約束人 -ちかいびと-

 村のはずれの丘の向こうは、三人だけの秘密の花園だった。
 四季を問わず野原一面に咲き乱れる小さな花たちは、灰色の冬でさえ雪に埋もれた種から淡い七色の燐光を放つ。
 蝋燭職人の娘リシェル、資産家の養女アトラニア、そしてベーカリーの看板娘モリーの三人は、毎日連れだって花園に出向いては、花の冠をこさえ、誰かの母親が持たせてくれた焼菓子やサンドイッチを分け合い、いつか訪れてみたい〈都〉の情景を想像して過ごした。
 草原の奥には‘静寂の森’と呼ばれる、村人は決して立ち入ることのない区域があったが、大人たちは三人を花園に近づけぬための口実を見つけられず、いつものように門限を言い渡すだけで幼い好奇心を阻むことはできなかった。
 ‘森’に危険があるのかといえば、そうではない。それどころか村よりも安全であると断言さえできる。だが一歩でも足を踏み入れたならば、誰もがその不自然さに次の一歩を躊躇ってしまうのだ。
 耳を澄ましてみるがいい。不気味なまでに静まり返った森には、あるべきものが欠けている――生命の気配が。
 鳥がいない。虫がいない。獣がいない。
 あらゆる動物、昆虫、妖獣、その他辺境に生息する生物の類は、森中の樹木を伐採しようが、堆積した落ち葉を退けて土を掘り返そうが、蜘蛛の子一匹、蚤の卵ひとつ見つけることができないのだ。
 種や花粉の媒体者を持たず、植物たちは如何なる生態系を築いたものか、この鬱蒼と生い茂る黒い森の中では、ある一定以上の質量を備えた生物は存在しないのである。
 村民の伝えるところによれば、そこは古来より聖域とされ‘森’の周囲に生息する生物たちも人間同様に何らかの気配を察知して近づかないのだとか、数世紀前までは害獣駆除業者の実験場であったとか、肉眼には見えない捕食者がいるのだとか、実に様々な説が存在しているが、中にはかの〈神祖〉が戦利品としてOSBの飛行体から持ち帰った未知の兵器を格納する施設が地下深くに存在するのだという異端の説を唱える学者さえいる始末で、その真相は未だ謎に包まれている。

 けれど悲劇は‘森’で起こった。
 風が村の大通りに夕餉の匂いを運ぶ頃、村の妖獣の飼育施設から一頭の大型獣が逃げ出した。
 オレンジ色に染まる丘の上にそいつが姿を現しても、三人にはそれをなんと呼べばいいのかさえ見当もつかなかった。熊に似た毛むくじゃらの巨体から蜘蛛の脚と蠍の尾が突き出し、勇敢な村人が撃ち込んだ銃創や外殻で食い止められた槍の根元から、血液とも体液ともつかぬ蛍光色の液体が噴き出している。
 悲鳴を上げるよりも先に体が動いたのは、辺境の厳しい環境で養った反射神経によるものだろう。立ち上がると同時に駆け出した三人は、一目散に‘森’の奥へと走り続け、やがて手頃な樹木によじ登ると息を殺した。
 怪物は姿はおろか‘静寂の森’にあってもその気配さえ感じられなかったが、三人はいつまでも押し黙ったまま枝にしがみ付いていた。
 上空を仰げばすでに夜の帳が下り始め、普段なら一番星を探しながら村への帰路を辿る時間であることを告げている。刻一刻とその濃さを増す夕闇に居た堪れなくなったモリーが、小声で木から下りてみようと提案した。
 アトラニアは大人が助けに来るまでここで待とうと言い聞かせ、リシェルも彼女に賛成した。それでも門限に厳しい両親を持つモリーだけは、いつまでも村に戻ると言って聞かなかった。(C)LadySolMina初めから森の中までは追ってこなかったのかもしれないと二人を説得するも、結局一人で木から下りて駆け足でもと来た道を辿り始めた。
 ところが、小さな後姿が二人の視界から消える前に、モリーは何かに足を取られて転んだ。それが一面に張られた糸の罠であると理解するよりも先に、モリーは木陰から姿を現した怪物の尾に絡め取られていた。
 暗闇の向こうで親友が食われる咀嚼音を聞き、悲鳴を押し殺していたリシェルとアトラニアのいる木の根元に怪物の九つの瞳が現れると、次の獲物が自分たちであると知った二人は震え上がった。
 だが触肢のひとつが幹に触れたその時、風を切る鋭い音が、次いで凄まじい咆哮が耳を劈き、怪物は蛍光色の泡を吹いてそれっきり動かなくなった。
 「――もう危険はない。降りてきたまえ」
 そう遠くない場所から聞きなれぬ声が告げても、二人はいつまでも動けずにいた。
 「明りが必要ならば、待っていろ」
 間もなく二頭立ての馬車が森の奥から現れ、その御者台でランプを手にする人影を眼にした途端、緊張の糸が切れた二人は意識を失い、気がつけばすでに馬車の脇の昇降段に並んで腰掛けていた。
 目の前にはケープを肩に羽織った長身の男が立っていた。
 「友人のことは残念だったな。私がここを通りがかったのは偶然だったのだ。君たちだけでも助かったことを喜ぶべきだな」
 「……あの、ありがとうございました」
 尚も震える身体を抱きしめながら、リシェルは礼を述べた。
 「村まで送りたいところだが、そうもいかないのだ。ここに留まっていても、すぐに村の者が君たちを見つけるだろう」
 「お願い、置き去りにしないで――」
 蒼い顔をしたアトラニアが泣き付いた。
 「この界隈を支配していた領主はすでに何世紀も以前に滅んだと聞くが、人間どもの間には当時の残虐な行いが語り継がれているだろう――私は貴族なのだ」
 貴族と聞いても、その脅威の去って久しい村で育った二人にとっては、大人の聞かせてくれる御伽噺か絵本で知るのみの、別世界の住人でしかなかった。怪物が親友を貪り食う様子を目の当たりにした今、たとえ話に聞く貴族が如何なる存在であろうと、目の前の人物を命の恩人として慕うのも無理はなかった。
 きょとんとしながら顔を見合わせた二人は、貴族と名乗った男を見上げた。
 「わたし、何かお礼がしたいです。貴族なら、血を飲むんでしょう? それなら、わたしのをあげます」
 リシェルは村人が聞いたら卒倒しそうな言葉を惜しげもなく言ってのけた。
 するとアトラニアも続いて、「じゃ、あたしのもいいわよ。貴族に会うの、初めてだもん」と、立ち上がった。
 氷のような貴族の表情が和らいだように見えたのは、ランプの影の作り出した幻影だったかもしれない。
 「いや、折角の申し出だが、遠慮しておこう」
 「でも、それじゃあ……」
 しゅんと俯くリシェルを横目に、アトラニアは口を尖らせて言った。
 「そうよ、借りを作ったら必ず返せってパパにも言われてるわ。貸しっぱなしなんて嫌よ」
 「子供の血など私には何の魅力もない。君たちがあと十年も歳を経ていれば、考えて直してみるかもしれぬがな」
 そう聞くや否や、リシェルは明るい表情になって貴族を見上げた。
 「それなら、わたしたちが大人になったら、またここに来ていただけませんか。そうしたら、今度は――」
 「このこと、誰にも言わないからさ」と、アトラニアも嬉々として口を揃える。
 「なるほど、それなら悪くない。ならば十年後のこの日、再びこの場所で君たちを待とう」
 「約束……してくれますか?」
 リシェルが不安気に問うと、貴族は右手を掲げて宣言した。
 「〈神祖〉の名と貴族の誇りにかけて、誓おう――さあ、退いていたまえ。私は行かねばならない」
 御者台に上がる貴族に、二人は声をかけた。
 「ありがとう。私はリシェル」
 「アトラニアよ……さようなら」
 「私は――ウォールドと名乗っておこう。では十年後にまた会おう」
 貴族が鞭を振るうと馬車は方向を転じ、木々の合間を抜けて森の奥へと消えた。
 それから五分と経たぬうちに村中の男たちが手に手に松明や大型の銃を従えて現れ、森に残された二人と怪物の死骸を発見したが、モリーの父親だけは血にまみれた靴の片方を見つけることしかできなかった。
 翌日、人目を盗んで森の中の同じ場所を訪れた二人は、貴族の痕跡を探すも馬車の轍さえ見つけることができず、二人で同じ幻を見たのかもしれないと、帰り際にモリーの空の棺に供える花を摘みながら話し合った。
 後の調査で、妖獣の逃げ出した檻のロックが不完全であったことが判明したものの原因は突き止められず、飼育場の主もその人望が厚かったことも幸いし、その処分は厳重注意に留まった。
 また解剖の結果、怪物の死因は村人の一人が打ち込んだ槍が最終的に致命傷となったことが判明したが、貴族が闇の中で一石を投じてその穂先を心臓へ到達させたとは、彼に救われたリシェルとアトラニアでさえ夢にも思わなかっただろう。
 やがて二人が親友の死から立ち直る頃には、リシェルは家業の手伝いに勤しむようになり、アトラニアもボーイフレンドを作るのに夢中になり、連れ立って花園に出かける機会は次第に減っていった。
 それでも命の恩人への想いをリシェルが忘れることは決してなかった。

 月日は流れ、事件から九年と十一ヶ月が過ぎた。
 モリーを失った両親の間には、モリーによく似た三人の娘が生まれ、アトラニアの義父の事業は〈都〉にまで発展してさらに裕福になったが、リシェルはといえば、尚も変わらぬ想いを抱いたまま、蝋燭の香料を調合する毎日を過ごしていた。
 何事もなく十年目に当るその日を迎えられたらいいと、リシェルは心から願っていた。家族も村も寝静まる頃、そっと家を抜け出して森へ向うのだ。
 彼が来てくれるかどうかは分からない。それでも命の恩人との約束を違える訳にはいかなかった。
 アトラニアは残ったほうが幸せかもしれないとリシェルは考えていた。約束をしたのはリシェルなのだし、ことによっては‘森’での出来事さえすっかり忘れているかもしれないのだから。
 事件が起こってからというもの、リシェルは恩人への想いを胸に秘めながら、輝かしく充実した毎日を過ごしてきた。©レディソルミナあの日、失うはずだった命を長引かせてくれたその人を想うとき、今でも変わらずに抱く疼くような気持ちを、もうすぐ伝えることができるのだ。
 しかし現実とは思い通りにいかないもので、約束の日まで一ヶ月を切ると、口外しないと約束したはずのアトラニアが、森で起こった出来事を友人たちに吹聴し始めた。口先ばかりのアトラニアの言うことだからと始めは冗談半分に聞き流していた村人も、リシェルの顔色を見て事件の真相を疑うようになった。
 杭打ち銃が飛ぶように売れ、事件に関わった二人を幽閉すべきとの声も聞かれるようになった。アトラニアの両親はありったけの金を出してハンターを雇ったとの噂が流れ、成り行きでアトラニアとリシェルは再び行動を共にするようになっていった。

 工房を兼ねた蝋燭屋の入口に現れたアトラニアは、息を弾ませながら店内へ飛び込んできた。
 「リシェル! ねえ聞いた? さっきハンターが村に着いたんですって。何でもすごく美形らしいのよ。私、覗いてくる」
 「ちょっと、アトラ――」
 リシェルは作業の手を止め、短く溜息をついた。
 ハンターなんてとんでもない。記憶違いだと話したら、引き取ってくれるだろうか。
 言い訳を考えながら友人の家に向うと、惚けたような表情のアトラニアがリシェルを出迎えた。
 「ああ、リシェル、丁度いいところに来てくれたわね。ハンターさんがあなたの話も聞きたいって」
 視点の定まらない眼差しで笑いかけると、顔中を紅潮させたアトラニアは夢見るように呟いた。
 「百年に一度――いいえ、一億万年に一度の恋だわ。悪いけど、先に会ったのは私なんだから」
 「アトラ、あなたゼックと付き合ってたんじゃなかった?」
 「あんな男……あのハンターさんに比べたら……月とスッポンどころか……トイレのスッポンよ……」
 うわ言のように呟き続けるアトラニアに案内され、リシェルはアトラニアの義父と入れ替わる形で応接間に通された。
 窓辺に立つ黒衣の若者の姿は、リシェルの想像していた無骨なハンターのイメージを遠く裏切るものであった。胸元の青いペンダントの冷たい輝きのように冴えた美貌は、皮肉にも‘森’で会った貴族を彷彿とさせる。
 「君は出ていてもらおう」
 「え? あ、はい、喜んで――」
 錆を含んだ声に命じられると、椅子に掛けようとしていたアトラニアは、覚束無い足取りで退室した。
 扉が閉ざされると、ハンターは部屋の真ん中に立ち尽くすリシェルに訊ねた。
 「君がリシェルだな」
 「はい」
 澄んだ眼差しを感じると、リシェルは思わず頬を赤らめて俯いた。とても視線を合わせられなかった。まるで全てを見透かされているような――
 「十年前、‘森’で起こった出来事を、全て話してもらおう」
 「あの、お話したらどうなるんですか?」
 言ってから、自分でもまぬけな質問だと思った。答えは分かりきっているのに。
 「すでに依頼は受けている。まずは相手を知らなければ」
 「そう……ですよね。あの日、私はモリーとアトラニアと一緒に――」
 リシェルは言い訳を考えて来たことさえ忘れて記憶を辿り始めたが、語りながら胸の中で罪悪感が膨らんでいくのを感じた。
 「ケープを着ていたので、彼は貴族なんだと思いました。私、お礼がしたいって言ったんです。でも、子供からは受け取れないと言われたので、それなら十年後にまた来て下さいって、約束したんです」
 「アトラニアによれば、彼は自ら貴族であると明かしたそうだ」
 「それは……そうかもしれません。十年も前のことなので、あまりよく憶えていないんです。モリーのこともあって、できれば忘れてしまいたいくらいなので……」
 「礼には何を約束した?」
 「それは――」
 私の血です、とはとても言えず黙り込むリシェルに、ハンターは歩み寄って左の掌をリシェルの額に掲げた。
 「何を……?」
 しかし、ノックの音と同時に扉が開かれ、ハンターは手を下ろした。
 戸口には盆を手にしたアトラニアが立っていた。
 「あの、お茶を淹れましたの」
 構わず、ハンターは訊ねた。
 「なぜこれまで誰にも口外しなかった」
 テーブルにカップを並べ始めたアトラニアがリシェルに代わって答えた。
 「だって相手は貴族よ? 怖いじゃない、やっぱり。誰にも話すなって約束させられたのよ」
 「おれは村の宿にいる。他に思い出したことがあったら、教えてもらおう」
 アトラニアが茶菓子を並べ終える前に、ハンターはそう言い残して立ち去った。
 「――ねえ、リシェル。よく考えてみてよ」
 運んできた菓子を自分で摘みながら、アトラニアはリシェルに語った。
 「パパと一緒に〈都〉や色々な町を行き来する内に、他所では貴族がどんな風に思われてるか、色々と学んできたのよ。少なくとも私たちが貴族と関わりがあったなんて知られたら、他所の町ではとても生きていけないわ。それなら、あえて大々的に宣伝して、私たちが被害者だってことを知らしめなくちゃ。同情と反感、抱かれるなら前者がいいわよ」
 「ありがとう、アトラ。確かに私、どうかしてるのかもね」
 リシェルも紅茶を啜りながら、茶菓子の相伴に与った。
 「明日の晩になっても‘森’には行かないで、全部あのハンターさんに任せておけばいいのよ」

 その晩、リシェルは自室のベッドの上でいつまでも寝付けないでいた。引き取ってもらうどころか、あのハンターに‘森’での出来事を明かしてしまったのだ。
 血を約束したこと、打ち明けるべきだろうか。首に傷がないことを見てもらった上で、相談に乗ってもらえるだろうか。でも、ハンターが貴族と人間の逢引を許してくれるはずがない。
 たとえあの貴族との再会が叶ったとしても、目の前で彼が滅ぶようなことになれば、リシェルは残りの一生をどう過ごしていけばいいというのだろう。後ろめたい思いを、裏切りを目の当たりにした彼の眼差しを背負って生きることなど、できる筈もない。怪物に食われてしまったほうがよほどマシだ。
 そこまで考えて、あることを思いついたリシェルは、着替えて寝静まった夜の村に出かけた。上手くいくかは判らないが、恩人のためにならば最善を尽くすのが当然だ。
 リシェルはハンターの泊まっている宿に向いかけたが、ふと足を止めると、踵を返して村のはずれの丘に向った。(C)LadySolMina思ったとおり、満天の星空の下、見通しのいい丘のふもとに黒衣の姿はあった。
 月明かりを頼りに花園の中を駆けてくるリシェルの足音に振り向きもせず、ハンターは‘森’へ歩き続けた。
 「森に……入るんですか?」
 リシェルが訊ねると、ようやくハンターは立ち止まった。
 「貴族に会った場所を憶えているか」
 「ええ、だけど十年も前のことです。もう何も残っては――」
 「明日、そこに貴族が現れるそうだ」
 「でも、彼だって忘れているかもしれません」
 「貴族は誓いを守る。命を懸けてでもな」
 そうして、再び歩みを進める。
 「待って下さい」
 ‘森’の手前でリシェルが呼び止めた。
 「貴族にお礼を約束したの、私なんです。その、私……」
 ハンターは足を止めた。
 「血を――約束してしまったんです。彼に救われた命だから、私の血は、最後の一滴まで彼のものなんです。あの方のおかげで、私、今日まで生きてこられました。アトラニアが誰にも言わずにいてくれていたら、明日、村から私が消えて、それだけで終わるはずだったんです」
 リシェルの頬には、涙が伝っていた。
 「お願いです。どうか何もせずにお引取り願えませんか。なんとか工面して、アトラニアの両親が払った報酬と同じだけの金額を払います。いつかの蜘蛛の怪物みたいに、彼を罠にかけるようで嫌なんです。招いたのは私なのに、そのために命を奪われるなんて――まるで私が裏切ったようで」
 「契約は成立した」ハンターは振り向かず答えた。「君が報酬を立て替えても、契約内容は変えられない」
 「――待って!」
 再び歩き始めたハンターの背中に、リシェルは縋るような気持ちで言い放った。
 「あなたが彼を滅ぼすなら、私、自殺します。それでもお仕事をなさいますか?」
 しかし、ハンターは無言で木立の奥へと消えていった。

 「よう、こんな時間に奇遇だな。例のハンターと逢引かよ」
 一頻りの涙を流し、丘からの帰路についたリシェルに話しかけてきたのは、アトラニアの元恋人ゼックだった。ゼックは飼育場の一人息子で、アトラニアとは数ヶ月単位で交際と破局とを繰り返している仲であったが、リシェルとは時々挨拶を交わす程度の顔見知りである。
 「あなたこそ、こんな真夜中にどこへ行くのよ?」
 「見回りさ。アトラニアが貴族が来るって言いふらすもんだからよ、交代で見張りをすることになってるんだ。でもここでおまえに会ったことは誰にも言わずにいておいてやるよ」
 「あら、アトラニアに振られたものだから、今度は私に優しくしておこうってわけね。残念だけど私、誰とも付き合う気はないの」
 「あんな女――俺があいつと付き合っていたのは、〈都〉のデータベースにアクセスしたかったからなんだ。この村でそれだけの設備があるのは、あいつの親父の書斎だけだからな」
 「それなら、アトラニアはただ利用するためだけに付き合ってたってこと?」
 「いや、真剣に想いを寄せていたこともあったさ。でも向こうが本気でないと知ると一気に冷めたよ。それに、俺の知りたかった情報もみんな手に入ったしな」
 「情報?」
 リシェルは立ち止まってゼックを振り返った。
 「そうさ。ほら、十年前に逃げ出した妖獣がいただろ? あれはな、未来を察知する能力があって、貴族が近づくと知ると決まって手に負えなくなるらしい。造り出した貴族自身が手放したって程だから相当ヤバいらしいんだが、あれに関する記事や報告書を読んで俺はすっかり手懐けちまったんだ。――でも、だから確信したんだ。アトラニアの言っていた事が本当だってな」
 ゼックはリシェルの肩を抱いて耳元に話しかけた。
 「あの事件については、どうせおまえも何か隠しているんだろ? リシェル、おまえが好きなんだ。アトラニアには話してない事も、おまえには話せる。おまえを信用してるんだ。たとえば――モリーの死んだ日の事とかな」
 「やめて、聞きたくない」
 リシェルは腕を振りほどいて歩き出した。
 「俺を信じてくれよ。おまえを守りたいんだ、貴族になんて渡すもんか。それにあの事件は事故だったんだ。言っただろ、あいつらは貴族が近づくと決まって暴れだすって。俺、まだ小さかったけど、あんまり煩いもんだから檻の様子を見に行ったんだ。そうしたら急に大人しくなったんで、死んだのかと思ってロックを開けちまったのさ。それで――」
 「あれを逃がしたの、あなただったの――!?」
 思わず足を止めて驚愕の眼差しを向けるリシェルに、ゼックは言い聞かせた。
 「子供のしたことさ、時効だよ。誰にだって話したくない過去の出来事の一つや二つあるだろう――なあ、付き合ってくれよ。悪いようにはしない。一生面倒もみてやるし、今の仕事も続ければいい」
 ゼックに迫られながらも、リシェルはそこにひとつの可能性を見出した。
 「――ねえ、ひとつ、お願いがあるの。それを聞いてくれるなら……いいわ、約束する」

 翌日、リシェルとアトラニアは近年建設したアトラニア専用の別宅で一夜を過ごす事になった。
 相変わらずアトラニアは美しいハンターに熱を上げており、日暮れ頃、家の周囲を見回るハンターの様子を窓から眺めては、大げさに溜息をついた。
 「あの人、ずっとこの村にいてくれないかしらね」
 「旅の人なんでしょう。きっと次のお仕事が入れば、すぐに行ってしまうわ」
 リシェルは家から持参した蝋燭に灯りを点しながら答えた。
 「変ね、なんだかとっても眠くなっちゃって――」
 蝋燭の優しい香りが部屋に満ちる頃、アトラニアは重い瞼を閉じた。
 催眠効果のある香料を混ぜた特製の蝋燭の火を吹き消すと、リシェルはソファで寝息をたて始めた友人に毛布をかけた。
 カーテンを引きがてら窓の外を見ると、忘れるはずのない例の妖獣が三体、飼育場の方向からこちらに向ってくるのが見えた。家の前の通りでは、ハンターが怪物を迎え討つべく一刀を手にしたところだった。
 リシェルは裏口から家を抜け出すと、人目につかない道を選んで丘へと急いだ。

 ‘静寂の森’に辿り着く頃にはすっかり日も暮れ、蒼い夕べの最後の薄明かりだけを頼りに、リシェルは木立の間を縫って走った。
 見覚えのある馬車から、手にランプを提げて御者台から降りて来くる姿は、リシェルの記憶と寸分の違いもなかった。何もかもあの日のまま時を留めていたように。
 「嬉しい……本当に、来て下さったのね」
 「誓いは守る。君こそよく来た」
 「でも、こうしてはいられないの」
 リシェルは息を切らしながら手短に明かした。
 「アトラニアが、この事を口外してしまったんです。村ではハンターを雇って、杭打ち銃を持った人があちこちで見張りに立っています。私も閉じ込められていたところを抜け出してきたんです」
 そして、さし縋った。
 「私を連れて行っても構いません。どうかこのまま逃げて下さい。私のせいで、あなたが帰らぬひとになるような事になれば――」
 「いや、そうもいかぬようだ」
 貴族の言葉にリシェルが振り返ると、妖獣を相手にしていたはずのハンターが闇の中から現れた。僅か数分であの怪物を三体纏めて倒してしまったとは信じ難い。
 「お願い、彼をこのまま行かせてあげて。私の命の恩人です、約束を果たしたいの。私はどうなったっていい、死んでもいい。だけど、この人は何も悪くないのよ」
 「おれも君を無傷で家に帰すと、アトラニアの両親と契約を結んだ」
 ハンターに諭され口をつぐんだリシェルに代わり、貴族が話しかけた。
 「なるほどな、ならば私に考えがあるぞ。私がこのハンターにもう一つ誓いを立てれば、全てが解決する。君は馬車の中で待っていろ」
 ハンターに歩み寄る貴族に言われるまま、リシェルは昇降台を登って車内に入った。外見の数倍はありそうな空間に横たわる、貴族にしては控えめな装飾の座席の隅に掛ける。見れば絢爛な内装は埃にくすみ、ひびや綻びが目立つ。©レディソルミナ長期にわたり整備していないのだろう。
 すぐに貴族も戻り、リシェルの隣に腰を下ろした。
 「彼に何を約束したの?」
 「今は聞きたくはあるまい。それよりも、君との約束を聞き遂げよう」
 そうして、リシェルを抱き寄せた。
 「聞いてくれ。私はこの‘森’を管理する一族の末裔なのだ。しかし、つまらぬ覇権争いから一族は滅ぼされ、私も追われる身となった。全てを失った私は絶望の中、自ら果てる地を探すべく彷徨い、偶然にもこの森を通りがかり君たちに出会った。それからというもの、君との誓いを果たすという目的を得た私は馬車を駆り続け、そして遂に一族の敵を討つに至った――君のおかげで、私はこの十年間を意義のあるものとして過ごすことができたのだ」
 貴族の言葉を、リシェルは信じられないような面持ちで聞いていた。
 「そんな……私はただ、救ってもらった命を、あなたのために使いたかっただけなの。好きにして下さい。あなたに殺されるなら、喜んで死にます」
 「命までは奪わん。だが、その血潮は魅力的だ――」
 そうして重ねられた唇が、ゆっくりと項をすべり降り、ある一点で止まる。
 それから起こった出来事は、ほんの僅かな刻(とき)でありながらも、二人の十年間を足しても遠く及ばぬような、濃密な幸福に満ちたひとときだった。
 「ねえ、約束して下さい、また会いに来てくれるって……いいえ、このままずっと離さないで」
 貴族の胸に身を持たせかけ、その手を取って頬に当てながら、リシェルは夢見るように呟いた。
 「――それは、できぬ」
 「それなら、私から会いに来ます。だから、いつまでもこの森に留まって下さい。もう、どこへも行かないで……」
 「それならば――誓おう。さあ、これで最後だ、リシェル」
 貴族は背中からリシェルを抱き寄せると、喉元に顔を埋めた。
 やがて蒼い顔をしたリシェルは、心からの笑みを浮かべて呟いた。
 「ありがとう、ウォールド……私の名前も、憶えていてくれたのね」
 絡ませた指が解けかけるのを、貴族は強く握り返した。腕の中で、穏やかな寝息をたてて、リシェルは深い眠りに落ちた。

 目覚めると、朝の光の差し込む見慣れた部屋の中で、アトラニアがベッドを覗き込んでいた。
 「おはよう、あなた丸一日眠っていたのよ。でも、もう何も心配しなくていいの。貴族の事も忘れてしまえばいいわ」
 無意識にリシェルの手が首元を探る。傷は――ない。
 その意味するところを知る前に、アトラニアが笑いかけた。
 「大丈夫、どこも怪我をしていないわ。私、眠っちゃったみたいでよく覚えていないんだけど、気がついたらあなたがいないんで驚いちゃって。でも、家から出ないようにって言われていたから、ずっと待っていたのよ。そうしたら、深夜を過ぎた頃にあのハンターが無傷のあなたを連れて戻ってきたの。夜明け前に行ってしまったけどね。――誰も引き止めなかったの」
 アトラニアは立ち上がって窓辺に歩いていった。
 「ゼックが知らせてくれたのよ。なんでも一昨日の晩、手懐けたあの妖獣を貴族にけしかけるために放したんだけど、命令通りに動かなくて村を襲ったんで留置所に入れられたら、それはあのハンターのせいだって言い出してね。あのハンター、ダンピールだったんですって。どおりで綺麗すぎると思った。あの妖獣は貴族の血に反応するそうなの。それで、あのハンターを目当てにこの村に……」
 窓を開け放つと、アトラニアは振り返って窓枠に腰掛けた。
 「それから、もう一つ。昨日から‘森’に生き物の気配があるの。村長が来週〈都〉の調査団が入るって話してたらしいんだけど、そんなことしなくたって、もう訳の分からないのがうじゃうじゃいるみたい。丘の上からでも分かるのよ。パパがお金を出して村との境界に柵を建てるって話も出てるくらいだから、もう誰も入れないわ。丘の向こうには近づかないようにって、大人も子供たちに言い聞かせてるところ」
 アトラニアは部屋を出る前に、棚の上の花瓶を指し示して言った。
 「――そうそう、ゼックがお見舞いに来てたけど、しつこいから追い返しちゃった。そこの花だけ置いていったんだけど、リシェル、あんな男と付き合うことにしたの?」

 柵の建設が進められる丘の上から見下ろす野原は、記憶にある秘密の花園の姿を留めながらも、音を取り戻した森の危険な前庭に相応しく、木立が暗い影を落としていた。
 静寂の森に気配がある。牙を携えた獣の唸り声が、棘のある昆虫の足音が、毒を持つ妖精の羽音が、侵入者を阻む。
 これから生まれてくる子供たちの為に広場に花壇を造らせようと、〈都〉への移住が決まったアトラニアは村に多額の寄付を残していった。
 リシェルは家の仕事を手伝いながら、次第にゼックとも打ち解けるようになっていった。妖獣を逃がすよう彼に頼んだのはリシェルだったが、彼はそれを咎める事もなく彼女を受け入れた。(C)LadySolMinaリシェルが丘の上でいつまでも森を見下ろしていても、ゼックは決してその背中に声をかけることはなかった。
 以来、リシェルの作る蝋燭は胸の詰まるような香りがすると、一部の村民からは敬遠されるようになった。夜、静かな心持でその蝋燭に火を灯すと、森のざわめきが胸に押し寄せるのだ――まるで、行き場のない想いが、閉ざされた虚無の木立でこだまするように。
 溶けた蝋をかき混ぜながら、ふとある思いに囚われることがあった。
 どうしてあの時、モリーと一緒に木を降りなかったのだろう。私も一緒に食われてしまえばよかったのかもしれない。
 そんな夜は、必ず夢をみる。
 星明りに導かれて丘に登ると、そこには幼い頃の思い出そのままに花園が開け、その奥に静けさの森がひっそりと聳えている。
 リシェルを阻むものは何もなかった。
 木々を抜けると現れる馬車の傍らには、いつでも彼が佇んでいた。
 「君を救ったことを、後悔はしていない」
 そして、優しく抱きしめてくれるのだ。
 「私はいつでもここで君を待っている……約束どおりにな」

あとがき 掲載用に手直ししていたら「D」という文字を一度も使っていないことに気づいた…似た人だったりしてw
Info 2023.4.10 Rewrite / 約12,000字
(Originally written in the late 2010s)