことはまず不可能だ。
 「でも死体の牙とジュリーの傷のサイズは確かに一致した。根元から計測したから間違いはない。それに体内からはまだ新しい彼女の血が出たんだ。死体は死後一ヶ月と判断されたにも関わらず――」
 「リック、人間も心臓を貫かれれば死ぬんだ」
 「しかし……」
 リックは口をつぐんだ。発見された死体が吸血鬼ではなかったという、最悪のシナリオを思い浮かべた。それは一ヶ月に亘る偽装工作の結果だったのではあるまいか。
 「だとしたら、ドラマ・クイーンどころか一家揃ってアカデミー賞ものだ……畜生、ノミネートしたのは僕たちで」
 額を抱えて、リックは卓上の小切手を見下ろした。
 一人の人間が吸血鬼となるに必要な金額がそこにあった。

 リックの連絡を受けた後、ロンは死体の発見現場と警察署を訪れ、死んだ青年について調べていた。生前のエドウィンがある妄執を抱いていたことは、警察が捜査で明らかにする遥か以前から周知の事実だったようである。
 彼は吸血鬼になることを夢見ていた。
 彼の銀行口座に幾らでも振り込まれる金は、ファッションから整形に至るまで、その奇妙な願望を満たすべく惜しみなく費やされた。
 ブロンドと伸ばした爪は黒く染め、衣服も黒で統一し、度のないコンタクトレンズだけは赤を選んだ。ピアス感覚で両耳の先端を尖らせる手術を行い、幼少の頃に矯正した前歯の一部を抜歯して、インプラントの牙を埋め込んだ。
 行動も夜間が中心となり、富裕層の生徒が通学するプライベートスクールの出席日数が卒業資格を満たすことはなかったが、修業証書は金で買える事を彼は知っていた。
 狩猟を嗜み熱心に銃の収集を行っていた父親とは違い、エドウィンは銃器には全く興味を示さなかったものの、大小様々なナイフのコレクションを引き出し一杯に所持しており、外出する際には必ずその内の一本を携帯していた。
 そこから様々な推測ができる。
 たとえば、不意に喉を咬まれた娘がパニックに陥り、咄嗟に彼の身につけていたナイフを手に取り、その胸に突き立ててしまったのだとしたら。
 急な海外出張を決めた娘の両親が、実際は別の場所に留まり、持ち去った死体をどこかに隠していたとしたら。
 娘の咬傷が病院で吸血鬼によるものと診断された後、まるでハンターが処理したように見せかけたその死体を、林の中に置き去ったのだとしたら。
 ジュリーの傷の有無が確認できない今となっては、全ては可能性に過ぎず、ロンとリックには何をも証明する手立てがなかった。(C)レディそるミナ。彼女は既に退院し、ホテルを経由して空港に向かった。両親と共に海外に移住する――そういう話だった。
 唯一つ確かなのは、心臓を貫かれて死んだのならば、エドウィンも本望だったに違いないということだ。そんな彼も、今頃は火葬炉の中で灰と化しているだろう。

 数ヶ月後、ロードはある邸宅の庭先を訪れた。
 彼はこの屋敷の主人とその妻が、近郊の林の中で夜通し共同作業に徹した姿を知っていた。衣服を泥で汚しながら、妻が杭を両手で押さえ、夫がハンマーを振りかぶって、物言わぬ死体に懸命に打ちつける様を、さも愉しげに見物していたのだ。
 青い若葉を頂いた樹木が月影を落とす優雅な庭園の脇に、小さな明かりの灯る窓があった。
 男が一人、その窓枠を乗り越えて、音もなく石畳の地に下り立った。
 「おや……こんばんは」
 歩み寄るロードに、男は会釈した。
 「あなたも、こちらの娘を?」
 「まさか。旬ではあるがな」
 「十六の娘の血は甘い――そう仰りたいのでしょう」
 ひらめくカーテンの向こう、天蓋付きのベッドの上には、両腕に花を抱えた少女が横たわっていた。


Fall 2020

シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉: 十六の窓辺 
https://heartdelsol.com/works/novel/swd02.htm

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