シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉

あおい うしお

特殊咬傷科 Special Wound Dept.

 その女性は早朝、街角で行き倒れていたところを発見され、通報を受けて駆けつけた救急隊員によってシティ・ホスピタルに搬送された。
 緊急治療室(ER)で意識の戻らないまま診察と輸血を受けた後、速やかに特殊咬傷科への移送手続きが取られた。
 警察の調べによって身元は判明しており、身内に連絡は取られたものの、最愛の恋人でさえ彼女との面会は謝絶された。エリカ・フィンレイは二十代半ばの会社員で、昨夜の帰宅途中にそのトラブルに見舞われたらしい。
 特別病棟の個室に移されても昏睡状態のまま眠り続け、日が沈んだ今、ようやく意識の浮上の兆しが現れた。
 「――やあ、よく眠っていたね。僕の言葉が分かるかい?」
 ベッド脇の簡易椅子からワイシャツ姿の若い男が語りかけた。ネクタイの代わりに首から提げた職員カードには看護助手(CNA)とあった。
 「あなた……誰……」
 エリカはぼんやりと周囲を見渡した。病室の窓にはカーテンが引かれ、壁際のランプだけが灯っている。ドアの傍にもう一人、褪せたブラウンのスーツを着た年配の男が壁に身を持たせかけて立っていた。
 「僕はリック、君の担当になったナースだ。そっちは相棒のロン。君は道端で倒れていたところを発見されて、病院に搬送されたんだ。どうして倒れていたのかは、思い出せるかな」
 「私……」
 エリカは記憶を巡らせ、出し抜けにブランケットを退けて身悶え始めた。喉元にテープで固定されていた大判のガーゼをむしり取ると、並んだ創傷が現れた。頸部の右側に穿たれた、二対の赤く濡れたような刺創――吸血鬼による咬傷である。
 「ああ……あの、彼が……喉に……」
 「どうした、苦しいのか?」
 病院着の上がはだけて裸の胸が露出しても、少しも動じずにリックが訊いた。
 「ええ、とっても……いつ退院できるの? 外の空気を吸いたいの……」
 「悪いけど、完治するまで外出許可は出せないんだ」
 「なぜ……なぜ……」
 エリカは恨めしげにリックを見上げた。
 「そういう決まりなんだ。君が出かけなくても、向こうから会いに来てくれるとは思わないかい?」
 「それは……ああ、来てくれるかしら……」
 「君が願えば、そうしてくれるさ。外に出たら、すれ違って迷子になるかもしれないだろう」
 感情を押し殺すように黙り込んだエリカを残して、リックとロンは退室した。
 「――男性、長身。まだ若造だな。同じ側を二度咬まれている。執着するタイプだろう。早くても今夜……」
 ロンの言葉にリックは頷いた。
 「ああ、来るだろうな……用意しよう」

 果たして、犠牲者の‘主’たる標的は現れた。
 ロンの見立て通り長身のその男は、鋲の並んだ細いジーンズを履いた若者だった。
 病棟に挟まれた狭い中庭を横切り、迷うことなくエリカのいる病室の前に立って、黒いTシャツから伸びる白い手を窓に当てる。その‘従僕’たる犠牲者を呼び出しているのだ。
 カーテンが開いてエリカが窓辺に現れた。喜びに満ちた顔が頷き、窓枠を手で探った。しかし二人の期待に反して、窓は嵌め殺しであった。
 サイレンサーを通した発砲音がして、黒Tシャツが振り返った。風のような音と雨粒のような衝撃を感じたが、狙撃主の姿は見当たらなかった。
 エリカが両手で窓を強打し始めても、装甲車の窓と同等の強度を誇る強化ガラスは微動だにしない。痺れを切らして窓や廊下のドアに体当たりを試み始めた彼女は、不意に気を失って床に崩れ落ちた。
 他者の妨害を感知した黒Tシャツは、他の病院棟から孤立したその平屋建ての棟の周囲を巡り始めた。入口を探していると知れたが、並列した四部屋の病室の窓を除き、それらしき開口部は見当たらない。
 身の危険を察したか、或いはエリカへの関心が薄れたのか、黒Tシャツは踵を返して病院の敷地を去った。新たな獲物の物色に向かったのかもしれない。
 中庭の芝生の一角が跳ね上げ扉のように持ち上がり、散弾銃(ショットガン)を手にしたロンが地上に顔を現した。病棟へ至る通路は地下に置かれ、その一つは中庭のハッチに通じているのである。
 「追跡できるか」
 ロンは耳に装着した通信機を通してリックに話しかけた。彼の手にする銃の散弾には、弾丸(ペレット)の代わりに粘着性のある微小な発信機(ビーコン)の粒が装填されていたのだ。
 「信号はキャッチした。繁華街の方角だ。追うか?」
 「――いや」
 なぜ否と判断したのか、ロンはハッチを閉じて地下に置かれたオフィスに向かった。
 途中で出勤したばかりのベスが回診に向かうところに出会わせた。彼女も特殊咬傷科の専属ナースであり、月曜日以外の夜間勤務を担っているのだが、普段は一般病棟のナースステーションに詰めている。この棟の入院患者数は極端に少ないのだ。
 「リックなら十四号室に向かいました」
 返事をして、ロンはオフィスに入った。
 職員の休憩室を兼ねたそこにはくたびれた人口革のカウチが横たわり、奥に飾り気のない三組のデスクが整然と並んでいる。向かって右がリック、中央がロン、そして壁際のデスクには複数のモニターが設置され、病室と病棟周囲の様子をモニターしていた。©レディソルミナ。そこは病棟のコントロール・ステーションとして機能し、たとえば空調設備を操作して特定の病室に催眠ガスを散布することなどが可能であった。
 ロンはカルテラックと小型の冷蔵庫の間に設置されたガンロッカーに銃を収め、オフィスの向かいの階段を上って地上階十四号室に向かった。
 病室ではリックがベッドに寝かせたエリカの脈をとっていた。
 「大丈夫、少し興奮しただけだ――明日までの辛抱だぜ」
 ブランケットを胸元まで上げてから、リックは戸口に立つロンを振り返った。
 「今夜も誰かが狙われると思うか?」
 「夜間の外出は個人の勝手だ。昼も夜も相応の危険は伴う」
 「‘ロード’は動かないのか? お気に召しそうな案件なのにな」
 「悪餓鬼の相手なんぞ俺たちで充分だ――明日はおまえが行け」
 それだけを告げると、ロンは通路を引き返した。

 古よりの鉄則のもと、リックは夜明けと同時に職員用の駐車場から愛車のバイクで街に繰り出した――吸血鬼退治は昼間に限る。
 携帯電話の基地局を利用した発信機の反応を辿り、隣街のダウンタウンの廃ビルに辿り着いた。エントランスに打ち付けられた封鎖の板は破られ、不良や浮浪者に格好の隠れ家を提供している。
 屋内までバイクを引き入れ、ごみと卑猥な落書きにまみれた暗い通路を進む。すぐに見つかった地下への階段を、リックは小振りの懐中電灯を手に降りていった。ここまで来ればデバイスに頼らず、感を頼りに標的を探すことができる。
 通路の先には倉庫らしい広い空間が開けていた。朽ちて崩れた天井や剥がれ落ちた壁材の合間に、リックは目的の男が横たわっているのを見つけた。周囲に彼の私物はなく、昼を過ごすだけの仮の宿らしかった。
 野外用のライトに照らされても目覚める気配はない。それでも慎重に近づき、靴の爪先で男を小突いてから、リックは屈んでレザーグローブの指で首筋に触れた。電灯を掲げて落ち窪んだ瞼を持ち上げ、乾いた口を開く。長い犬歯に沿って唇の裏に切創が形成されていた。
 生命反応の欠如を確認すると、リックは腰のベルトに手を伸ばし、背中側に提げていた長さ一フィート強の筒状の道具を取り出した。立てた状態で逆手に握り、男の痩せた胸の中央付近に宛がう。
 片手に杭、片手にハンマーを握り心臓に打ちつける従来の方式は、近年では‘ロッド’などと呼ばれるカートリッジ式の杭打ち器に取って代られた。安全装置(セーフティー)を外せば、ボタン一つで高圧ガスによってピストンが押し出され、標的の体内に短い楔を打ち込むことができる。誰にでも扱える単純な器具ではあるが、用途の特殊性からその存在は殆ど知られておらず、自作できなければ製作者を探し出して依頼する他ない。リックの携える一組はロンの手製だ。
 圧搾ガスの抜ける短い音がして、リックは作業を終えた。男は身じろいだようにも見えたが、杭が貫通した際の単なる反動だったかもしれない。
 リックは片膝をついたまま目を閉じて無言の祈りを捧げた。
 スモッグ越しに朝日の降り注ぐ地上に戻ると、リックは死体の処理を任せるため警察に連絡を入れた。
 吸血鬼退治が公の機関に承認を受けた例はなく、彼の一連の行為は死体損壊、時に殺人罪にすら該当する。しかし検死を行えば、それが死後ある程度の時間が経過した死体であることは容易に判明するし、それでいて干乾びた口内や腐敗した胃腸からは摂取したばかりの犠牲者の血液が検出される。
 検死の際に首を落とす工程さえ挟んでおけば、この変死体を扱う担当刑事の書類が後で必要以上に厚くなることもないし、政府と警察が吸血鬼事案から一切手を引いた現在では、彼らはリックのようなハンターの活動を黙認せざるを得ないのである。このテキストはハート、デル、ソル、ドットコムから複製されました。吸血鬼の死は書類上では突然死などとして処理され、遺骸は火葬された後、身元が判明している場合にのみ遺灰が遺族に届けられる。
 警察の到着を待たず病院に引き返すと、リックは真っ先に十四号室に向かった。
 「エリカ、回診の時間だよ。僕のことは覚えているかな?」
 ノックをして入室すると、ベッドに上半身を起こした患者は、こざっぱりした顔でリックを迎えた。
 「ええ、名前は忘れてしまったけど……」
 「いいんだ、気にしないでくれ。気分はどうだい?」
 「それが、こんなに気持ちよく目覚めたの、子供の時以来じゃないかしら」
 「それは良かった。さて、首を診せてもらえるかな――」
 顎に指をかけて横を向かせる。首筋に刻まれていた二対の咬傷は、跡形もなく消滅していた。
 「いいね。朝食を運んでもらおう。それを食べたら、帰り支度をするといい。退院だ――家族にも連絡を入れておこう」
 「ありがとう、先生(ドクター)」
 「いや、僕はアシスタントなんだ。科長にそう伝えておくよ」
 リックが窓のカーテンを開けると、エリカはその明るさに目を瞬いた。
 「襲われた時の事を思い出すとぞっとするんだけど、昨日の事は、よく憶えてないの……なんだか夢を見てたみたいで。でも、どんな夢だったか……」
 「深く考えずに、忘れてしまえばいいよ。希望するなら退院後も相談に乗るけど、たぶんその必要はないだろう」
 一時間後、手続きを終えたエリカは、恋人に伴われて病院を去った。吸血鬼による咬傷、その治療にかかる費用に適用できる医療保険は存在しない。彼女は二度と人気のない夜道を一人で歩くことはしないだろう。
 リックは彼らをメイン・エントランスまで見送らず、オフィスで警察からの連絡を受けていた。
 今回の案件で処理された標的は、市内に住むいわゆる非行青年で、それまでも何度か暴行や覚醒剤の所持で警察の厄介になっていたという。検死の結果によれば、その死体は死後二週間が経過しており、例によって吸血鬼化の経緯の特定には至らなかった。
 人間が吸血鬼となるプロセスは、熟練のハンターであるロンにさえ未だ不明な面が多い。吸血鬼に咬まれた犠牲者が一晩で吸血鬼と化すこともあれば、一対の咬傷を留めたまま二十年以上が経過した後、突如変化を遂げた例もあるという。
 吸血鬼に咬まれた犠牲者は、如何に物理的な距離を隔てていようとも、主たる吸血鬼とある種の繋がりを保有する。両者の間に結ばれた、目に見えない呪われた絆が、人間の吸血鬼化を促す鍵ではないかと推測される。主が滅べば犠牲者は繋がりから解放されるが、襲われてからの期間が長引くほど、吸血鬼化のリスクは増していく。(C)あおいうしお。また、繋がりを留めたまま犠牲者が死を迎えれば、高確率で吸血鬼となり死の床から甦る。
 とはいえ、人としての死を迎えずに吸血鬼となるケースもあれば、ごく稀に穏やかに息を引き取り、そのまま二度と目覚めない犠牲者もいる。そこには主の、或いは犠牲者の意思が影響するとも考えられるが、確たる根拠はない。ハンターには各案件を適切に判断し、臨機応変に対処する能力が求められる。
 唯一絶対と言い切れるのが、吸血鬼と化した者は二度と人間には戻れないという、厳格にして断固、かつ残酷な現実である。
 生命の定義は各文化や宗教に委ねるとしても、少なくとも現代の医学と自然科学において、吸血鬼とは、ヒトとしての生命活動が欠如した状態であると見なされる。つまり吸血鬼化は人間としての死であり、そこにどんな私情を挟もうとも、死が死をもたらす負の連鎖を人は断ち切らねばならない。
 それ故、吸血鬼は狩られる運命にあるのだ。


Summer 2020

シティ・ホスピタル〈特殊咬傷科〉 
https://heartdelsol.com/works/novel/swd01.htm

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