埋添 -まいそう-

 倒壊したビルの下敷きとなりながらも、奇跡的に残された空間で彼は目覚めた。
 光はない。地下層であろう。気を失っていたのは数時間程だろうか。時刻はまだ夜であると、彼の人ならざる感が告げている。
 天井まではようやく上半身を起こせるだけの僅かな隙間しかなく、山積したコンクリートの圧迫感が音もなく頭上にのし掛かってくる。彼の能力を持ってしても、自力で逃れることは不可能だろう。
 前方に身を傾けると、背筋に鋭い痛みが走った。両翼が崩落した構造物に巻き込まれ、背後の壁に拘束されているのだ。もっとも夜の貴公子たる彼の場合、負傷した部位を切り落としても再生するのは時間の問題なのだが、それには不可欠な要素が――新鮮な血液が必要だった。
 意外にも、それは身近にあった。
 暗闇の中でも、彼の目にはブラウスにジーンズ姿の女性が奥の壁際に横たわっているのが見えた。(C)LadySolMina空気は薄いが密閉されてはいない。健康な人間ならば生存は可能だ。
 やがて女性は気がついたと見え、身じろぎ、状況を把握しようと手探りで周囲を調べ始めた。
 慌てふためく女性を宥めようと、彼は静かに話しかけた。
 「――そのまま動かずに、落ち着いて聞いて下さい」
 女性の手が止まった。
 「どうやら僕たちは、倒壊したビルの瓦礫の下に閉じ込められたようです。救助が来るまで、このまま待つしかないようですね」
 「ここ、崩れないかしら……」
 怯えた声だった。
 「大きな衝撃を与えない限り、その心配はないでしょう。――それよりも、お怪我はありませんか?」
 「左足が――何かに挟まって動かせないの。痛くはないから、怪我はしていないみたいだけど」
 「それはよかった。僕も体の一部を巻き込まれて、身動きが取れないのです」
 「あなたこそ、お怪我をしているんじゃ……」
 「いえ、大した事はありません。この分では救助が来るまでには時間がかかるでしょうから、動かずに体力を温存するには好都合です」
 「そう……?」
 女性は一息ついてから、落ち着いた口調で話しかけてきた。
 「どなたか存じませんけど、ご親切にどうもありがとう。私だけで閉じ込められていたら、きっと今頃は気が狂ってたわ。――ねえ、自己紹介しましょうよ。私は望(のぞみ)」
 「僕は――」
 名乗りかけ、彼は思い留まった。万が一彼女がその名を耳にしたことがあれば、彼の素性も知っているに違いない。閉ざされた空間に、人間と吸血鬼が一人ずつ。並の人間ならば、その先に起こる事態を予測してパニックを起こしかねない。
 「――いえ、名乗るのはここを出てからのお楽しみ、とでもしておきましょう」
 「あら、もったいぶるのね……まあいいわ。それよりも、どうしてこんな事になったの? 私、街を歩いていただけなのに、ものすごい音がして足元が崩れたと思ったら、なんだか分らないうちに……」
 「地下で爆発が起こったようです。火器ではなく、魔術の類だったようですが――土台を失った周囲の建造物の崩落に巻き込まれたのでしょう」
 「魔術……? さすがは〈魔界都市〉ってところかしら。私は〈区外〉から来たの、観光でね。あなたはこちらにお住まいなの?」
 「はい。といっても、近年までは倫敦(ロンドン)に住んでいたのですが」
 「へえ……きっと、〈新宿(ここ)〉に馴染むのは大変だったでしょうね」
 「そうでもありませんよ。馴染みの仲間もいますし、僕にとっては住み良い稀有な土地です」
 「本当? 私はさっき着いたばかりなの。ツアーバスを降りたら右も左も分らなくって。でも、見て回りたい所、沢山あって……」
 「僕でよろしければ、是非ご案内しますよ」
 「わあ、嬉しい。実はね、前に〈新宿〉の観光ツアーに参加した友人が、お土産にくれたおせんべいがとても美味しくて。そこの店の主人が、もうどうしようもなく美形だから、死ぬ前に見ておかないと後悔するよって勧められて、それがきっかけで――」
 そのせんべい屋が繰り広げた戦闘のとばっちりを受けて災難に見舞われているとは露知らず、望は夢中で今回の観光プランを語りだした。
 一通り話し終えると、閉ざされた闇に沈黙が落ちた。彼も自身の身体の異変に気づき始めた――地上に朝が訪れようとしているのだ。
 「――ねえ、寒くありません? ここ、ちょっと冷えますね」
 望の声は明らかに震えていた。熱も光も届かない地下では無理もないが、彼女が感じているのは本当に地表下の冷気だけなのだろうか。
 その時、望の傍に手触りの良い衣服が投げてよこされた。このテキストは、はーと、でる、そる、どっとこむ、からコピーされたものです。上質な上着かコートのようだ。
 「よろしければ、お使い下さい」
 見えない相手の親切に、望は困惑の表情を浮かべた。
 「お気遣いは嬉しいですけど、あなたも寒いでしょう」
 「僕は寒さには疎い方ですから」
 しばらく考えてから、望はうなづいた。
 「――それじゃあ、お言葉に甘えて」
 そしてコートを自分の上に被せた。
 「ありがとう、温かいわ」
 「そのまま少し休まれるとよいでしょう。僕も失礼して眠りますから……」
 朝日が地表を照らす頃になっても、地下で闇に包まれたまま横たわる望は朝の訪れなど微塵も感じなかったが、彼は昏睡するように眠りに落ちた。一族の中でも特に秀でた能力の持ち主たる彼ならば、昼夜を問わず意識を保ち続けることは可能なはずだが、崩落に巻き込まれた際の身体へのダメージが大きかったのだろう。
 しばらく経ってから望は彼に話しかけてみたが、返事はなかった。眠りについたのだろうと、彼女も上着を首もとまで寄せて瞼を閉じた。どう考えても危機的状況なのに、あの声の主が傍にいると考えるだけで、不思議と安心感が胸を満たすのだった。
 それでも彼女の精神が緊張状態にあることは変わりなく、望はうなされては目覚め、目覚めてはまた浅い眠りにつくことを繰り返した。
 日暮れに差しかかる頃、二人は半日ぶりに言葉を交わした。
 「――体調の方はいかがですか?」
 彼の問いかけに望は答えた。
 「悪くないわ。それよりもあなた、ぐっすり眠っていらしたみたいで、死んでるんじゃないかって、心配してたのよ」
 「少し疲れていたようですね。あなたこそ、眠れましたか?」
 「正直なところ、あまり眠った感じはしないわね。でも大丈夫、ちょっと喉が渇いたくらいだから。まだまだ平気よ」
 「そうですか……」
 渇きを感じているのは望だけではなかった。彼女が怪我をしていなかったのは幸いだったかもしれない。もし出血でもしていたら、彼はその衝動を抑えられただろうか。
 二人は時折声を掛け合い、他愛無い話をしながら、時間だけが流れていった。

 望は時間の感覚を失ったらしく、睡眠と覚醒を短い周期で繰り返すようになった。飲み食いなしで人間が生存できるのは三日程が限度であると彼は知っていた。
 その三日目が訪れ、彼が目を覚ますと、望は肩で息をしていた。
 「ねえ……起きてる……?」
 声を出すのが精一杯の様子だ。
 「どうしました?」
 「なんでもないの……ちょっと声が聞きたかっただけ……静かだと、居たたまれなくって」
 「地上では瓦礫の撤去が始まっているでしょう。もう少しの辛抱ですよ」
 事故や災害の発生から七十二時間を過ぎると被害者の生存率は激減するという。行方不明者の捜索が打ち切られる可能性があることを、彼は黙っていた。
 「ええ、まだ死ぬ訳にはいかないわよ……だってまだ、あなたの名前……聞いてないし……」
 「そうでしたね」
 彼が口を噤むと、縋るような声が聞こえた。
 「お願い、何か話していて……あなたがそこにいないかもしれないと思うと怖いの。本当は誰もいなくて、私の頭が勝手に声を作り出しているんじゃないかって……」
 「僕はここにいますよ。相変わらず動けませんし――」
 「ごめんなさい、変なこと言って……こうして上着も借りているのに……でも、それぐらい心細いの」
 ふと思いついたように望は切り出した。
 「あなたも動けないって言うけど、手を……伸ばしたら届くかしら」
 そうして声の方向へと差し伸ばされた手は、少し無理をすれば彼にも届く距離ではあった。 
 少し迷ってから、彼は腕を伸ばしてその指先に触れた。望の指は驚いたように一瞬引き戻されたが、すぐに彼の指を握り返してから離れた。
 「――よかった、ちゃんといるのね。暗くて、目を閉じているのか開けているのか、分らないくらいだから……」
 告げるなり、望は押し黙ってしまった。きっと考えていたのだろう――暗闇の中、迷うことなく彼女の手を見つけられた訳を。著あおいうしお。 そこに触れた彼の指がまるで死人のように熱のない理由を。
 限界かもしれないと彼は思った。もっとも彼女が彼の素性を知ったところで、身動きのとれない二人の何が変わるというのだろう。
 それから空白の時間だけが流れた。

 「手を……握ってくれませんか……」
 三日目が過ぎようとしていた。
 彼が差し伸べた手の指先を力なく握り返す望は、掠れた声で呟いた。
 「私、そろそろ駄目かも……ねえ、お願い、本当のことを言って……身動きがとれないって、嘘でしょう……」
 「それは――」
 「いいのよ、別に怒らないから……あなたが貸してくれたコート、ずっと着ていた割には冷たいなって思って……だから、あなたの手に触れるまで、幽霊でもいるのかと思って、心配になっちゃって……」
 望は乾いた唇を舐めた。
 「でも、こうしてあなたに触れて、やっと分かった……あなた、〈戸山住宅の住人〉でしょう。私、噂しか聞いた事がないけど……」
 彼は応えなかった。
 「だったら嬉しいわ。だって目の前に人がいるのに、あなたはずっと何もせずにいてくれた訳でしょう……私、こんなに喉が渇いたの初めて。それだけで気がおかしくなりそうなのに、あなたはずっと冷静で……だから、こんなに優しい人に看取ってもらえるなんて、私、幸せだなって……」
 不意に望の手から力が抜けた。
 「望さん――」
 「もし本当にそうなら、お願いがあるの……聞いてくれない?」
 「あなたはまだ……」
 「今はね。でも、後どれくらい持つか分らないから……もし最後まで助けが来なかったら、私が死ぬ前に、私の血を飲んでほしいの」
 「そんなこと……できません」
 「できるわよ……だってそうすれば――無駄死にじゃないって分れば、きっと安らかにいけると思う……〈新宿〉なんかに来るんじゃなかったって、後悔しながら死ぬよりも……」
 「確かにここは、あなたが来るべき場所ではなかったかもしれません。けれど……」
 呼吸すら覚束なくなった望は、生気のない笑い声を上げた。
 「〈区民〉に言われちゃった……やっぱり余所者は、首を突っ込んじゃいけない世界だったのね……」
 その頬に涙が伝うのを、彼は闇の中で見てとった。
 「ごめんなさい、迷惑をかけて……でも私には無理でも、あなたならきっと、救助が来るまで持ち堪えていられる……だから私の血を飲んで、ここから出たら、私の分も長生きして下さい……約束して」
 「――いいえ」
 彼は言った。
 「その代わり、約束しましょう――あなたをひとり、見殺しにはしないと」
 そして押し潰された両翼を引き裂いて石塊の呪縛から逃れると、衰弱による昏睡状態に陥りかけた望の傍らに寄り添った。
 「あなたにそれだけの覚悟があるのなら、この〈都市(まち)〉は受け入れてくれるはずです――後悔などさせませんから」
 弱りきった望の身体を抱き寄せると、命の仄かなぬくもりを感じた。
 それが失われる前に彼ができること、それは――

 地下に救助隊が到達したのは、それから丸三十時間が経過してからだった。
 翌日の朝刊によれば、瓦礫の下から救助された生存者は二名で、どちらも搬送先の病院で命に別状はないと診断された。
 〈区民〉がその小さな記事に全く関心を示さなかったのは、二人が〈戸山住宅の住人〉であったからに過ぎない。それが〈新宿〉の日常なのだ。

 その晩、地下に置かれた望の病室を訪ねる者があった。約束どおり、その素性を明かすために。
 彼の名は夜香――〈戸山住宅〉の夜の一族を統べる若き首領である。

あとがき 実は「おれ」「私」「僕」と一人称を使い分けているらしい夜香さん、「僕」の時が素っぽくて好きかな。夢小説にしてもよかったけど、会話以外にヒロインとの絡みもなく、あっさりめのショートになりました。
Info 2024.8.17 Rewrite / 約5000字
(Originally written in the late 2010s)